最終話
コントラルトは愛用の剣の柄を握りしめ、大地に足を踏ん張り立っていた。わずかに震える彼女の手を見て、決戦前の武者震いかと思う者もいたかもしれないが、あいにくそうではなかった。
「なんだ、この騒ぎは……」
なんとか絞り出した声は、呻き声のようでもあった。
いよいよ今日これから、オイセルストと結婚をかけた決闘が行われるのだが、訓練場には今までにないほどの野次馬が集まっていたのだ。非番の騎士に見習い騎士い、それに普段は騎士団の敷地に立ち入ることがない王宮の侍女や侍従たちまで集まっている始末。その上――野次馬のある一角を見て、コントラルトは頭を抱えたくなった。
殆どの野次馬たちは、ただ集まっているだけだ。前にいる者は座り、後ろにいる者は背伸びをしたりして視界を確保しようとしている。しかし、その一角だけは周りに野次馬さえおらず、まるで違う世界が紛れ込んでいるかのようだ。
カルティーナ王女。彼女が、侍女や護衛騎士を引き連れてそこにいた。王女に遠慮して野次馬は彼女から一歩離れた位置にいるから、そこだけ異様に目立っているのである。いったい何を考えているのか、野外でお茶会でもしているような設えが出来上がっている。
王女は、優雅にお茶を飲みながら決闘の開始を待っているようだった。
「今日は一段と人が集まっているな、コントラルト」
用意を済ませ、決闘の場である訓練場にいざ乗り込もうとして、コントラルトは野次馬の多さに呆れ返り、そこでしばらく立ち止まっていた。そこに、イルゼイが現れたのである。いつものオイセルストの決闘ならば、真っ先に駆け付けて最前列で見物しているというのに、珍しい。
「イルゼイ……何故、カルティーナ王女殿下がいらっしゃる」
コントラルトは低い声で、下からイルゼイを睨み上げる。
「噂を聞き付けた王女が、是非観戦したいと希望したんだとか」
「この野次馬の多さは」
「王宮仕えの侍女たちの憧れの君オイセルストが、結婚をかけた決闘をするんだぞ? 関心がないわけないだろう。その上、決闘の相手は騎士団の紅一点にして我が国の《戦乙女》。興味を持たない奴の方が珍しい」
それではまるで、見せ物ではないか。思わずイルゼイにそう言おうとして、やめた。イルゼイに言ったところでどうしようもないし、決闘はそもそも大衆の前で行われることが多く、見せ物のようなものでもある。客観的にオイセルストと自分を見れば、皆が関心を抱く理由が分からないわけではない。
「それより、早く行ったらどうだ。オイセルストはもう待っているぞ」
イルゼイが野次馬が取り囲んでできた円形の中心を指さす。そこには、一人の男が立っていた。
○ ● ○ ● ○
コントラルトが野次馬の輪に近付いていくと、彼女の姿に気付いた人々が次々と道を空けていった。正面には、オイセルストの姿が見えている。
コントラルトはふと、三年前に《沈黙の森》へ入った時のことを思い出した。あの時のような完全武装はしていないが、オイセルストを倒すために立ち向かおうとしているのは同じだ。
出会ってから三年間、コントラルトとオイセルストが本気で剣を交えたことは一度もない。手合わせ程度に戦ったことはあるが、その時は見習い騎士たちに手本を示すのが目的だったので、本気を出すことはなかった。
今日が、本気で戦うのは初めてとなる。だが、お互いの実力を知らないわけではない。
オイセルストはたびたびここで決闘をしていて、コントラルトはその殆どの決着を見届けてきた。止めるつもりでやって来たコントラルトを、逆に周囲の者が止めて見届ける羽目になった、とも言うのだがともかく、その都度オイセルストの技は目にしている。
フィドゥルムで右に出る者はいない、とさえ言われるオイセルストの本気を引き出せるほどの技量を持った決闘相手はなかなかいなかったが、たとえ手加減していてでさえ思わず目を見張るほど、オイセルストは強い。
三年前、オイセルストの実力の一端さえ知らなかった頃は、国で一番との呼び声は多少大げさな評価だと思っていた。けれど今は、それが正当な評価だったと思うことが少なくない。コントラルトの口からそれを本人に言えば、これ以上にないくらいの自意識過剰ぶりを発揮しそうだし、そもそもそんなことを言うのはなんだか癪なので言ったこともないが、口に出したことはなくとも、コントラルトはオイセルストの実力を正しく評価しているつもりだ。
それでも、負けるつもりはない。
オイセルストになにかしらの特別な感情を抱いていようとも、コントラルトはその前に剣をもって国と王に忠誠を誓った騎士なのだ。《緋の夏陽》を預かる身でもある。コントラルトの立場と、彼女自身の矜持が負けることを許さない。
人垣の真ん中に空いた空間にたどり着き、オイセルストの顔がはっきりと見える距離で立ち止まった。オイセルストは、いつもの決闘の時と同じように構えた様子もなくたたずんでいる。本当に、それだけでも絵になるような男だ。それに比べて、コントラルトはどちらかといえば地味な顔立ちである。普通の令嬢たちのような立ち居振る舞いなど、女だてらに騎士をしているコントラルトにできるわけがない。いや、できないことはないが優雅さは、恐らくほとんどないだろう。
騎士が、それどころか普通の男が望むようなものを、コントラルトは持っていないと思っている。あるとすれば、それはコントラルトに流れる王族に近い血だけ。しかし、オイセルストがそれを望んでいるとは思えない。ならばいったい、オイセルストは自分の中に、何を見出しているのだろう。
「今日は甲冑は着ていないんですね」
オイセルストも、三年前のことを思い出しているのだろうか。第一声がそれだった。戦場へ行く時や巡回の時など、仕事で甲冑を着る機会は相変わらず多いから、普段着のような――とは言い過ぎかもしれないが――ものであるが、王宮内にいる時は着ていないことの方が多い。事務仕事もあるし、甲冑はだいたいは外へ出る時に着るものだからだ。それで、今日も着ていないのである。
「おかげで、あなたの顔を間近で見られます」
「……」
決闘直前だというのに、オイセルストはしゃべることまでいつもと変わらない。もう少し緊張感を持てと言いたくなる。この男に調子を狂わされるのも、相変わらずだ。
ああ。本当に、自分たちの関係は三年前から変わっていない。
だがオイセルストが勝てば、関係は決定的に変わる。コントラルトが勝てば、多分変わらないが。
素直になれないコントラルトは、こんなことでもなければ素直になることはできないだろう。それでも、素直になれないからといってわざと負けるつもりは毛頭ない。そんなことをしたら、人生最大の汚点となってしまう。
結局、コントラルトはどこまでも素直にはなれないのだ。そんな自分に呆れつつ、もはや変えることのできない部分なのだとあきらめて、オイセルストを見返した。
「そんな軽口を叩けるのも、今日までだ」
コントラルトは利き足を引いて、剣の柄に手を伸ばす。オイセルストは、早々に臨戦態勢に入ったコントラルトを見て軽く肩をすくめてみせた。
「悪いですが、コントラルト。俺も今日だけは負けるわけにはいきません」
それまで軽く組んでいた腕をほどき、わずかに利き足を引いた。オイセルストの手もまた、剣の柄に伸びる。だが、まだ掴まない。コントラルトとオイセルストの二人が柄を握った瞬間が、決闘の始まりとなる。
二人が構えたことで、野次馬たちが静まっていく。
コントラルトはオイセルストの動きを注意深く見ていた。
オイセルストの動きは速い。これまでの決闘は、最初の一瞬で決着が付く場合が殆どだった。決闘相手は奴の動きについていけず、手も足も出ないのだ。剣を抜くことさえ叶わなかった者も少なくない。
最初の一撃を避けなければ、コントラルトに勝機はない。オイセルストは鞘から剣を抜き放ち、その勢いのまま攻撃を仕掛けてくる。その速さは相当なものだ。まずはそれを避けなければならない。
ごくりと唾を飲み込み、コントラルトはぐっと柄を握った。あとは、オイセルストが柄を取れば、始まる。
コントラルトはあえて、オイセルストより先に柄に触れた。オイセルストの動きに集中するためだ。今までの傾向からすると、オイセルストは柄を握るのとほとんど同時に剣を抜いている。
先に剣に触れたら、決闘の始まりは相手次第になってしまうが、決闘が始まったからには剣は抜かなければならない。それが暗黙の了解となっている。しかしそのことを逆に利用すれば、オイセルストの最初の一撃を防ぐことができるだろう。オイセルストが柄を握った瞬間が、即ち仕掛けてくる時でもあるのだ。
オイセルストの手元が動く。コントラルトも同時に動いていた。
次の瞬間、金属音が響く。コントラルトとオイセルストの間で、剣が交差していた。
最初の一撃を見事にかわしたのである。
久々にオイセルストの最初の一撃が防がれたことで野次馬から歓声が上がるが、それでコントラルトが満足するには早すぎる。
歓声と同時に剣を引き、構え直すと一気に間合いを詰めた。右下から斬り上げ、返す刃で真下に斬り下ろす。それから、横一直線に剣を薙ぐ。右利きのオイセルストは、右側面をコントラルトの方に向けるように体をひねり、片手で持った剣で、コントラルトの一撃を弾き返す。
オイセルストがコントラルトの攻撃を防いだその隙に、コントラルトは左前方へ一歩踏み込み、オイセルストの右斜め後ろへ入り込む。オイセルストはコントラルトに向き合うように体を反転させる。
その勢いを利用して、今度はオイセルストが横薙ぎの一撃を放った。
コントラルトはオイセルストの攻撃を自分の剣で受け止める。攻撃を止められても、オイセルストは剣を引くことなく押してきた。コントラルトはそれに負けじと、柄を握る手に力を入れる。
オイセルストは片手持ち、コントラルトは両手持ち。それでようやく均衡になるくらいに、腕力の差がある。女のコントラルトと男のオイセルストに筋力の差があるのは仕方のないことだが、それでもこんな場面に出くわすと、やはり悔しい。
その悔しさが、コントラルトを奮起させる。渾身の力でオイセルストの剣を押し返す。オイセルストが片手で剣を持っていたのが幸いして、均衡が破れる。
コントラルトに押されたオイセルストは、剣を持つ手の力を緩めた。コントラルトは支えをなくすが、一歩足を踏み出すだけに留まった。そして、オイセルストが体勢を立て直すより早く一旦剣を引き、《戦乙女》の名にふさわしい声とともに刺突を繰り出した。
コントラルトの目に、オイセルストのにわかに驚いた表情が飛び込んできた。コントラルトの素早さに驚いたのだろうか。あるいは、いつでも自信過剰で己が負ける姿など思い描いたこともないようなオイセルストが、初めて自分の負けを想像したのかもしれない。コントラルトの剣先は、オイセルストの右の手元を目指していた。
決闘は、真剣を使う。そうなると当然ながら、怪我をする可能性もあるし、下手をすれば死んでしまうこともある。だが、コントラルトはオイセルストに怪我を負わせるつもりも、まして殺すつもりもない。怪我を負わせることなく、決着をつけるつもりでいる。
コントラルトが狙ったのは、正確にはオイセルストの剣の柄。それも、オイセルストの手で覆われていない、わずかな部分だ。柄を突いて、オイセルストの手から剣を弾き飛ばす。それで、コントラルトの勝ちが決定する。この距離で繰り出された剣先を避けるのは、いかにオイセルストとはいえ難しいだろう。
オイセルストの表情を見て、コントラルトは勝利を確信した。
だが、コントラルトの剣がオイセルストの剣を突く直前で、剣先から目標物が姿を消した。コントラルトの剣先は、オイセルストの鼻先をかすめる。
オイセルストの剣はどこへ――そう思った瞬間、体の正面に軽い衝撃を感じた。目の前には、さっきとは打って変わって笑みを浮かべるオイセルストの顔がある。
コントラルトは自分の体を見下ろした。コントラルトの刺突を避けたオイセルストの剣は、コントラルトの体に軽く触れる程度に、斜めにあてがわれている。これが戦場であれば、コントラルトは右の脇腹あたりから左肩めがけて、切り裂かれていただろう。
「俺の勝ちです」
オイセルストが満面の笑みを浮かべる。割れんばかりの歓声が二人を包んでいたが、コントラルトの耳にはその宣告が、はっきりと聞こえていた。
○ ● ○ ● ○
「コントラルト。なんですか、その恰好は」
控え室として使われている部屋にコントラルトが入るなり、思い切り不満を露わにした口調で言ってきたのは、当然ながらオイセルストである。
「なんだとはなんだ。正装してこいというから、正装してきたまでのこと」
対するコントラルトは、勝ち誇った顔をオイセルストに向ける。今夜のコントラルトは、このまま公の場で王女の護衛を務めても何ら問題のない、騎士としての正装をしていた。
侍女たちが念入りに櫛を入れた髪は右の襟元で軽くまとめて、前に流している。そして、白の詰め襟に緋色のマント。これが、《緋の夏陽》の騎士の正装だ。夜会なので、さすがに甲冑は着ていないが。
「コントラルト。今夜の夜会の目的をなんだと思っているんですか」
「わたしの敗北宣言だろう。勝者ならば、敗者にせめてもの哀れみを見せて、この程度の衣装、許してもよかろう」
つまりは、コントラルトとオイセルストの婚約披露のための夜会である。
二人の結婚をかけた決闘の話は王宮中に広まっていて、当然その結果も速やかに広まった。とうとう娘が結婚することを知ったコントラルトの母が、結婚式の前に皆にそれを知らせようと言い出して、今夜の夜会が開かれることになったのである。コントラルトは、決闘前から噂になっていたのだから改めて知らせる必要はないと言ったのだが、母はもちろんのこと、オイセルストまで乗り気であったため、押し切られてしまった。
騎士の正装で来たのは、そんな二人に対するささやかな反抗である。
「我が妻がドレス姿で登場したとして、一体誰がケチをつけると言うんですか。仮にそんな輩がいるとしたら、俺が完膚無きまでに叩きのめすというのに」
「何をさり気なく物騒なことを言っているんだ、貴様は。それに、まだ妻ではない」
鼻息の荒いオイセルストに、コントラルトは呆れた声を返す。
オイセルストが決闘に勝ったら、二人の関係は決定的に変わると思っていたが、実際にそうなってみると、たいして変化はなかった。
「騎士に二言はない」
決闘に負けたコントラルトは、野次馬たちの前でそう言った。
そう言ったのが、結局たいして変わらなかったことの原因だろう。あくまで結婚をかけた決闘に負けたから結婚をする――そう言っているようなものだったのだから。
自分で思っていた以上に、コントラルトは素直ではなかったらしい。
負けを知った直後、悔しくはあったが、オイセルストの剣技に感嘆したのは事実だった。そして、心の片隅で負けたことに安堵している自分がいたのを、コントラルトは知っている。だが、それを表に出すことはない。出せるわけがない。負けて安堵する騎士が、どこにいる。
「分かりました。今日はあきらめましょう」
オイセルストは大げさなほど深い溜息をついて、頭を振る。
「ですが、コントラルト。俺はあきらめませんよ。次は必ず、ドレスを着てもらいます」
別にコントラルトが何を着ていようが構わない気はしたが、オイセルストの言う「次」とは果たして結婚式のことなのか、あるいは夜会のことなのか。ともかく――
「どうせ長い付き合いになるんだ。気長に待てば、そのうち貴様かわたしがあきらめるだろう」
そう、この先は長い。なにせ死ぬまでの付き合いとなるのだから。オイセルストがコントラルトのドレス姿をあきらめるのが先か、コントラルトが観念してドレスを着るのが先か。待てば、いずれ分かる。
この台詞が、コントラルトには精一杯の素直さだった。
オイセルストは最初、キョトンとした表情をし、それから、コントラルトの言った意味を悟り、嬉しげな笑みを浮かべる。
「俺はしつこいですよ。覚悟しておいてください、コントラルト」
「……知っている」
続いてオイセルストはにやりと不敵に笑い、コントラルトは苦笑いを浮かべた。
あきらめの悪さならば、コントラルトも自信がある。いい勝負になるだろう。
なんにしろ、先は長いのだ。しつこくあきらめの悪い二人には、それでちょうどいいのかもしれなかった。
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