鷺くじら

第1話駅

 気がつくと僕は駅のホームにいた。駅のホームは二つの線路に挟まれていて、ホームにあるはずの黄色の点字ブロックはどこにも見当たらない。それどころか屋根すらなかった。これではただのコンクリートの塊じゃないか。上を見上げると、空は昼間のように明るいが太陽はどこにも見当たらない。なぜ自分はここにいるのだろうか、なぜ自分はここに来たのだろうか……。わからない。でも漠然と電車が来るのを待っていることはわかった。

 僕はスマートフォンをポケットから取り出して時刻を確認する。なぜか時計はアナログ表示で7時を示していた。ふと横を見るとよく見る公園のベンチが置いてあった。ベンチの端に座って、いつものようにスマートフォンの画面に目を落とす。インターネットには繋がらない。ここは圏外のようだ。いつものように機内モードに設定する。また時刻を確認する。まだ7時のままだ。

 電車はいつ来るのだろう。まだ来ないだろう。


 スマートフォンの画面を閉じて、前を向く。目の前には荒野が広がっていた。僕は漫然と荒野を眺めていた。よく見ると向こうの方に建物がある。でもそこへの行き方はわからない。僕は線路の先を見る。


 この線路の先には何があるのだろうか。

 進行方向はどっちなのだろうか。

 待つ場所はここでいいのか。


 突然、駅メロが鳴り響く。どこかで聞いたような懐かしいメロディーだ。駅の案内放送が流れる。どうやら電車が到着するようだ。でもこれは僕が乗る電車ではないだろう。それからすぐに電車が到着した。一両しかない小さな電車だ。静かに停止して扉が開く。また案内放送が流れる。この電車は1時間後に出発するらしい。顔をスマートフォンに戻して時刻を確認する。

 時刻はまだ7時だった。


 「隣いいかい?」

突然かけられた声に僕は驚きつつも、顔を上げて少し上ずった声でどうぞと答えた。

 「ありがとうね。この歳になると少し歩くだけで身体中痛くなるんだよ。」

そう笑いながら言って、男は僕の隣に座ってきた。その人は一般的なサラリーマンのような格好をしていた。白髪交じりの髪の毛に少しシワがあるその顔は孫を見るような笑顔で僕を見ていた。僕はこの人が何者なのか知っているような気がした。

 「あなたはなぜこの駅にいるのですか?」

そう僕が尋ねるとその人は少し考えて、

 「ちょっと休憩しているってとこかな。」

と答えて、じゃあなんで君はここにいるのかい、と僕に優しく話しかけた。

 「わからない。」

と言うとその人は、ははっと笑った。

 「だからここにいるのじゃないか。」


 それからその人といろんなことを話した。もうすぐ還暦を迎えるらしい。息子はもう独り立ちしていて、もうすぐ結婚するらしい。趣味はゴルフで、最近あった会社内の大会では三位だったらしい。奥さんはヨガにはまっていて、ヨガマットを新しく買いたいらしい。散歩した時に路地裏にいい雰囲気の喫茶店を見つけて、仕事に行く前にそこでコーヒーを一杯飲むのが日課になっているらしい。犬を飼おうか悩んでいるらしい。健康診断で医者に痩せるよう言われたらしい。箱根へ旅行に行く計画を立てているらしい。もうすぐ同窓会があるらしい。まだまだやりたいことがあるらしい。

 僕は黙って前を向いて、その人の話を聞いていた。立てた板に流した水のようにすらすら話すその人の姿を直視することはできなかった。

 ふと話が途切れたのでその人を見ると、どうしたんだい、とその人が優しい声で聞いてきた。

 「僕には何にもないのでしょうか。」

と小さな声で呟いた。閑散としたホームには動くものは何にもなかった。

 「君は私が何年君より多く生きていると思っているんだ。」

はっきりとした声で僕の目を見て笑いながら、そう言った。

 「こんだけ生きてりゃ話すことも増えてくるさ。」

 「僕にもそんなに話すことが多くなるのでしょうか。」

 「君はまだ人生の始まりにいるに過ぎないんだよ。」


 それからどのくらいの時間が経ったのかわからない。お互い無言でベンチに座っていた。ふとその人は立ち上がると、

 「さて、そろそろ日が暮れるし、私はここでおさらばしようかな。」

と言い放った。僕は辺りを見渡してみる。空はまだ明るい。不思議な顔をしている僕の顔を見てその人は、だから言ったじゃないか。君はまだ人生の始まりにいるに過ぎないんだよ、と諭すような声で言った。

 「またいつか、会えますか?」

その質問に、当たり前じゃないか、と言って一冊の本を渡してきた。

 「その本は電車の中で読みなさい。きっと知りたいことが書かれているだろう。」

そう言って僕に本を渡すと、その人はいつの間にか反対側に来ていた電車に乗り込んだ。乗り込むとすぐに電車は出発した。僕はその電車が見えなくなるまで本を抱えながら立っていた。


 案内放送が流れる。もうすぐ電車が出発するみたいだ。僕は自然と一両しかない小さな電車に乗っていた。スマートフォンで時刻を確認すると8時を示していた。ふと本を見て、僕はスマートフォンの機内モードの設定を解除した。すると何件かのメールが届いた。それらを確認して返信する。不在着信もあったみたいだ。次の駅でかけ直そう。


 発車ベルが鳴り響いて、ドアが閉まる。少しずつ電車が動きだし、どんどんスピードを上げていく。僕は椅子に座り、本を広げる。ふと進行方向を向く。

 進行方向には太陽が昇ってきていた。

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鷺くじら @sagi_kujira

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