黒く染まる視界ー4

 それからのことは、よく覚えていない。

 ただ、気がつくと僕は自分の家の前に立っていて、真っ黒な扉を開けてその中に入っていた。

「やっと帰ってきたのか、この馬鹿息子が」

 目の前に、黒い影が現れた。キンキンと甲高い声を上げる影。真っ黒で、表情は見えない。どんな顔なのかも分からない。

「剛史が来るんだから、早く掃除しろ! ……それと、女とはもう別れたんだろうなあ? この期に及んでまだベタベタしてるようなら、母さん、剛史と一緒に本気でそいつ潰しに行くからなぁ」

「……ああ」

 鞄をその場に置いて、真っ黒な家の中を歩いて台所へと向かう。

「もう夜になっても勝手にどこか行くんじゃねえぞ! 剛史からもきっちり話つけさせてやるからなあ」

「……ああ」

 散らばった皿も、コップも、ビール瓶も、食べカスも、台所全体も、全てが黒い。

 真っ黒で、何が何だか分からない。

 そんな風に思っていたら、ふとあることに気づいた。

 結局、どこだろうと変わりはしないのだ。

 学校だろうと、通学路だろうと、家だろうと。

 真っ黒なのは、同じ。

 墨で塗りつぶされたような、黒一色の景色。

 ということは、どこへ行っても真っ黒なのだ。

 この世界は、どこも等しく真っ黒なのだ。

 居場所もなければ、逃げ場所もないのだ。

 この世界に生まれた時点で、僕の命運は尽きていたのだ。

「う……ああ……あああああ……」

 それに気づいて、言葉にならない声が口から零れた。

 気違いみたいな声出してんじゃねえと、影に殴られた。



 それから何日かが過ぎたある日の放課後、僕が教室を出て家に帰ろうとしたとき、後ろから女の子の声がした。

「待って上杉くん。あのね、さくやんにもう一度、会ってあげて欲しいんだ」

「…………」

「もう一回だけでも、会ってあげてよ。あたし、あの子があんなに悲しそうな顔してるの見るの、耐えられないよ」

 カツカツと足音が近づいてきたのち、後ろから肩を掴まれ振り向かされた。

「上杉くんってば!」

「…………」

 誰だ、これは。

 影が、僕に話しかけている。

 表情のない、人の形をした影が。

 シルエットからするに女の子のようだが、もうよく分からないし、どうでもいい。

 放っておいて、早く行かなければ。

 身体を道具にし、彼らに使われるために。

 女の子を放ってしばらく歩いていると、背後でその女の子ともう一人、男の声が聞こえた気がした。

「奈緒、もう放っておけ。もう、ああなっちまったらダメなんだ。俺が怒鳴っても殴っても、あいつには何一つ気持ちが届かねえ。物を相手にしているのと一緒なんだ」

「でも! あたしたちに、何かできることはないの!? せめて何かしてあげたいのに……」

「いや、無理だ……俺はあいつの親友だった。小学生の時から一緒だった。相棒とも言える存在だった。なのに、そんな俺の言葉も態度も届かねえときたら、もうどうしようもねえんだ。諦めるしかねえ」

 何か言っていたようだが、もう僕には関係のない話だ。

 早く、帰らなければ。

 今日もいつものように、あの二つの影に使われ、殴られるために。

 教室を出て、学校を出て、黒一色になった通学路をふらふらと歩いて。

 その途中、ひとつの黒い影にぶつかった。

「いってぇな! どこ見て歩いて……うわっ」

 影は、こちらを見て怒鳴ったかと思うと急に黙った。

 それから数歩後ずさって、なんだこいつ、薬でもやってるんじゃねえか、とかなんとか言って去っていく。

「…………」

 僕はまた、ふらふらと歩きだす。

 何事もなかったように。



 なぜ、まだこの身体は存在しているんだ。

 生きているのか生かされているのかも分からない。

 どこへも行けない。

 ただ、コールタールの池の中で、ひたすら口を開けてもがく鯉のように。

 そんなふうに生きている。

 あるいは、もう死んでいるのかも分からない。

 まだ生きているのか、いつ死んだのか、寝ているのか起きているのかも、分からない。

 それでも、重い足を引きずって学校へ行って、何もしないで帰ってきて、また殴られ続けて。

 ずっとずっと、暴行を受けて。

 抵抗する体力も残させないように、ろくな物も食わせてもらえずに。

 そんな風に、黒一色になった世界で生きている。

 ただ、無様だ。

 あまりにも情けなくて自嘲さえも出ない。

「なんであんな嫌ーな空気ふりまいてさ、教室にいるんだろうね。キモくない? ってか存在があれだよね、いらないよね」

「いても何もしてねえよ、あいつ。もとから無愛想で気に食わねえけど、やることねえんなら来るなよ、うっとうしい」

「なんなのあれ、もうすぐうちら受験生だってのに、なめてんのかね」

 休み時間になると、そんな囁きがあちらこちらで聞こえる。

 この一面真っ黒に塗り潰された世界では、僕の居場所はどこにもない。学校にも家にも、歩いて行く先には見つからない。

「ほんとさー、ああいう奴こそ死ねばいいんじゃない?」

「言えてるかも。存在そのものが鬱陶しいって、上杉みたいな奴のことを言うんだろうね」

 ある日、授業が全て終わり、担任が戻る前の帰りの会を待つ短い時間の中で、女子の何人かがそう言いあっていたのが聞こえた。

 それを聞いて、はっとする。

(…………死ぬ……そうか、死ねばいいのか?)

 死について考えたことなどなかった。

 けれど、もし一時の痛みや苦しみで、これから先の苦痛を全部無しで済ませるのなら。

 それは、とても優しいことだ。

 こんな命でさえ、救ってくれる。そんな死は、誰に対しても平等だ。

 おまけに、命を絶ってしまえば、もうこの身体は動かない。母親や剛史の道具は機能を停止し、彼らは金を得るための道具を失う。

 そうなれば、あの二人の未来だって長くはない。剛史だって今はどこかで働いているらしいが、あと十五年もすれば定年だろうし、酒乱と化した母はもはや自力で金を稼ぐようなまっとうな人間には戻れないし、戻ったところでその頃にはすでに剛史と同じく高齢だ。

 黙って従っていたが、最後に少しだけ復讐できるのだ。

(自殺、か……)

 だとしたら、遺書でも書いておいたほうがいいのだろうか。

 開耶に対して詫びの言葉でも書いて遺せば、彼女の気持ちは幾分かすっきりし、別の彼氏でも作って幸せになれるかもしれない。そこまでできれば僕としては、開耶のことを好きでいた者としては本望だ。

(何に書くか……ルーズリーフでいいか)

 僕の鞄はいつも空で、教科書やノート、ルーズリーフなどは全てロッカーの中に入れてある。

 本格的に書きだす前に、とりあえず書くべきことを書き出してみようと、ふらふらと歩いて自分のロッカーへ向かう。僕は座ったまま意識が飛んでいたらしく、帰りの会はとっくに終わっていて、教室内は目的もなくただ友人同士でダベっているグループの影が二組ほどあるだけだった。ロッカーの近くにいた生徒数人の影が、僕が近づいてくるのにぎょっとした様子でそこから離れる。

 ロッカーを開けて中に顔を突っ込む。そこで、探すべきルーズリーフではない、妙なものを見つけた。

 入れたはずのない、見覚えのない便箋が、確かに黒い本と黒い本の間に挟まって、取って下さいとばかりに上から突き出ている。

 なぜかそれだけは、真っ黒に塗り潰された本やノートの中で、白い色を表していた。

「てが、み……?」

 この口は、勝手に声を漏らす。

 この手は、勝手に封を切る。

 いつかどこかで、同じことをしていたような既視感を覚えながら。

 広げた白い紙には丁寧な字で、こう書いてあった。



 双葉くんへ。



 お元気ですか。……いいえ、元気じゃないですよね。

 突然のお手紙で、ごめんなさい。

 あんなことがあってしまったけれど、わたしは、あなたのことをどうしても忘れられません。

 とても勝手なことだとは思っています。でも、もしよかったら、もう一度わたしに会いに来てくれませんか。

 いつもの場所、駅前の、六番のバス停で。

 夜の十一時四十五分から、日をまたいだ零時十五分まで、わたしはそこで一人で待っています。

 だから、もう一度だけ。

 わたしは、あなたに会いたい。



 神崎開耶



「…………!」

 手紙を握りしめて、この身体は固まった。

 彼女は忘れていなかった。

 彼女は消していなかった。

 彼女は、嫌いになっていなかった。

 あの女の子に、僕はまだ思われている。

 まだ、死んでいない。

 彼女の中で、今も生きている。

「開耶……!」

 視界の黒が見る見るうちに薄らいで消えて、色鮮やかな教室の風景になる。

 突然叫んだ僕を見る、まだ教室に残っていた生徒たちの不審げな表情も、はっきりと見てとれる。

 だが、そんなことはどうでもいい。

「なんで……開耶……僕のこと、嫌いになったんじゃ……」

 嫌われようと思っていたのに。

 一緒にいられないのなら、開耶が僕を嫌いになってくれればいいと思って、あんなひどい別れ方をしたというのに。

 手紙を握りしめ、自席に戻って空の鞄を掴んで、教室を飛び出した。

 会わなければ、いけない。

 会ってどうするかなんて、分からないけれど。

 心の底から愛したたった一人の女の子に、会わなければいけない。



 僕は、開耶に会わなければいけない。

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