黒く染まる視界-3

 翌朝、高城が目を覚ますより早く僕は高城家を後にし、痛む身体を引きずってひとり学校へと向かった。

 学校の最寄り駅で電車から降りると、出口に一人の女の子が、いつもと変わらず立っていた。

 始業には一時間以上早い、こんな時間であってもだ。

「開耶……」

「ふ……双葉くん……」

 変わり果てているであろう僕の姿を見て、開耶は呆然と立ちすくんで。

 数秒後、はっとして我に帰ると僕のもとに飛び込んで、悲痛な声を上げる。

「どっ……どうしたの!? どうしてそんなことに……! だ、大丈夫なの!?」

 開耶は必死に、彼女なりの強い力で僕の身体を抱きしめてくれる。

 その優しさがとても嬉しくて、できることならばそれに甘んじていたい。

 けれど、けれど――。

「や、やめてくれ……っ!」

「きゃ……!」

 両手で、少女の華奢な肩をドンと突き飛ばす。開耶はふらふらと二、三歩後ずさって、驚愕の表情で僕を見つめた。信じられないとでも言いたげだ。その顔が辛くて、つい目を伏せてしまう。

「ふ、双葉、くん……?」

「…………すまない、開耶……」

 そうだ。

 僕にはもう、開耶に触れる資格も、抱きしめてもらう資格も、好きになってもらう資格もないのだ。

「少し、歩きながら話そうか」

「…………」

 僕が先に歩き出すと、開耶は黙ってついてきた。

 学校までの道を、二人で並んで歩く。

 それはついこの間までの光景と同じなのに、今は僕も開耶も気持ちが重たくて、足取りにもそれが表れるようだった。

 開耶はただうつむいたまま、僕の言葉を待つかのように静かに隣を歩くばかり。

 手も、一昨日のように握ってはくれない。

 いっときは限りなく近くなり合えた僕たちの距離は、わずか二日でどうしようもなく遠くなってしまった。

 そして僕がこれから口にする言葉で、きっと永遠に埋まらなくなってしまう。

 それでも、そうするしかない。

 それがつらくて、苦しくて。

 僕はいつまで経っても、最初の一言を言い出せないままだった。



「……この傷は、母親とその恋人につけられたものだ」

 学校までの道を半分くらい進んだところで、ようやくそう口火を切って。

 そこから僕は、開耶に自分のことを語った。

 両親が離婚したこと。

 それから母のために頑張って勉強し、アルバイトもし、母を助けたいと必死になっていたときのこと。

 しかしやがて母親は恋人の男を連れ込み、変わってしまったこと。

 母は酒乱になり、酔った二人にしょっちゅう殴られているということ。

 僕を「金を稼ぐための道具」と言い、働ける年齢になってからは剛史と母親のために働き、稼いだ金を全てあの二人の酒と煙草と博打のために搾取されると言い渡されたこと。

 あわせて、そんなことがあったから僕はこんな歪んだ性格になったんだ、とも告げた。

 そしてついに、先日の土産があいつらに見つかってしまい、僕が開耶と交際していることが露見し、それが奴らの逆鱗に触れて、女と遊んでいる場合じゃないだろと言われて痛めつけられたのだ、と言った。

「そん、な……」

 語り終わると開耶は真っ青な顔で、全身をがくがく震わせながらそれだけをかろうじて絞り出していた。語りが進むたびに、彼女の顔色はどんどん悪くなっていき、今ではすっかり生気をなくした色になってしまっている。

「ひ、ひどい……ひどすぎるよ……」

 今にも泣きそうな声だった。それから開耶は力なくうつむいてしまい、「ひどいよ……ひどいよ……」と、何度も何度も呟いていた。

 そんな開耶に、呼びかける。

「昨日は一日中意識がなくて、学校にも行けなかったんだ。心配かけて本当にすまなかった……目が覚めたら四時……いや夜の十時で……それからは眠れなくて、だから一晩中ずっと考えていて……で、一つ言わなきゃいけないことがあるんだ」

「えっ……」

 嫌な予感がするよ、と言いたそうな開耶の曇った顔を見て、胸がギリギリと締めつけられる。僕は一度視線を逸らし、それからひと呼吸とともに彼女の顔を見て、言った。

「――――開耶、僕と別れてくれ」

 その瞬間、時間が止まったような気がした。



「う、うそ」

「嘘じゃない」

「う、うそだよ。そんなの、信じないよ。しんじない」

 開耶の顔が、凍りついたようにこわばった。その固まった顔のまま、ふるふると首を振りながら、現実から逃れるかのようにそう言い続ける。

「わ、わかった。双葉くん、お、お母さんと、その恋人に、お、脅されてるんだよね。だから、そんな、い、言いたくもないこと、言ってるん、で、しょ?」

「違う、女と遊ぶなと言ったのは奴らだが、別れると決めたのは僕の意思だ。まあ、あいつらにとっては別れろと言っているようなものだが……」

「なんで? なんで? わたし、わからない……別れなきゃいけない理由がわからないよ……」

「これ以上僕と一緒にいると、今度は開耶があいつらに攻撃されるんだ。手足と顔を潰して二度と僕と会えないようにしてやる、と言うんだ。開耶がそんな目に遭ってしまったら、僕はもうどうしようもない。開耶を守るには、こうするしかないんだ。二度と関わらないようにして、安全なところにいてもらうしか……」

 僕は淡々とそう言うが、目の前の開耶はもはや半狂乱状態で、呂律もまともに回らないまま、固まった顔と見開いた目で僕に詰め寄って体を揺さぶってくる。

「や、やだ、やだよ。双葉くん、わ、わたしと一緒にいてくれるって、い、言ってくれたよ……僕が、ついてるって、言ってくれたよ。あれ、うそなの? わたしに、うそ、ついてたの……?」

「…………」

「ちがうよね。双葉くん、そんなひどいうそ、つかないもん、ね」

 そう言って、開耶は必死に僕の両手を取って、縋りつこうとして――。

「やめろっ!」

 僕は自分でも驚くほどの大声を出し、無我夢中でその手を払いのけて、開耶の体を再び突き飛ばす。力の入れ具合が、先ほどよりずっと乱暴になっていた。少女の華奢な身体は簡単に吹き飛び、アスファルトの地面に尻餅をつく。

(あっ……)

 思った以上の力が入ってしまい、開耶を意図せず転ばせてしまったことを悔いても、もう遅い。

 尻餅をついた女の子は、その体勢のまま悲痛な声を漏らしていた。

「な、なんで……どうして……」

 これ以上の絶望はないというような、壊れてしまいそうな顔で僕を見上げる開耶。身体はがくがく震え、瞳には涙がいっぱいにたまり、今にも泣き出してしまいそうなほど。

 それがあまりにも痛々しくて、そうさせてしまったのは紛れもなく僕で。

「もう、僕に優しくしないでくれ! 僕では、開耶を守れないんだ。開耶を幸せにすることなんて、できやしないんだ……! だからもう僕のことなど忘れて、他の男とでも……」

「い、いや……そんなのいやっ……双葉くんじゃなきゃ、双葉くんじゃなきゃ……おねがい、おねがい……もう一度考え直して……!」

「一晩中考えたんだ。これが一番なんだ! 分かってくれ、開耶……!」

「わからない! そんなのわからないし、わかりたくない! わたし、双葉くんのこと、双葉くんのこと、大好きなのに……!」

「く……っ」

 互いの声がどんどん大きくなり、朝の通学路ということもあって、僕たちのやり取りは他の学生や通行人にじろじろ見られ、ひそひそと囁かれている。居心地が悪い。さっさと話を終わらせ、学校へ行かなければいけないのに。

「ちょ、ちょっと! どうしたのさくやん、上杉くん!」

 不毛なやり取りをしていると、突然聞いたことのある女の子の声がして、一人の少女が割り込んできた。

 山口だった。人ごみの中から飛び出して開耶のそばに寄り、へたり込んでいる開耶の肩を抱く。

「さくやん、大丈夫? 痴話喧嘩かと思ったけどちょっと普通じゃないよ。いったいどうしたの?」

「ふ、双葉くんが……双葉くんが……」

 その先は、言葉になっていなかった。

 山口は僕をキッと睨んで、やや強い語気で迫ってくる。

「上杉くん、事情や理由はよくわかんないけど、女の子泣かすのはちょっとどうかと思うよ」

「……関係ないだろう、山口さんには。出しゃばって、いい奴気取りか」

「関係あるからこうして言ってるんだよ!」

 激昂した山口に一瞬気圧され、びくっと身を竦めてしまう。

「上杉くんも、さくやんも、あたしの大切な友達だよ! 友達どうしがこんなことしてるの、あたしは絶対嫌だよ!」

「…………」

 開耶はまだ、山口に抱きかかえられたまま半泣きの状態でへたり込んでいる。

 そんな光景を見て、一つ気づいた。

(……そうか)

 僕と山口はともかく、開耶と山口はもう友達なのだ。

 もう、僕がいなくなっても、さみしくないじゃないか。

 もう、一人ぼっちになど、なりはしないじゃないか。

 開耶のことは、山口と、高城や木下や藤井に任せておけばいいんだ。

 みんな、僕なんかよりよほど面白くて愉快な奴らばかりだ。

 こんな僕一人より、あいつらと一緒にいたほうが楽しいに決まっている。

「山口さん、開耶のことを頼む」

「は、はあ!? なに言い出すの! きみの彼女でしょ!? 全部投げて一人で逃げる気!?」

 当然と言えば当然なのだろうが、山口は怒りと驚きをないまぜにした顔と声で立ち上がる。

 そんな山口を腕で制して、僕は開耶に近づいて屈み、へたり込む少女と同じ高さになってから言った。

「……僕は、開耶の彼氏でもなんでもない。自分の弱さのせいで開耶を守れず、その弱さのせいで開耶を突き放して、弱さのせいで全てから逃げ、挙句の果てに開耶からも逃げる、ただの弱くて情けない男なんだ」

「そん、な……」

「もう僕は、開耶に関わらないから……開耶も僕に関わるのをやめてくれ……できるだけ僕を避け、廊下で会っても声をかけないでくれ……」

 憔悴しきった愛しい少女の顔を見ながら、締めにかかる。

「今までありがとう、開耶。開耶と一緒だった二カ月、僕はそれこそ夢のように楽しかった……だから、だから……」

 目の前の開耶が、ぼやけて歪む。

 もう、これで終わりなんだ。

 最後の言葉を吐いて、この場を立ち去って終わりなんだ。

「…………幸せに、なってくれ……」

「ふたば、くん……」

 もはや、愛しい女の子に僕が最後にできることは、最後にしてやれることは、心の底からそう願うことだけだ。

 それしか、できない。

 それしか、してやれない。

 そしてもう、ここにはいられない。

 開耶のそばに、いられない。

 黙って踵を返して、一人で歩きだす。

「待って……双葉くん……いやだよ……いやだよ……っ!」

 ちぎれるような悲痛な声が背中に縋ってきても、足を止めず、振り返りもせず、僕は愛しい女の子から逃げを打つ。

(僕が……僕が全部悪いんだ……! 僕なんかもう、死んでしまえばいい……!)



 教室にたどり着いて、投げ捨てるように自分の席の横に鞄を置いて、椅子に座って机に突っ伏す。

 もう、何も考えたくない。

 このまま消えてしまいたい。

 僕は、開耶を守れなかった。

 僕は、開耶と一緒にいられなかった。

 なにが、開耶の彼氏だ。

 なにが、僕がついてるから、だ。

 結局僕は、なにもできなかったじゃないか。

 最低だ。

 僕は最低だ――。

 そんな風に打ちひしがれていると、教室の扉が大きな音とともに乱暴に開かれ、外から一人の男子生徒が入ってきた。大股でこちらに向かって歩いてくると、そいつはいきなり僕の肩を鷲掴んで強引に立ち上がらせる。

「上杉、てめええっ! 奈緒から全部聞いたぞ、てめえ、神崎になんてことしやがったんだ!」

「…………高城、か……?」

 奴は肩から手を離すと、離した手で今度は胸ぐらを掴んで締め上げてくる。怒気もあらわに、生徒たちがたくさんいる教室内にもかかわらず大声で怒鳴ってくる。

「あいつは、あいつはお前にとって必要な存在じゃなかったのかよ! それなのに、自分からあいつを手放してどうするつもりなんだ! 神崎だけじゃねえ、てめえはてめえ自身までも傷つけてる、誰も得しねえ! そんなことをなんでやらかした!」

 高城は僕の身体を激しく揺すり、それに合わせて僕の首はがくがくと前後に揺れる。

「…………」

視界が揺れ、脳が掻き回されている感覚を得る。だが、もはやその程度のことではなんの不快感ももたらさないほど、この心は腐り果てていた。

「答えやがれ!」

 高城はなおもこの身体を揺さぶりながら、声を荒げてくる。長い長い沈黙ののち、この口からはたった一言だけが零れた。

「…………わからない……」

「……っ、てめ、わかんねえってことはねえだろうが! てめえ自身があいつをあんなに泣かせておいて、分からないで済ませる気かよ!」

 そんなことを言われたって、本当に分からないのだ。

 僕には、どうすればよかったのかまったく分からない。

 分かっていたなら、開耶を悲しませたりしないのだ。

「上杉いいっ!」

「うるさい、黙れ!」

 怒鳴りつける高城に、僕は奴の胸を両手で押して戒めを解いた。一歩ぶん突き飛ばされた高城に、裏返った声で喚き散らす。

「僕自身が分からないのに、お前に何が分かるんだ! 僕だって、僕だってこんなことしたくなかった! 開耶と一緒に、ずっと一緒に生きていきたいって、心の底から思っていたのに……!」

 自由になった僕は、そのまま崩れ落ちて床に両手をついて。

「どうしたらよかったんだ! いつどこで、どうしたら正解だったんだ! もう、何もかも見失ってしまった! 僕の何が悪かったんだ! 僕がいったい何をしたんだ! なにをしたんだああああっ!」

 右の拳で、何度も何度も床を殴りながら、狂ったように叫んでいた。

 拳からは赤が滲み、眼まなこからは透明が零れ落ちる。

「僕はただ、好きな人と一緒にいたいだけなのに! それの何が悪いんだ! なんで僕が悪いんだ! なんで、なんで……! うああああああ――――っ!」

 怨み、憎しみ、悲しみ、怒り、憤り、嫉み、歪み、拗れ、縺れ。

 これまでに溜めこんだ、ありとあらゆる負の感情が爆発して、枯れた喉から叫びとなって溢れ出す。

 ずっと我慢してきたのに、もうどうにも止まらない。

 まるで、何かが切れてしまったかのようだ。

 するとふいに、視界が黒く染まっていく。

 これまでに何回かあった、怒りで赤く染まるのとは違う。

 目に映るもの全てが黒く、墨塗りのように塗り潰されて、影しか認識できなくなる。

 高城の顔も、慄いて遠巻きに眺めている生徒たちの顔も、塗り潰されてもはや見えない。

 全てが黒一色に塗り潰されて、もう何も見えない。

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