黒く染まる視界-2
目が覚めた。
体がずきずきして、少し動くだけで激しく痛む。
(いったいどれだけ眠って……いや、気を失っていたのか)
僕の身体は自分のベッドの上に、あらぬ方向で倒れていた。剛史に投げ捨てられるように、運ばれたのか。
痛みとともに、思い出したくもない記憶が蘇ってくる。
「僕は……開耶の尊厳を、守れなかった……あんな奴らに、開耶を汚されて……」
枕元に携帯電話が転がっていた。時間を確認しようとそれを開くと、メールが十五件も届いており、着信も六件入っている。
(…………?)
着信もそうだが、メールの数が信じられず、そのままメールボックスを開く。差出人は全員開耶だった。
一番新しいメールを開くと、そこには短くこうあった。
『最後まで学校にこなかった……本当にどうしたの?お願いだから返信して』
(学校に来なかった……? そんな馬鹿な……)
ディスプレイ上部の時刻を見る。四時四十五分、夕方だった。僕は特に用事がなければ四時半から五時の間に帰宅するから、それほど時間は経っていないのでは――。
「……じゃない!」
自分の考えを打ち消す。つい声に出た。
(一日中倒れてたのか……そのあいだ、ずっと開耶は心配して……)
着信履歴を見ると、これもまた全部開耶のものだった。もう留守録を聞くのも辛い。聞かなくてもわかる、僕を心配していることを言葉に乗せているのだろう。
「なんてことだ……」
そう呟いて、頭を抱える。
だが、後悔に暮れることさえ許さないというように、部屋の扉がその時乱暴に開かれた。
「やっと目が覚めたのね、この馬鹿息子が」
酒臭い息を吐き散らしながらがなる母親は、話があるからリビングに来いと言ってまた扉を乱暴に閉めていった。
「あんた、自分の役割を分かってるの!」
母親は日本酒の一升瓶を、まるで水でも飲んでいるかのようにビンに直接口をつけグビグビと嚥下してからキンキンと耳障りな声でそう言い捨てる。母親は座っていたが、僕は立ったままだった。
リビングは、テーブルの上だろうと、床だろうと、相も変わらずそこかしこに酒の瓶とグラスと酒の肴、そして灰皿と煙草が散乱している。僕が毎日のように掃除しても、一日でこうなってしまう、この家のごく普遍的な光景だった。昼間から酒を飲んでいることを近所に隠すためだろうか、窓もカーテンも昼夜問わず閉め切られていて、換気などろくにしないせいで異様な臭気が部屋中に充満している。タバコの脂やにが壁じゅうに染み付いているせいで、家全体が黄土色に見える。
「…………」
「お前はお母さんと剛史のために働いて金を稼がなきゃいけないって何度も言ってるよなあ!」
金切り声とともに、グラスを投げつけられた。それが額にぶつかるとパリンと高い音がしてグラスは砕け、破片が眉間に突き刺さって赤いものがポタポタと流れ落ちる。
「女なんかに」
そう言って母親は立ち上がって、
「かまけてる場合じゃないだろうがあああ!」
「が……!」
手に持った一升瓶を思い切り振りおろし、頭蓋を
激痛と衝撃に、脳が揺さぶられて。
たまらずに床にへたり込んで、右手で頭を抑えて呻いてしまう。
「う、うう……」
「おい」
母親はそんな僕を蹴り転がすと、スリッパの脚で喉を思い切り踏みつけて、ぐいぐいと体重を加えていく。
「ぐ、あああ……」
「女なんかに誑かされやがって! この親不幸者! ゴミ屑野郎! 吐け、女の住所と名前! 剛史が帰ってきたら一緒にそこへ行って、女の手足と顔を潰してやるぁ!」
「…………!」
そんなこと、絶対にさせられるものか。開耶は、開耶だけは絶対に――
「吐けって言ってんだろうがあ!」
喉を踏まれた状態で、顔面に一升瓶を叩きつけられる。
何度も、何度も、何度も、何度も――。
「吐け! 吐け! 吐け! 吐けええ!」
「がっ……! うあ……っ!」
(嫌だ……こんなの嫌だ……っ!)
狂ったように顔面を瓶で殴りつけてくる母親は、腕が疲れたのか戒めを解いてキッチンに引っ込んだかと思うと、今度はなぜか油とライターを持ち出してやってきて、倒れている僕に油を思い切りぶちまける。全身にねっとりとした液体が纏わりつき、不快な感覚を与える。
「吐かねえって言うんなら、もう焼いて体中ズルズルにしてやるぁ! そうすれば女も気持ち悪がって別れるだろうからなあ!」
「やめっ……!」
母親はライターを点火し、いよいよ火をつけようとする。
その間際に最後の力を振り絞って、転がっていたビール瓶で母親の手の甲を打ち、ライターをはたき落とさせる。
そしてその隙に身を起こすと、無我夢中で玄関まで走って外へ出て、エレベータホールを目指して集合住宅の渡り廊下を這うように歩き、そこでちょうど停止していたエレベーターに乗って一階まで降りる。
「はあ、はあ、はあ……」
エレベーターの中で崩れ落ち、一階に着いて扉が開くと転がるようにそこから出て団地を後にし、あてもなく歩きまわる。
逃げなければ、どこかへ。
どこでもいい、この身を安全な場所へ移さなければ。
そう思って、血まみれのまま、打撲を負ったまま、足を引きずったまま、街を歩き回る。
「お、おい君! そんな怪我でどこへ行くんだ!」
「やだキモっ、なんであいつ血まみれで歩いてんの」
「喧嘩でもしてきたのかな。なんにせよ関わらないほうが身のためだよね」
「ダメ! まあちゃん、見ちゃいけませんあんなの」
通行人に奇異の目で見られていることが分かっていても、気味が悪いと囁かれていても、どうしようもない。
「どこか……逃げないと……どこでもいいから……」
当てなど最初からないと、分かっているけれど。
逃げる場所などないであろうことも、どこかで分かっているけれど。
それでも、どこかへ逃げなければ。
「ない……どこだ……どこかにあるはずだ……」
僕は、なにをしてしまったのだろう。
なぜ、こんなにも痛い目に、苦しい目に遭っているのだろう。
僕は、どうすればよかったのだろう――。
「どこだ……どこにある……見つからない……」
前日に全身打撲を受けたまま、今日も何度も殴られて。
食べ物だって、三日前に開耶の家で御馳走になってからは何一つ食べていない。
意識も靄がかかったような状態のまま、ふらふらになりながら歩きまわる。
「ない……ない……ここじゃない……ここでもない……」
駅前、商店街、公園、スーパーの中、地元の中学校。
どこを歩いても、どこを探しても、見つからない。
僕は、どこに逃げればいいのだろうか。
それ以前に、逃げていいのだろうか。
「う……っ」
歩いて歩いて、ついに足がもつれて、何かに躓いて、その場に倒れて。
げほげほと咳き込んで、アスファルトの地面を赤く塗る。
殴られた時に内臓のどこかをやられていたのか、僕は口から血を吐いていた。
血液と、九十度に傾いた世界を眺めながら、呆然と呟く。
「もう……歩けない……もう……逃げられない……」
もう、ここで終わりなのか。
僕はこんな場所で、こんな死に方で、終わるのか。
(まあ、もともと綿のように軽い命だ……こんな風に消えるのが相応しいの、かも、な……)
そんな風に思って目を閉じたら、不意にどこからか男の声が聞こえてきた。
「上杉!? おい上杉じゃねえか! しっかりしろ!」
聞き覚えのある声だ。再び目を開くと、僕の身体を抱き起こして必死に声をかける男の顔が目に入る。
「…………た、か……ぎ……?」
「なんでこんなところでぶっ倒れて……お前、また殴られたのかよ……! てか、うわっ、なんで油まみれで……! とにかく俺の家に、いやもういっそ病院か!? おい! 上杉! おい!」
「病院は、いい……それよりも、開耶に、すまない、と……」
「おい!? おい上杉! おい! 返事しろ! 上杉っ!」
再び目を開くと、僕の身体は高城の部屋のベッドに寝かせられていた。
「う……!」
覚醒した途端に襲いかかる鈍痛で、呻き声が出る。
その声に反応して、部屋の主である高城が僕のもとへ寄って声をかけた。
「おう、やっと気がついたか。お前が病院はいいって言うからとりあえず俺の家に運んだんだけどよ、お前、なにがあったんだよ」
「…………」
身体がヌルヌルしていない。気を失っている間に身体を拭かれ、ついでに簡単ではあるが手当てもされているようだ。といってもこの状態では焼け石に水だが――。
「お前、今日学校休んでただろ。神崎がすごく心配してたんだぞ。『全然連絡も来ないし、高城さん、何かご存じないですか』ってな」
「開耶、が……」
脳裏に、心配そうな表情をした開耶が浮かび上がる。
(そうだ、僕は開耶を守れなかったんだ……)
開耶の尊厳を、プライドを、僕に向けてくれたひたむきな想いを。
守れなかったのだ。
そのことを改めて思い出し、唇を噛んで。
ベッドから身体を起こし、立ち上がる。激痛に身体が悲鳴を上げるが、そんなことはどうでもいい。
「お、おい! どこ行くんだよ、まだ動いちゃダメだろうが!」
「開耶のところに、決まっているだろう……」
「馬鹿野郎、もう夜の十時だぞ。いいから今日はここで寝ろ。明日にしとけ、でも明日になっても体が動かねえようならホントに病院だからな」
ふらふらな体はあっさりと高城に捕まえられてしまい、元のベッドに引き戻される。
高城が眠りについた後、僕は痛覚に耐えながら天井を見つめて考えていた。
(僕がこのまま開耶と一緒にいたら、いずれ母親と剛史に開耶が傷つけられる……)
そんなこと、絶対にさせられない。
だが、僕では開耶を守れない。腕力でも、財力でも、母親と剛史にかなわない。
守ることができないのなら、開耶に危害が及ばないようにするしかない。
だから、距離を取り、今後一切会わないようにするしかない。
やはり僕ではダメなのだ。
開耶と一緒にいることなど、許されなかったのだ。
それどころか、これ以上開耶とともにいたら、母親や剛史に彼女が傷つけられてしまう。それこそ、命だって奪われてしまうかもしれない。半身不随や失明なんてことにもなりかねない。
そんなことになったら、僕は生きていけない。開耶が死んでしまうのはもちろん、一生ものの傷を負わせてしまうなどといった責に、耐えきれるはずもない。
僕では開耶を守れない。
僕では開耶を幸せにすることなどできない。
(開耶と……別れなければ……)
そういう結論に、至るしかなかった。
悲しくて、悔しくて、その晩は一睡もできなかった。
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