六章 あなたの味方だよ
あなたの味方だよ-1
無我夢中で意味もなく走って辿りついたのは、彼女の手紙にあった約束の場所、駅前の六番のバス停。
開耶が学校から帰る時に、いつも乗るバスが発着している場所だ。
バスを待つ人間のためのベンチが一脚あって、僕はそこに腰かける。
陽はすっかり落ちていて、今は午後五時三十分。彼女が手紙で告げていた時間には、まだ六時間以上あるけれど。
ここで、待っていよう。
一度家に戻る気など起きなかった。
ただずっと、ここで待っていよう。
ベンチに腰かけて、膝の上で手を組んで。
地面を見つめながら、いろいろなことを思い出していた。
開耶と出会った時のこと。
彼女と再会し、名前を知った時のこと。
トラブルに巻き込まれ、衝動のまま無鉄砲に開耶を助けた日のこと。
その流れで彼女を守る形になり、開耶のことを少しずつ知っていったこと。
僕にとって一番嬉しいねぎらいの言葉をかけてくれた、体育祭の日のこと。
離れるのが惜しいと思ったこと。正式に付き合ってくれと頼んで、やわらかな笑顔を見せてくれたあの朝のこと。
開耶のことが好きなのだと、自分の中で明らかになった日のこと。
始めて弁当を作ってきてくれた昼休み。
図書室に残って、毎日隣同士で勉強していたテスト期間。
生まれて初めてデートした日。
協力して進めた、文化祭の準備。
出店の物を食べながらあちこちのクラスの出し物を見て回り、後夜祭を見ながら自分を嫌いにならないでと泣きながら訴えた開耶に、真っ向から好きだと言った文化祭当日。
開耶の家に遊びに行って、彼女の父と母に託された願い。
そして、僕のことを好きだと言ってくれた開耶。
どれもこれも、大切な大切な記憶だ。
ほとんど無味乾燥で灰色だった十七年と半年の生涯の中で、開耶と出会ってからの二ヶ月は、たくさんの新しいことと、胸がどきどきする高揚感と、それでいてどこまでも落ちつける安らぎに満ちていた。
なのにあろうことか、僕は自ら彼女を突き放してしまった。開耶を傷つけてしまった。
僕は自分を殺し、この身体をただの残骸にしてしまった。
そんなことをしても、開耶も僕も喜ぶはずがないと、本当はどこかで分かっていたのに。
けれど、開耶が覚えていてくれたから、僕は生き返ることができた。
僕は、そんな開耶にもう一度会わなければならない。
会ってからのことなんて考えていないけれど、もう一度だけ会って――。
ベンチに誰かが腰かけた。
もう夜も更けていて、バスに乗る客もほとんど並ばない。
ゆえに、ベンチもずっと空いていた。
そんなベンチに、僕の隣に、静かに誰かが腰かけた。
「……寒いですね」
「…………」
女の子の声だった。
優しく、やわらかい、女の子の声。
僕に、話しかけているようだった。
「もう、十一月ですもんね。こないだ九月だったのに、この二ヶ月間は本当にあっという間だった……」
「……ああ」
「時間って、こんなに早く流れていくものだったかなって、わたし、思います」
「ああ、僕もだ……」
地面を見つめたまま、僕は答える。
彼女と出会ってからの二カ月、本当に楽しくて、嬉しくて、あっという間で。
こんなに早く時間が流れていくものなのかと、僕も考えていた。
「それはそうと、そんな恰好で、風邪引きませんか」
「…………」
僕は学校を出てそのままここにいるため、制服姿のままだ。昼はまだいいが、夜になると一気に冷え込むこの季節にブレザーは厳しい。
「よかったら、このコート着てください」
そう言って、女の子は立ち上がって僕の前に来る。
着ているコートを脱ごうとしているのが、彼女の脚しか見えないままでも分かった。
だから僕は答えた。
「コートは要らない」
そして顔を上げて、その女の子を見つめて言った。
「お前に、暖めて欲しいんだ」
神崎開耶は、壊れそうなほど顔をくしゃくしゃにして、笑った。
零時十五分に、最終バスが出る。
僕と開耶は、運転手以外誰もいないそのバスの一番後ろの席で、身を寄せ合って揺られていた。
ひとつだけ気になって、僕は彼女に訊いてみた。
「開耶」
「うん?」
「……毎日、あの時間にあそこで待っていたのか?」
「…………」
開耶は、答えなかった。
けれど、きゅっと強く、僕の身体を抱きしめた。
何個目かのバス停で降りて、二人は真夜中の道を静かに歩く。
「寒いね……」
「ああ……」
「もう少しだからね……」
「ああ……」
右手があたたかい。
開耶の小さな手の感触と温度が懐かしくて、それだけでくじけてしまいそうだった。
開耶は、僕を連れていってくれる。
行く場所なんて、わかっていた。
ここしばらくで、いや、この一生で、僕が一番落ち着くと感じたあの場所だ。
開耶は、そこへ連れて行ってくれる。
やがて、その場所が見えた。
しかし開耶は、玄関を開けて入るかと思いきや、その扉を避けて家の壁沿いに回り込んだ。闇に紛れて、彼女の姿が見えなくなる。
「こっちだよ……」
真っ暗なところから囁き声がして、僕は足元もおぼつかないまま彼女の後を追う。
闇の中で手がきゅっと握られ、優しい力で、引き込まれていく。
そのまま十歩ほど歩いたところで、止まってと優しく言われて足を止める。
「ここにね、勝手口があるの。こっそり入ろう」
「あ、ああ」
カチャカチャと開錠する音。キイ、と開く扉の音。そしてそこからほのかに香る、神崎家の穏やかな匂い。
「上がって……」
「い、いいのか……?」
ここまで来て、急に及び腰になってしまう。なにせ、僕が今しようとしていることは、彼女が招いたとはいえ、開耶の家に忍び込んでいるも同然なのだ。
そうしたら、開耶は闇の中で、声だけでくすくすと笑った。
「だいじょうぶ……お父さんはもうドイツに戻っちゃったし、お母さんも、もう寝てるから……すぐ左に階段があるから、そこ上って……」
今度は、優しく僕の身体を押す開耶。言われるがままに真っ暗な家の中に上がり、左に折れると、確かに階段のようなものがあるように感じられる。
「段差、気をつけてね」
後ろから、下から、開耶はそう言って僕を促す。
階段を登り切り、そのまま優しく押され続け、やがて一番奥の扉の前で止められる。
「着いた……」
「ここは……?」
もう答えなど分かりきっているが、訊かずにはいられない。
そうしたら、開耶は「ここ? うーん……」と、しばらく考えるようにしてからやがてこう答えた。
「わたしと双葉くんの、最後の居場所……かな……」
扉は、静かに静かに、開かれた。
(ここが、開耶の部屋……)
真っ暗で、窓から差し込む外の明かりでぼんやりとは見えるが、なにが置いてあるのか、色調はどうなのかなど、ここがどういった部屋なのかを把握するには、光は弱い。
しかし、この匂い。
それが、ここは間違いなく開耶の部屋だと、僕に思わせる。
開耶を抱きしめた時のあのほんのりと優しい匂いが、この部屋には満ちている。
背後で扉が閉まり、鍵がかかる音がした。
「ふう……」
開耶が、長い吐息をつく。僕は振り返って、開耶に何かを言わなければならないと、考えすらまとまっていないのに口を開いて彼女を呼ぼうとして。
「さ、開耶……うわっ」
ぎゅっと、強い力で抱きしめられた。
「双葉くん……双葉くん……! 会いたかった……本当に会いたかった……!」
「開耶、僕は……」
やわらかい。
あたたかい。
この感触、この温度。
僕の大好きな、開耶のものだ。
これが欲しかった。
これを求めていた――。
「来てくれるって、絶対に来てくれるって……信じてた……!」
「あ、ああ、あ……」
声にならない。
なにを言えばいいのかも、わからない。
分かるのはただ、僕はこうされて嬉しいということだけだ。
開耶は、強く、ただ強く抱きついてくる。
抑えていた思いをぶつけるように。
溜まっていた感情をぶちまけるように。
「開耶……ごめんな……! 悲しませて、ごめんな……!」
「双葉くん……うあああ……! わああああ……!」
僕の胸に顔を埋めて、開耶は号泣した。
僕の知る限りで三度目だったそれは、一番激しく、一番長く、一番子供じみていた。
幼子のように、開耶は泣いて泣いて泣いた。
どのくらいそうしていただろうか、やがて開耶は僕の胸板から顔を離すと、涙声で切れ切れに言った。
「ごめんね……制服の上着、わたしの涙で汚しちゃった……」
「いや……大丈夫だ」
開耶の涙なら、むしろそのほうがいいというか、とにかく問題ない。
そう言ったら開耶は「もう……」と照れたような怒ったような声を出して、それから僕の上着をそっと脱がす。
開耶は脱がしたそれを持って部屋の隅まで行き、ハンガーにかけていた。徐々に目も慣れてきて、暗い中でも開耶の行動が見えてくる。それから僕のもとへ戻り、またぎゅっと抱きついて今度はすぐに離れた。
「ね、双葉くん。こっちきて」
そう言って、僕の手を取る。
しかし、こっちと言ったその先にあるものは――。
「い、いや、それは……」
僕の混乱と葛藤をよそに、開耶はベッドに乗り、掛け布団を上げて潜り込んで。
「来て……あったかいよ……」
にっこりと笑って、僕を誘う。
薄明かりの中で見えたそれは、とても幻想的で蟲惑的で、逆らえないというよりも、逆らいたくなくさせるものだった。
そんな彼女の誘惑に、僕が抗えるはずもなかった。黙ってベッドに乗ると、開耶は手を伸ばして一気に僕を布団の中へと引き込んだ。
温かくいい匂いのする布団の中で、隣には開耶。
夢のようなというよりも、これが現実とは信じられないような場所に、今の僕の体はあった。
「これでやっと、落ちついて話ができるね……」
すぐ近くにある、開耶の優しげな表情。
静かな夜に、僕と開耶は同じ部屋で、同じ布団の中で、二人きり。
僕の理性は、今すぐにでも崩壊してしまいそうだった。
「ねえ、双葉くん」
「なんだ……?」
「わたしと、初めて会った日のこと……覚えてる……?」
「ああ……」
忘れるはずもない、僕たちはあの事故から始まったのだ。
あの時は、まさかここまで深いつながりになるなんて欠片も思っていなかったのに。
「本当に……色々あったよね」
「ああ……」
「双葉くん、最初すごく怖かった」
「ごめん……」
「でも、本当はすごく優しいんだって、何回か会ううちに分かったよ」
「…………」
僕は優しくなんかない。
心を閉ざし、凍てついた壁で何層にも多い、人と関わることを拒み、全てを投げた臆病で情けない男だ。
そう開耶に言ったら、ふるふると首を振られた。
「そんなこと、ないよ。双葉くんは、本当は誰よりも優しい人だって、わたしは知ってるよ……ただちょっとだけ、目つきがきつくて、ぶっきらぼうだから、誤解されやすいだけだって……」
この胸から湧き上がってくる、妙に温かいものはなんだ。
開耶の言葉に反応して、胸の奥から逆流してくるものはなんだ。
苦しくて、切なくて、どうしようもない。
けれど不快ではない、この感情はいったいなんなんだ。
無意識に、手が胸を押さえていた。開耶はそんな僕の手に、そっと自らの小さな手を重ねて言う。
「双葉くんは優しいから、わたしを傷つけないようにって、あのとき別れを選んだ……」
「っ……」
話が核心に近づいてきているのが分かる。
開耶は、胸を押さえる僕の右手に重ねる手をもうひとつ増やし、小さな両の手でそっと包み込みながら続ける。
「きっと、それはそれで正しいんだと思う。あれから一人でずっと考えてね、頭では理解できたんだ。双葉くんがお母さんと恋人にひどい目に遭わされてて、わたしと付き合っている双葉くんのことが、その人たちには面白くなくて。で、わたしを危ない目に遭わせないように距離をとろうって。双葉くんも、そう言ってたよね」
僕は黙って頷く。
「そうだよね。だから、理屈はわかるんだよ。双葉くんの言ってたことも、今ならわかる。あのときのわたしは、頭が混乱してなにがなんだかわからなかったけど、それから一人でずっと考えて、そこまではなんとかわかったんだよ。でもね」
「……開耶?」
彼女はそこまで言うとうつむいて、何秒かの沈黙の後にばっと顔を上げて。
「わかってても……わたし……納得できない……! 理解はできても、納得できないの……! 頭ではわかってても、心が受け入れてくれないの……!」
横になっていた開耶は急に身体を起こし、涙をいっぱいに溜めた眼で、ぶちまけるように一気に吐き出した。
「双葉くん、お願い……! わたし、まだ双葉くんのこと好きだよ……! 離れたくない……! このまま終わりなんて、そんなの嫌なの……!」
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