告白-4
開耶が泣きやんでも、僕は彼女が落ち着くまでずっと抱きしめていた。やがて開耶は顔を上げ、「ごめんね、こんなに遅くなっちゃったね……」と言った。大きな眼はまだウサギのように赤かったが、それでも泣いていくらかすっきりしたのか、少女にはわずかばかりの笑顔が戻っていた。
「僕は平気だが、開耶は大丈夫か」
「うん、平気だよ。今日も遅くなるってお母さんに言っておいたから。文化祭、双葉くんと一緒に回ってくるからって」
悪戯っぽく開耶は笑う。
「だから、一緒に何か食べたいな」
「おごってやらないぞ」
「意地悪……」
開耶はそれでも、楽しそうに僕とふざけあった。
「仕方ないな」
財布の中身を確認してみる。文化祭で遊びまわったとはいえ、どうにか二人分はありそうだった。
「ファミレスでいいか? 駅のそばの」
「……いいの?」
「ぎりぎりだ」
開耶は口に手を当てて考えてから言った。
「やっぱり、わたしは自分で払うよ」
「ぜひ、そうしてくれ」
タラバガニのトマトクリームスパゲッティを食べている開耶に、今日は家まで送ると言った。
時間が遅いのもそうだが、もう今日は開耶を守って、無事に送り届けなければいけない気になっていた。あれだけ弱い面を見せられてしまったからだろうか。
開耶は最初こそ、迷惑じゃないかと言っていたが、もう一度僕が繰り返すと、うん、わかったよと言ってから再び食べ始めた。どうやら折れてくれたらしい。
食べ終わり、会計を済ませ、僕は開耶と一緒にバスに乗った。駅を出たあたりはまだ町の明かりで明るかったが、徐々にバスは暗い道を走っていく。窓から外を眺めても、ただ闇が後ろに移動していくだけ。
二十分ほどバスに揺られ、ひとつの停留所で僕と開耶は降りた。
あたりは結構暗く、ものさびしい。
「ここから家まで、どれくらい歩くんだ」
「十分くらい……かな?」
点在する一戸建て住居の窓からの光以外、周りには頼りない街灯しか明かりらしい明かりがない。
こんな暗い道をひとりで歩かせていたら、暗がりにまぎれて変質者や通り魔に襲われてもおかしくないほどだった。現に開耶は恐怖の念を表している。
「こんなに暗くなるときに学校から帰ることなかったよ。ちょっと怖いな……」
「ああ、これは女の子一人だと危ないかもしれないな。けど、心配いらない」
僕はなにか武道の心得があるわけでもないが、最悪でも身を盾にして開耶を逃がせるだろう。木下や藤井や山口だったら放っておいても大丈夫そうというか、変質者のほうで避けて通りそうなものだが、この開耶はもう種族からして例の三バカと違うんじゃないかと思うくらいこんなにも弱くてかわいらしい。守ってやらなければ。
怖いのを紛らわせたかったのか、開耶は積極的に僕に話しかけた。文化祭で一緒に見た劇のことや、風変わりな店のことや、何が一番おいしかったかなど。
開耶の歩幅に合わせて歩くこと十数分、開耶はふと視界の遠くで玄関の明かりでぼんやり映る一軒の家を指さして「あっ、わたしの家、あそこだよ」と言う。
(……ほう?)
結構いい家だなと思ってしまった。二階建てで庭がついていて、その庭には暗くてよく分からないが池もあるようだった。鯉でもいそうだ。
家の前までたどり着き、開耶はインターホンのボタンを押す。するとそこから『はーい?』と間延びした女性の声が返ってきた。母親だろうか。
「開耶だよ、開けて」
少女がインターホンに向かって話しかけると、すぐに玄関の戸が開いた。その内側にいた人物を見て、開耶はあからさまに驚愕する。
「お、お父さん!? なんで? 確かまだ、あと一年以上むこうにいるとか……」
扉を開けて出てきたのは先の声とはうって変わって、男だった。お父さんと言っているのだから、彼女の父親で間違いないのだろう。
そう言えば開耶の父はドイツだかイギリスだか、海外に赴任していると一度聞いた。予測していない父親の登場に、開耶は驚きを隠せていないようだった。開耶父は鞄を娘から受け取って言った。
「ちょっと日本に用事があって、さっき戻ってきたんだ。すぐまたあっちに飛ぶけどね。文化祭に間に合えなくて残念だよ」
「わ、日本に、だって」
穏やかな声の男だった。開耶より後方に突っ立っている僕の位置だと家の内部からの逆光で彼の顔はよく見えないが、背丈は僕より低いようだった。
しかし、どうやら今の僕はここにおいて空気のような存在らしい。今のうちにこっそり帰ってしまうかと思っていると、その男――開耶父が、僕のほうに首を動かした。
「…………君は……」
流石にこれでは黙って帰れない。僕は開耶のいるところまで数歩歩いて、開耶父に近づいた。やっと見ることのできた彼の顔はとても若い。どう見ても40歳より下だ。声とたがわず穏やかな顔つきをしている。
少し緊張したが、なんとか定型文だけでも言おうと試みる。
「は……はじめまして、開耶さんと……」
「お父さん、この人、上杉双葉くん。わたしの彼氏さんで、送ってくれたんだよ」
僕が言い終わる前に、開耶は嬉しそうにそう言った。僕は言うことをすべて言われてしまったので、ただ頭を下げた。
のだが。
「…………」
(見てる、ものすごく見てる……)
開耶父は僕のほうをじっと見て動かない。
ただ、品定めというよりは、どちらかと言うと僕の内面を静かに見通すかのような視線で、それ自体に嫌悪感は抱かなかった。
いつまで見られていただろうか、その間、僕の体は金縛りにあったかのように動かなかった。そして、
「……帰りが遅いから、少し心配していたんだ。わざわざありがとう」
そう言って開耶父は静かに笑った。
「あっ、い、いえ……」
「どうだい、せっかくここまで来てくれたんだ、お茶でも。それとも親御さんが心配するかな」
「そうだよ、双葉くん、あがっていって? ゆっくりしていこうよ」
親子二人に勧められる。
正直なところ、ぜひ厚意に受けたいところだったのだが。
「すみません……せっかくのお誘いですが、うちの文化祭を遠方から見にきた親戚が先に僕の家で待っていますので……」
「えっ、そうだったの?」
「そうだったんだ」
もちろん嘘だ。
せっかく開耶は父親と再会できたのだ。しかもこんなに人の良さそうな父親で、開耶が抱いている印象もとても良いものと見えた。こんなときによそ者は不要だろう。そう考えた。
開耶父は再び無言となったが、今度のそれはすぐに終わった。
「そうか、忙しいところをすまなかったね。今度時間のある時にでも、ぜひ来てくれないか」
「ええ、では僕はこれで」
もう一度頭を下げ、僕は帰ろうとした。
そうしたら開耶は最後に、自分から一歩分離れた僕に向かってぴょんと跳ぶように寄って、耳元に口を近づけて。
「双葉くん、今日はありがとう……ほんとうにありがとう」
「ん、ああ。また月曜に」
耳に吐息がかかり、一瞬身体が震えた。何とかそれだけを言って開耶のほうを向くと、少女はすっかり元の笑顔に戻っていた。僕は安心し、開耶の家を後にした。
外から見た自宅は真っ暗だった。剛史は来ていないらしい。僕は鍵を開けて家に入り、電気をつける。
居間では母親が、いつものように腹を出して酒に囲まれて寝ていた。
(毛布くらいかけて寝ればいいのに……)
いつもは放っておくところだったが、魔がさしたのか、僕は彼女の寝室から毛布を引っ張り出して、首から下にかけてやる。すると母は反応し、うめき声を上げながら体をくねらせた。
「んむ……」
「寝るならベッドで寝たらどうだ」
「んぐ……」
「……母さん、こんなところで寝ていたら、風邪をひくよ」
子が母を思うように、いや実際にそうなのだが、僕はあえて優しい口調で呼びかけてみた。
「ん……剛史ぃ……」
寝返りを打って、母は不明瞭な発音ながらも、確実にそう言った。
「……っ!」
視界が真っ赤になった。
そばに置いてあった鞄を力いっぱいその豚のような丸い体に投げつける。ほとんど何も入っていないから軽い。ぼすんと音がして鞄は転がっていき、母は反対方向に寝返りを打って抵抗を示した。
「むが」
「なにが、むが、だ! お前は、お前はっ……!」
殺意さえも、そのとき芽生えた。
(なんなんだこの生き物は!こんなゴミみたいな存在が僕の母親か!僕の体にもこんなゴミのような血が流れているのか……!)
いっそこの母を殺してしまえば、剛史もここに来る理由がなくなり、僕は穏やかに暮らせるのではないか。
そう思ってすぐに思い直す。そんなことはできない。この世の中だ、すぐに捕まってしまい僕も重罪だ。尊属殺人罪はすでに日本では存在しなくなったが、それでも殺人という重い罪には変わりがない。
出所できたとしてその後はどうなる。出所後には母もいない、剛史もいない、祖父母だって死んでいるだろう。 身寄りもなく金もなく前科持ちなど、それこそどこで生きていけばいい。
(くそっ……殺したくても殺せないのが余計に腹立つ!)
転がった鞄をつかみ、まだ寝ぼけた母を放って部屋へ退散する。
「お父さんが、双葉くんに話があるって」
文化祭から三日後、開耶は朝の通学路でそんなことを言った。僕は少しだけ驚いて、「開耶の?」と、そうに決まっているだろう答えを聞き返す。
「うん、向こうへ飛ぶ前に一度会いたい、だって。なんでかは教えてくれなかった。男同士の話だー、って」
僕はなんだか不安になった。
あの時ちらっと見まみえた彼女の父親の顔を思い出す。剛史のように乱暴そうな男には見えず、理知や常識のありそうな大人であると見えたが、なにぶん一目見て二、三言会話をかわしただけだ。彼を把握するには情報が少なすぎる。
ゆえに、彼が何を目的で僕に会いたいかなど予測もつかず、それが僕を不安にさせる。それに男同士の話とはいったい。殴り合いじゃないだろうな。
「……まさか、今後一切開耶に近づくな、とかか?」
「そういう方向じゃないみたいなんだけど……とにかく、ぜひ彼に会って話がしたい、って言ってた。近いうちに、また来れないかな? お父さん、あんまり長く日本にいられないし……ダメ?」
「ふむ……」
どうすべきか、腕組みをして考える。
少し不安だが、今の段階で考えていてもなにも始まらないし、ここは腹を決めて会いにいくことにしたほうがいいだろう。たとえ彼の目的が先ほど僕が口にした最悪の可能性だとしても、どのみち娘さんにはお世話になっていますと一度は挨拶をしなければならない相手だ。せっかく向こうから会いたいと言ってくれたのだ、それに乗じよう。
「わかった、僕のほうはいつでもいいと伝えておいてくれ」
「うん」
そこからさらに二日後、授業が終わると僕は開耶とともに再び彼女の家へと赴いていた。
駅前のターミナルからバスに乗り、何個目かのバス停で下車し、彼女と共にあの時歩いた道を再び辿る。前回は文化祭後ということでだいぶ遅い時間であったが今日はまだ明るい。
神崎家にたどり着き、開耶がインターホンを押す。するとすぐに扉が開き、今度は女性が出てきた。
「あら、おかえりなさい。それと、いらっしゃい」
女性は言葉の後半で僕を見て、優しく笑んだ。
若い。それに顔つきが開耶にそっくりだ。開耶がかわいいのに対し、この女性は落ち着いた大人の女性がもたらす美しさがある。しかし、穏やかさというベクトルはきっちりと同じ方向を向いていて、その女性の笑顔も開耶のそれと同じように僕の心を不思議と落ち着かせる。
はっきり違うところといえば髪だろうか。開耶の肩までの美しい黒髪ストレートとは違い、この女性の髪はゆるく巻いた明るい茶色で、開耶のものよりもう少し長い。
「あなたが上杉双葉くんね。開耶から話はよく聞いているわ。あ、私は
「えっ、あっ、はじめまして……お姉さんですか……?」
開耶に兄弟姉妹などいただろうか。しかし、決して開耶は「いない」などとは口にしていない。
戸惑いがちに僕が言うと、幸恵と名乗ったその女性はまさに満面の笑顔を作り、両手を頬に当てて照れた。
「あらあら、まあまあ、お上手ねえ。お姉さんに見えたのかしら?」
「ふ、双葉くん、この人、わたしのお母さんだよ」
「な……」
開耶が後ろから囁く。
信じ難かった。改めて彼女を見てもとても開耶の母親には見えない。父親も比較的若かったが、この人はもっと若く見えた。学生だと言われても信じてしまうかもしれない。僕の母親なんて五十歳を超えていて、しかも醜く老けているというのに。
「し、失礼しました、開耶さんのお母様」
僕は大慌てで頭を下げたが、開耶母こと幸恵は嬉しそうにひらひらと手を振った。
「やだ、いいわよお姉さんのままで。ささ、立ち話もなんだから上がってちょうだい。お父さんもいるから」
流されるように僕は靴を脱いで、家の中へと入った。開耶も後から続く。
二人して手を洗った後、開耶は僕の鞄と上着を預かると言ってくれた。言われるままにブレザーを脱いで鞄を渡すと、じゃあ着替えるからと開耶は僕の上着と二人分の鞄を持って階段から二階に上がってしまい、僕は一人でリビングにいる彼女の父親と対面することになった。
緊張したままリビングまで歩を進めると、そこには一人の男がテーブルの一角に座ってグラスを傾けていて。
僕を見ると、それをテーブルに戻してから穏やかに一言。
「――――やあ」
「…………上杉双葉です」
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