告白-5

「改めて、私は開耶の父で神崎哲弥かんざきてつやという」

 開耶父は僕に紅茶を薦めると、僕が一口飲んでからそう名乗った。

 口調は初見の時と変わらず穏やかだったが、僕の心中はまだ穏やかにならず、次にどんな言葉が出てくるのかと、僕は戦々恐々だった。

「開耶が面倒掛けてるね」

「……滅相もありません。こちらこそ、いつも開耶さんにはお世話になっています」

「そう言ってくれると、私としても気が楽だよ」

(ここまでは完璧……)

 お世話になっていますという、かねてから用意していた言葉は伝えた。名前も最初に名乗った。ここまでは失敗はない、はずだ。最低限の礼儀はなっている人間という印象を与えることはできた、はずだ。

 問題はここからだ。台詞の用意ができないアドリブの会話で、巧く話を展開できるか――。

 彼に気に入ってもらおうとか、娘と交際する男として認めてもらいたいとか、そういった打算的な下心はない。僕が望むのは、あくまで普通の会話を繰り広げ、普通に会話を終わらせること。開耶の父親に、常識や礼儀くらいはある人間だと思ってもらうこと。

 常識も礼儀もなっていない男だと思われ、開耶に恥をかかせることだけはあってはならない。僕が危惧するのはそこだけだ。

 緊張で、膝の上に置いた手が軽く震える。

 哲弥は僕のそんな様子には気づいているのかいないのか、ブランデーの入ったグラスを目の高さで緩やかに揺らした。琥珀色の液体が踊る。

 一方で開耶はというと、比較的ゆったりしたかわいらしい私服に着替え、母とともに台所で料理に取り掛かっていた。哲弥はちらと彼女らの様子を見てから僕に向き直って続ける。

「あの子は人と仲良くするのが苦手でね。……知っていたかな」

「開耶さんご本人から、だいたいは」

「なら話が早い」

 グラスを傾け、哲弥はブランデーを一口飲んだ。先の揺らすしぐさといい、彼はどこか優雅だ。僕もなんとなく紅茶のカップに再度手を伸ばし、もう一口飲んだ。砂糖もミルクも入れていないストレートで、赤茶色の透明な液体が綺麗だった。

「反動形成って分かるかな」

 僕は質問に答えるため少しだけ時間をかけ、どこかで聞いたおぼろげな記憶をなんとか引っ張り出す。

「抑圧した欲求や感情と正反対の行動や態度を示す、自我防衛機制のひとつ……」

「うん、カウンセラーがそう言った。中学の頃につらい目に遭ってから、開耶は心を閉ざしてしまった。あの子は、本当は他人が好きで誰とでも仲良くしたいと思っていたのに、あのことが開耶をそれと逆に行動させた。他人を怖がり、距離をとり、ずっと一人でいた。自分の内面を見せることなど、もってのほかだった」

「…………」

 初めての出会いになる、僕とぶつかったときのことが頭に浮かんだ。怯えた表情、震える体、消えそうな声が記憶に蘇る。

 二度目になる、菓子を持って謝ってきたことも続いて頭に浮かぶ。その時も開耶は僕を怖がり、必要以上に腰を低くして。さすがに三度目に会った時は慣れてくれていたようだが、今の話でやっとわかった。

 あの異様な怖がりようはそこに起因していると。

「今ちょっと触れたけど、カウンセリングにも通わせた。私はなんとか土日に休めるように仕事のスケジュールを詰めて、土日には家族全員で遠出して開耶に海や山を見せたりもした。けれど、開耶は元気にならなかった。私や母さんがどれだけ楽しませようと頑張っても、開耶はさみしそうに笑うだけなんだ。そうして時間だけが過ぎていく中で、私は単身で外国へ行くことに決まった。娘が不安定なのにそばにいてやれなくなるのは好ましくなかったが、やはり仕事は仕事、その時は断れなかった。これでも海の向こうから、毎日娘のことを心配していたんだ」

 僕は紅茶のカップを両手で包みこむように握っていたが、とても三口目以降を飲む気になれなかった。開耶のつらい過去は彼女本人に一度聞いたが、その親が背景を交えて語るとなるとことさらに話が重い。手はまだかすかに震え、カップの中で赤茶の液体が小さく波打つ。

 ニンニクを炒めるいい匂いがした。少し離れたところでは女性陣が楽しそうに料理をしているが、こちらの会話は聞こえていないようだった。哲弥の声はよく通るものだったが、開耶本人には聞かせたくないのだろう、少し前から小さな声で話していた。

「でも少し前に母さんから電話が入ってね。開耶が元気になってきたというんだ。なんでも彼氏ができたってね。楽しそうに電話でその彼氏と話してたり、食卓でもその話題ばかり出したりしているんだ、って母さんは言った」

「そんなに、ですか」

「少し前、国際電話で開耶とも話したんだが、とても明るく喋っていた。娘が元気でいる、それは、親として一番嬉しいことなんだよ。そうまで開耶を変えてくれたのは、まぎれもなく君だ。親の私たちがどうにもしてあげられなかった娘を、赤の他人であるはずのきみはこの短い間でこうも元気にしてくれた。親としてわずかながらの嫉妬もあるが、それ以上の好奇心がある。いったい君は何を持っていたのか、どうしても知りたくなってね。君を呼んだのはそこなんだ」

 哲弥は期待と好奇のまなざしを向ける。

 彼が僕と話をしたいという目的は分かったが、僕はまた困惑した。開耶を元気にするために必要なものを、私たちは持っていずに君は持っていたのだろう、それは何だと哲弥は聞いているのだろうが、僕だってただ開耶とひょんなことから一緒にいるようになって、いろいろあって今に至るわけで、けれどなにか主だって事を為したわけではない。

 強いて言えば体育祭前のあの一件で策を弄したことくらいだが、そのあとすぐに開耶が元気になったかというとそうでもない。始めて会ったころの開耶と今の開耶を比べれば明らかだが、開耶はある時突然変わったというわけではなく、気づいたらこんな風に明るくなっていたのだ。

 かといって、黙っているわけにもいかない。分かっていることだけでも、ぼんやりしていても、なんとか言葉にして伝えなければ。

「よく……わかりません。ただ一つ申し上げられるのは、開耶さんと一緒に居させていただいているうちに、開耶さんが次第に明るくなってくるのを自分でも感じ取れた、ということです」

「そうか……」

 哲弥は黙ってしまった。

(今の、駄目だったのか……けれど僕にはそうとしか……)

 気まずい自分の気持ちをごまかすように、僕はようやく紅茶の三口目を啜った。少しぬるくなっている。

 台所から、開耶と開耶母の声が聞こえた。

「お母さん、トマトってもうなかったっけ?」

「あらあら、冷蔵庫の中にない? あ、そうそう、テレビの上に乗せてあったわ、確か」

 開耶がひょいと現れ、僕たちの横を通る。テレビの上にある十分な赤さのトマトを一つ持って、また僕たちの横を通った。そのときにこちらを見て開耶はくすっと可愛く笑って、それから再び台所へと消える。

 そんな娘の一連の挙動を見届けてから、哲弥は言った。

「いや、別にわからなくてもいいんだ」

「す、すみません」

 そうは言ってくれるが、哲弥はそれを知りたくて僕を招いた節があるというのに、彼の望むものを示せなかった、それについては謝らずにはいられなかった。

「ただ、元気でいてくれればいい、笑っていてくれればいい。それが親たる私の願いだから」

(親か……)

 親というその言葉が持つ印象は、僕の中では最悪の部類に入ると言ってもいいくらいだった。だからこそ、僕はこの人間に対し、一つの疑問が湧き起こった。

「僭越せんえつながら、僕も一つ訊いてもよろしいでしょうか」

「なんだろう」

 その親はぴくりと動いたような気がした。

「親とは、何を持っている者なんでしょう」

「……定義でいえば、子供を持っている者だけど……どうも君はそんなことを訊いているわけではなさそうだね」

 そこから先を、哲弥は少し考えたように黙ってからゆっくりと答えた。

「そうだな、子を慈しみ、配偶者を慈しみ、そして親となった自分をも慈しむことのできる優しさ。それから、子を守り、配偶者を守り、親である自分自身を守ることのできる強さ。この二つを兼ね備えている者じゃないかな。私の持論だけどね。私も立派な親とは言えないから、そうなるように、そうあるように頑張っている」

「……よい答えを頂きました」

 僕は静かに頭を下げた。



 出された料理を見て、僕はついこう言った。

「またパスタか?」

「またって……双葉くんにパスタをふるまったこと、一度もないよ」

 言われてみるとそうだった。しかしどうも僕の中では、開耶といえばパスタ、のような変なイメージが出来上がっている。美術館でパスタについて得意げに語っていたところにその根源があるのだろう。

(しかし、わりとシンプルなものが出てきたな)

 それは、皿の外周に沿って円く盛りつけられたトマトの赤が目立つが、あとは薄いクリーム色のパスタの上にベーコン、パセリ、スライスされたニンニク、それと円環状の赤唐辛子がどれも多すぎない程度に盛りつけられている、思っていた以上にシンプルなスパゲッティだった。

 僕が哲弥と話を始める前、開耶は母親に「せっかくうちに来てくれるんだもん、腕をふるっちゃうよ」と言っていたのを確かに耳にした。それだけに、今まで開耶においしい弁当を食べさせてもらっていたこともあり、もっと豪勢な凝ったものが出てくると思っていたが。

「これ、なにかわかる?」

 開耶がそう聞いてくるので、首を横に振って否定を表わす。

「パスタだということしか分からない」

「ペペロンチーノだよ。スパゲッティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ。わたしの一番得意な料理。すっごくおいしいよ、食べてみて」

「あ、ああ、それじゃいただきます」

 けれど、あの控えめな開耶がここまで言うほどだ。ともかく食べてみる。

 フォークでパスタを絡め取り、口に運ぼうとする。その間、開耶はぴくりとも動かずに僕の動作をじっと見つめていた。

 非常に落ち着かなかったが、そのまま口の中に入れて咀嚼する。一口目を食べた感想としては、少し辛い。そう開耶に伝えると、

「えっ……あっ、違うのそれは、トマトと一緒に食べて」

 慌てて開耶はそう言った。言葉どおりに、二口目は小さく切ってあるトマトと一緒に口の中に入れてみる。

「……んんっ?」

 すると、思わず変な声で唸ってしまうほど絶妙な味わいだった。トマトの酸味が唐辛子の辛さと合わさって、三口目以降もすいすい食べられる。

「美味い……」

「ほんとう? やったっ!」

 手をぱんと叩いて、大喜びする開耶。今まで見たことのないほどの、満面の笑みを浮かべている。

 ただ辛いだけだったのに、トマトと一緒に食べるとやたらと美味い。不思議だったが、考える暇も惜しいくらいに手と口が動く。

「まだ五時だし、ご飯の時間じゃないでしょ? イタリアでは小腹がすいたときにね、ペペロンチーノはよく食べられるの。こんな風にシンプルだけどおいしい。材料も基本はパスタと、それ以外にはニンニクとオリーブオイル、それから唐辛子だけでいいから結構簡単。あとは味を引き立てられればなんでも入れちゃっていいの。ちなみに、アーリオがイタリア語でニンニク、オーリオはオリーブオイル、ペペロンチーノは唐辛子って意味なんだよ」

 パスタ大好き開耶の講座が始まったが、僕の中に入ってくるのは知識よりもパスタのほうが多い。そうやってどんどん食べていると、不意に開耶はにこにこしながら、楽しそうにクイズを出してきた。

「ちなみにね、ペペロンチーノは『絶望のパスタ』とも言われてるんだよ。なんでかわかる?」

「ぜ、絶望……?」

 ものすごく不穏な単語が出てきた。このパスタにはそんなにも重苦しい呼称がついているのか。

 よく分からないが、とりあえず考えてみる。

「昔、囚人が牢獄でこればかり食べさせられていて……これを食べている間はシャバに戻れないから……そういう意味で絶望のパスタ、とかか?」

「あはは、違うよ」

 僕の答えを聞くと、本当に可笑しそうに、楽しそうに開耶は笑った。

 間違えてしまったようだが、笑顔が見られるならそれもいいのか。

「ほとんど材料がないような絶望的な状況でも作れるから、絶望のパスタっていう名前がついてるんだよ」

 そうだったのか。

 開耶は得意げになって、まだまだ話し続ける。

「単純だし自由度も高いから、ある意味難しいとも言えるんだよ。わたしはいつもこうして熟したトマトを入れて、唐辛子と合わせておいしくなるようにしてるの。開耶スペシャルだよ」

 腰に手を当て、えっへん、と誇らしげに胸を張る。大きな胸がより誇張されてついそちらを注視してしまい、慌ててパスタに視線を戻す。

(そうか、これが開耶の一番の誇れるところか)

 パスタを噛みながらそう思った。いつも控えめな開耶でも、このときは大きく出ていられる。

(けれどそれは、この家の中だから)

 自分を忌む人間のいない家の中で、自分の一番得意なことを、安心し、隠さず、僕に披露してくれる。

 そうされる僕は、彼女のそんな面を見せてもらえている僕は、開耶の中でどんな位置にいるのだろう。

 どこまで気を許されているのだろう。

 今さっき聞いた開耶父の言葉や、少し前の開耶の言葉が思い出される。

 人と仲良くすることをあきらめた。

 自分の殻に閉じこもった。

 自分の内面を見せることがなくなった。

 そんな開耶が、こうして得意げに、僕にパスタをふるまい、笑顔を見せる。

 もしかしなくても、開耶はもう。

 僕のことを、家族と同じように思ってくれているのではないだろうか。

 僕を、彼女にとって最も深いところまで連れてきてくれたのではないだろうか。

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