自覚-8

 昼食を終えた僕たちは美術館から出て、大通りをゆっくりと歩いていた。

「双葉くん、これからどうするの?」

「そうだな、駅前にあった大きなデパートにでも行ってみようかと思っている」

 展示を見終わって、昼食が終わってもまだ二時過ぎだ。もう少し遊んでいたかった。

 この場所、美術館がある街の駅前は大きなショッピングモールとなっている。ウインドーショッピングに洒落込むのも悪くはない。

 金銭的な余裕はそれほどないが、もし開耶が何か欲しいものがあるというのなら奮発しよう。そう考えながら歩いていたら、僕の一歩前を歩いていた開耶が「あっ、ネコだ」と言ってふと足を止める。

「ネコ?」

 僕にもちらっと見えた。右の車道から飛び出してきた真っ黒な塊が僕たちの前を横切って、左側の植え込みの中に入っていったのだ。猫だとまではわからなかったが。

 しかし、真っ黒な塊が猫だとすると黒猫か。黒猫に横切られるとは不吉な。僕は吉凶など信じていないが、開耶はどう思うのだろう。

 けれど彼女もさして気にしている様子はなかった。去っていったそれを目で追うように、背伸びをして植え込みを上から覗き込んでいる。僕も背伸びはせずにそうしたが、猫らしき黒い塊はどこにもいない。

「どこかいっちゃった……」

 開耶は少しだけがっかりした様子でまた歩きはじめた。

 それからまた少し歩くと、僕たちの左側の植え込みが切れて視界が開ける。見るとそこは公園だった。遊具はなく、公園というよりは広場のようだった。ここ、出入り口から五十メートルほど離れたところ、中央に噴水があってそれを囲うように八脚のベンチがある。そのうち二つが使われていた。

 一つには、中年の男がどっかりと座って喫煙をしており、そのちょうど対極のもう一つには――。

「あっ、さっきのネコだ」

 黒猫がそこに座って、日光を思う存分浴びていた。

「ね、触ってきてもいいかな」

 僕のほうに向き直って、開耶は言った。割と真剣だ。

「いいけど、逃げられるんじゃないか」

「ん……行ってみる」

 開耶はそろりそろりと猫のいるベンチへ向かって歩いていく。

 互いの距離が十五メートルを切ったあたりで猫が開耶に気づいてそちらを見た。開耶はびくっと体を強張らせ、さらにゆっくりと近づいていく。僕はその場から動かず見守る。

 猫は逃げない。

 自分に向かってくる人間が三メートル前にやってきても、五十センチまで近づいても、彼女を見てはいるが、逃げるそぶりさえ見せていなかった。

 開耶は屈みこんでそっと手を伸ばし、未だベンチの上から動かない猫の頭に触れた。どうやらそうとう人間馴れしているようだ。僕も一人と一匹に近づいてみるが、猫はやはり、僕に気づいても逃げ出そうとはせずに、それどころか自分の体を開耶になでまわされてすっかり機嫌良さそうにしていた。

「この子、いい子だよ。全然逃げないの」

 猫をなでながら、開耶は僕を見て言う。

「あ、だっこできる。わあ、あったかい」

 それから猫を抱きあげてその温度にうっとりしていた。黒いからな。光と熱を最大限に吸収できているのだろう。

「かわいい……あなた、ノラなの? 首輪ないね」

 もちろん猫は返事などしない。抱きかかえられたまま、金色の瞳で開耶のことをじっと見つめている。ごろごろと、喉を鳴らす音も聞こえる。僕は開耶が野良猫の汚い爪で引っ掻かれたりはしないかと不安で仕方なかった。それ以前に、彼女の白いチュニックにこいつの黒毛がついているのだが。

「ね、双葉くんも触ってみる?」

「そうだな……」

 開耶に抱きかかえられている黒猫に手を伸ばして、なでようとする。猫はまあ好きだが、開耶にくっついているこいつは文字通り抱き合わせになっているせいかさらに可愛く見えてきた。よしよし、可愛がってやろう。

 しかし、僕の手が猫の頭に触れようとした途端、この畜生はフーッと声を出して威嚇してきた。

 流石にびっくりして、反射的に手を引っ込めてしまった。

「うわ、なんだこいつ……逆らうか」

 猫のヒゲが前のほうに向いてきている。これは確か警戒しているサインだといつかどこかで聞いていた。そんなに僕のことが気に食わないのか。

「あれ? どうしたのかな……双葉くん、なにかこの子の嫌いなものでも持ってる?」

「知るか」

 別に好かれようと思ってはいなかったが、こうして露骨に敵意を向けられるとやはり気分の良いものではない。僕が一歩後ろに下がると猫は警戒を解いたのか、再び開耶の腕の中でごろごろと喉を鳴らし始めた。

 そんな猫を見て、あることに気づいた。

(こいつはなんだか僕に似ている。開耶のことが好きなところとか、嫌いな人間に対して敵意を隠さないところとか……)

 そう思うと、今、開耶の腕の中で幸せそうにしている猫に対して言いようのない敗北感を抱いた。もしこの毛むくじゃらな畜生と立場が逆であったなら、開耶の胸にくっついているそれを、制服姿では分かりづらかったが意外に大きく柔らかそうな二つの膨らみを当ててもらえているのは僕ではないか。

 何が違うというのだ。もう我慢ならない。

「ええい開耶、その毛ダルマをよこせ。毛皮を刈ってから脳味噌で出汁だしを取っておでんの具にしてやる」

「おでん……!? な、なに怖いこと言ってるの、ダメだよ」

「僕だって条件は同じじゃないか、開耶のむね……いやなんでもない、とにかく僕はこいつが許せないんだ。断罪してくれる」

「えっ? えっ? ええっ?」

 困惑しつつも、開耶は抱えた猫を僕から遠ざけるように体を九十度ひねる。そんなとき、ふいに「あれ? クンネ?」と別の声が聞こえてきた。開耶より一オクターブ低い、大人びた女性の声だ。

 声の主は僕の後ろ、公園の入口からやってきていた。振り向いて見ると声の印象にたがわず、大人の女性がそこにいる。右肩に小さな鞄を掛け、左脇に鞄より大きなスケッチブックを抱えている。

「…………」

 開耶が息をのむ。確かに見た目の美しい女性だった。

 背は開耶以上で僕以下、女性にしては高いほうだった。その割に小顔ですっきりとしていて、体は細くしなやかだった。緩く巻いた茶髪は背中まで届いている。歳は二十歳前後だろうか。

「やっぱりクンネだ。珍しいね、クンネがほかの人に懐くなんて」

 その女性は開耶の抱いた黒猫を見てそう言った。それから僕たち二人に向かって「こんにちは」と、邪気のなさそうな笑顔で挨拶をした。

「どうも」

「こ、こんにちは……」

 僕と開耶もつられて挨拶する。開耶は猫を抱えたまま器用に頭を下げていた。礼を終えて開耶が頭をあげたとき、猫は突然ウニャギャ、と声をあげてもがいた。逃げたがっているようだ。

「どうしたの?」

 開耶は屈んでから猫を放す。すると猫はその女性に向かって短い四本の脚を小刻みに動かして歩いていき、彼女の脚にすり寄った。

「飼い主さん……なんですか?」

「ううん、違うよ」

立ち上がりながら訊く開耶に、女性はゆっくりとかぶりを振って否定した。

「この子は野良猫。クンネっていう名前も私が適当につけたの」

「……アイヌ語?」

「お、すごい、よくわかったね。彼氏さんも、アイヌのこと勉強してたりするの?」

「いや、イントネーションで」

 そばで開耶が顔を赤くしていたが、ここは気にしないでおく。

「そっか、なかなか鋭いね。仲間ができたと思ってちょっと浮かれちゃったけど」

 女性はそばのベンチに鞄とスケッチブックを置くと、自分の脚にすり寄っている猫を抱え上げた。

「私、この近くの美大に通ってて、アイヌの美術に関心あるんだ。休日にはこの美術館にきて絵を見たりして感性を磨いてね、そのままこの公園でスケッチするのがよくあるパターンなの」

 美大生の女性はそう言いながら、猫を抱えたままベンチに腰をおろした。するとクンネという名の猫は彼女の腕からするりと抜け、膝の上で丸まった。毛玉のようになった猫をなでながら、美大生は続ける。

「人一倍……猫一倍恥ずかしがり屋な女の子でね、私以外に懐いてるところって見てないんだ」

「なんだメスか、ならかまわないんだ」

「え、なに?」

「あ、いや……なんでもありません」

 メスということがわかって安心した。

(ごめんな、もうおでんになんかしないから、仲良くしよう)

 嫌う理由がなくなり、またも可愛く見えてきたメスの黒猫を見ていると、今度はまだ何もしていないのに奴はいきなりこちらを睨み、フーッと威嚇してきた。

「……確かに虫がよかったかもしれないが、僕には懐かないのかお前……」

「自分よりも素敵な彼女さんがいるから、嫉妬してるんじゃない?」

「す、すて……かの……」

 開耶がまたも赤くなってしどろもどろになる。この女性は笑み一つ崩さずよくもまあこうも開耶の気持ちをかき乱せるものだと感心した。なんというか物は言いようだ。そう言われると僕としても悪い気はしない。開耶に至っては気持ちの在りようはあからさまにわかる。上手に片づけられるものだ。

「あんまり気にしないでね、この子、恥ずかしがり屋なのもそうだけど、人が怖いみたいで。むしろ彼女さんに馴れてるほうが不思議なくらい」

「そうなん……ですか」

 美大生はゆっくりと頷いた。

「不思議な子でね、私が初めて出会った時もフーッって言われて逃げられちゃったの。でもある時、そう、美術がつらくてもうやめようかなって思ってた時期があるのよ。そんな時この公園に来て、絵も描かずにぼーっとしてたら、初めてこの子が自分からやってきてくれてね、膝の上に乗って寝ちゃったんだ。それで私、ああがんばろうって思えたの。ほんとに感謝してるんだ」

 クンネは喉を鳴らしながらもぞもぞと動いた。まるで彼女の言葉に反応し、相槌を打つかのように。

「もしかして彼女さんは、何か困ったことや心配ごとでもあるのかな」

 美大生は開耶を見つめてそう言う。

 口調も、瞳も、優しかった。

「え……」

 開耶は戸惑って視線をあちらこちらへ動かしている。対して美大生のほうは笑顔を崩さないままだった。

「ごめんね、よく知らないのに無粋なこと聞いて。気にしないでね」

「は、はい……」

「クンネがなついてるから、あの時の私をつい重ねちゃっただけでね。それに、もし本当に困ってたとしても、彼女さんなら大丈夫だと思うの」

 そこまで言うと、彼女は視線を僕のほうに移していた。

「私はクンネに元気づけられた。彼女さんを元気にするのは……」

言わずともわかるだろう、と訴えかけられているようだった。

「…………」

「……ね」

 その女性は目をつぶって僕に笑いかけた。開耶とはまた違った不思議な魅力だった。

(僕にできるか……開耶を元気づけることが)

 そばで照れている開耶。

 この開耶だって、何かを抱えているはずだ。それが人間というものだ。

 そんな開耶の心の中から、困ったことや心配の種を取り除き、元気にさせることが僕にできるだろうか。

(でも、もし開耶が本当に困っていたら、その時は……)

 助けたいと。救いたいと。

 心の底から、そう思う。

 それが僕の――開耶を好きでいる者のなすべきことであろうから。



 少しずつ、少しずつ気づいていく。

 彼女に出会い、さまざまなことに触れ、さまざまな人間に触れて。

 高城や山口の言葉や、母親や剛史の態度、あるいはこうしてたまたま出会った美大生や猫にさえ気づかされる。

 そしてもちろん、開耶本人の言葉や表情からも。

 少しずつ気づき、自覚していく。

 僕が開耶を好きだということ。

 開耶を元気にしてやりたいと思うこと。

 開耶と、願わくは少しでも長く共にいたいと思うこと。

 そのために何ができるかということ。

 少しずつでも、自覚していく。

 少しずつでも、考えるようになっていく。

 ただの一個体ではない、「開耶の彼氏」としての自分というものを。



 それからもしばらく、開耶はクンネと戯れていた。ちなみにこの黒猫は、僕に対して心を開くことは最後までなく、終始威嚇してきていた。覚えておけ、今度会ったら必ずおでんの具にしてやる。

 美大生の女性と別れ、駅前のショッピングモールを適当にうろついた。

 いろいろな服を試着するだけしてみたり、クレーンゲームに何度も挑んで結局成果なしで文句を言いあったり、喫茶店で休憩しながら教員に対する悪口に花を咲かせたり。こうしていると自分は今、本当にデートをしているんだと思えてくる。

 それがどうしてなのかはわからなかった。けれど、僕は楽しかったし、開耶も楽しそうにしていた。だから、こうして外に出て、あるいは出なくても、お互いが楽しんでいればデートなのではないかと思った。

 開耶は何も欲しがらなかった。僕に遠慮しているのか無欲なのかはわからないが、開耶に似合いそうなものを見つけて聞いてみても、

「ううん、だいじょうぶだよ」

 と、ことごとく笑顔で断られた。

 そうやって遊びまわって、気がつくと夕方五時を過ぎていた。

「開耶、門限とか大丈夫か」

 心配になってそう聞いたが、開耶には笑われた。

「ふふっ、大丈夫。お母さんは、気が済むまで遊んでいらっしゃいって。だからもっと、遊びたいな」

 開耶はそう言って一歩近づき僕を見つめて微笑んだ。その笑顔にノックアウトされそうになりながらも、何とか平静を保って「そうか、なら次はどこへ行く?」と訊いてみる。

「うーん……」

 開耶が悩んでいると、僕のポケットの携帯が振動した。ごめん、と一言謝ってから電話に出る。

『あんた今どこにいるのよ! 剛史が今から来るのよ! 早く帰ってきなさい!』

「…………」

 ディスプレイに、自宅、と表示されていたところで大体の予測はついていた。耳の機能を低下させそうな母親の金切り声が飛ぶ。

 僕が今朝家を出る時も母は眠っていたが、おそらく今までも寝ていたのだろう。剛史が今からそっちへ行くとでも電話をしてきて、それで起きたのだろうか。

『返事はどうしたの! この馬鹿野郎!』

 僕は一言も話さず電話を切った。こんな不快な声をいつまでも流しておくわけにはいかない。僕の耳はいいが、開耶の耳が腐ってしまう。

 掛け直されてもいいよう携帯の電源を切り、鞄にしまいこむ。そうすると開耶は、不安そうに眉を下げながら僕に尋ねてきた。

「ふ、双葉くん、もしかしてもう遅い時間だったの……?」

「いや、違うんだ。放っておいていいだろう。さあ、どこへでも行こう」

「でも……帰ったほうが……お母さん、だよね、今の声……お母さんに心配かけちゃだめだよ……」

「違う。開耶がイメージして……」

 開耶がイメージしているであろう母親像と僕の母親は違うんだ、と言おうとして止めた。

 そんなことを語ってどうしようというのだ。第一、簡単に説明できることではない。仮に説明したとしても、開耶は気まずい思いをするだけではないか。嬉しくなったり喜んだりさせることはない。

「……すまない」

 とりあえず、取り繕った。

「ううん、大丈夫だよ。お母さんのためにも、早く帰ってあげて」

 女の子は笑って、それだけを言った。

 色々言いたいことや聞きたいこともあるだろうに、開耶は呑み込んでくれた。

「……じゃあ、後味悪いけど、駅行こうか」

「ううん、とっても、とっても楽しかったよ。また絶対、一緒に出かけようね」

「ああ、今日はありがとう、開耶」



 一緒の電車に乗り、開耶の降りる駅でもう一度別れの言葉を交わし、一人になったところで猛烈な虚無感が襲ってきた。

 せっかく楽しんでいたのに、あの無粋な横槍のせいで興ざめだ。今になって、携帯の電源を初めから切っていればよかったとか、電話自体無視していればよかったとか、どうにもならないことを思う。

 このまま家に帰るのも業腹だった。時間的にもまた剛史と鉢合わせしそうだった。

(どうしてこんな……)

 もし、もし僕の家庭が、周りが、もっと普通だったなら。

 父もいて母もいて、どちらも僕を想い、彼女ができたことを自分のことのように喜び、デートも許してくれるような家庭だったなら。

 そういった家庭が普通の家庭か、と言われると一概には答えられないが。

 けれど、今の僕の家庭は何かがおかしい。

 母親しかおらず、代わりに赤の他人が家に出入りしている。そしてその母親は息子を欠片ほども愛さない。別に愛して欲しいわけではないが――。

 どうしてこんなことになったのか。

(ああ、そうだ。僕のせいだ)

 すぐに思い出した。

 僕はどこかで間違えたのだ。先ほど自分の口でも言っていた。

 それゆえこうなった。そうとしか考えられない。

 僕が悪くないはずなどない。

 そして自分の犯した間違いに、罪の意識に耐えきれず、さらに罪を重ねている自分がいる。

 頑張って償おうとせず、逃げるように全てを投げて、ただ怠惰に生きて。

 そのうち、剛史と母は再婚して、仕事を辞めて、僕に稼がせるようになる。完全に奴隷となって、搾取され続ける。

 それすら想像したくなくて、逃げ回って。

 けれど、逃げ道などどこにもない気がしていた。

 逃げているつもりになっているが、実際はただ檻の中で駆け回っているだけのような。

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