自覚-5

 結局ゆうべは家に戻る気が起きず、高城の家に泊まった。

 高城母に何度も頭を下げて一宿一飯、正確には二飯の礼をし、高城と一緒に登校する。

 学校の最寄り駅で下車し、改札を通り抜ける。

 開けた視界で、同じ服を着て歩いて行く生徒たちの中で、一人ぽつんと駅の広場に立っている女の子がいた。

「開耶だ……」

 遠くても分かった。僕は高城を放って、吸い寄せられるかのようにその女の子のもとへ歩いていく。背後で、やれやれと言うような声が聞こえたが気にしない。

「双葉くん……」

 開耶も、遠くからでも僕の姿を認識できていたのだろう、近づく僕を見てそう言う。

 互いの距離が一メートルを切ったところで僕は足を止めた。

「おはよう」

「うん、おはよう」

 笑ってくれた。穏やかに。気持ちを落ち着かせてくれるいつもの笑顔で。

 まずは安心した。

 同時に、また胸が少し熱くなった。

「あ、あの……昨日……大丈夫だった?」

 それから開耶はおずおずと聞いてくる。心配させたくはなかったし、実際に殴られたりしたわけでもなかったので、平気だと答えた。

 なのに。

「……ほんとうに?」

「ああ」

「…………」

 安心させたくてそう言ったのに、なのに開耶は黙ってしまう。

「どうした、開耶」

「……あ、あのね」

 やがて開耶はこちらを向いて、大きな黒い瞳で僕をまっすぐ見つめてきた。

「これはわたしの勝手な思い込みだから、真に受けないでね」

「…………?」

 俯いて、また顔を上げて。

 小さく息を吸い込んでから。

「……双葉くん、無理してると思う」

「! ……そ、そんなことは……」

「わたしの勝手な思い込みだから、違うかもしれない。でも、そう思えちゃうんだよ」

 僕は何も言えなくなってしまう。

 やはり、この女の子にはなにもかも見えているのだろうか。

 隠したところで、見通されてしまうのだろうか。

 開耶には、そんな不思議な力でもあるのだろうか。

「僕は……」

「あのね、双葉くん……もし、もし双葉くんがほんとうに無理しているなら、いまつらいなら、ひとつだけ覚えていて欲しいことがあるの」

 真剣な眼が、頭ひとつ分低いところから僕を見上げている。

 小さな口が、僕を思う言葉を紡いでいく。

「頑張って、無理して、耐え続けて……それでも我慢できなくなったら……ほんとうにつらくなって、もうダメだって思ったら……」

「…………」

「そのときは、いつでもいいから、わたしのところに逃げてきてね……」

「開耶……」

「わたしは、ずっと待ってるから」

(…………ダメだ、もう……くじけそうだ……)

 開耶の優しさが、温かさが、僕の心に染み渡っていく。

 本当は今すぐにでも、自分のことをすべて話して、分かってもらいたい。

 きっと、彼女は受け入れてくれる。

 僕のことを、受け入れて、包み込んでくれる。

 そんな確証にも似た感覚が、僕の中にはある。

「あ……ご、ごめんね。わたし、勝手な思い込みで、好き放題なこと言っちゃって……」

 僕がそんなふうに思っていると、開耶は急にはっとして、わたわたと両手を振ってごまかすようにした。

 恥ずかしいのか、彼女の顔が赤い。

 その様子が、少しだけ微笑ましくて。

 だから、言った。

「ありがとう、開耶」

 まだ、まだ大丈夫だ。

 この女の子が彼女なら、僕はもう少し頑張れる。

「う……うん」

 開耶はいつもの笑顔で、ふわっと優しく笑ってくれた。

 それだけで充分だった。

「行こうか」

「……んっ」

 高城はいつの間にかいなくなっていた。

 僕たちは今日も、二人で歩く。



 午前中の授業が終わり、僕が教室の扉を開けて廊下に出ると、開耶もちょうど四組の教室から出てきたところだった。二つの包みを、両手に重ねて持っている。

「本当に作ってきてくれたのか」

「うん。じゃ、行こう」

 自動販売機でそれぞれ飲み物を買ってから屋上庭園に出て、いつもの場所に二人で腰掛ける。

 開耶から、青い布で包んであるほうの包みを受け取った。それを開くとアルミ製の弁当箱が出てくる。

「お弁当箱、お父さんのなの。ごめんね、近いうちに双葉くんの用意するよ」

「いいのか、使ってしまって」

「大丈夫。お父さん、今ドイツに行ってるんだ」

 初耳だった。が、だからどうということもなかったので、弁当箱を開いてみる。

 中身は三色丼だった。いい匂いの上、見た目も鮮やかで食欲をそそられる。美味しそうだ。久々に、見た目からして美味しそうだと思った。

「じゃあ、いただくぞ」

 プラ製の箸でおもむろに削り取り、口に運ぶ。少しだけ甘い味付けは僕の好みだった。

「……美味い」

「ほんと!?」

 開耶は身を乗り出して訊いていた。

 本当に美味い。ここ最近、何を食べても砂のような味しかしなかったのに。

 美味しくて、美味しくて、箸がどんどん進む。

 こんなに美味しいものがあったのか。

「開耶、とても上手だ。こんなに美味しく作れるんだな」

「よかった……わたし、ずっと考えてたんだ。何がいいかな、双葉くん、どんなのだったら喜んで食べてくれるかなって。うん、でもおいしいって言ってくれて、ほんとによかったよ……はああ、安心したらおなかすいてきちゃった……わたしも食べようっと……」

 開耶も、自分用であろう赤い包みから、僕が手にしているそれよりも小さな弁当箱を取り出して開く。中身は僕のと同じだった。いただきます、と手を合わせて言ってから、食べ始める。

「きっと開耶の作ってくれるものなら、何でも美味しい。いま確信した」

「ほ、ほんとう? じゃ、じゃあ、明日からも作らせて? 双葉くんに食べてもらえて、すごく嬉しいから……」

「いいのか? ありがとう……」

「う、うん! えへへ、やったあ……!」

 眩しいくらいの満面の笑顔で、開耶は箸を持ったまま可愛らしくガッツポーズをした。

 僕はというとなんだか急に恥ずかしくなって、彼女から目を離して空を見上げた。高くなった秋の空に、雲がゆるゆると流れている。

「開耶、その、うまく言えないんだが……僕は開耶とこうしていると、落ち着いていられるんだ」

 空に向かって話しかけた。

 返事は横から、すぐそばから聞こえた。

「うん、わたしもだよ。一緒にご飯食べたり、一緒に勉強したり、一緒に登校したり、下校したり。すごく落ち着くの。そんな時間がとっても好き」

「…………!」

 僕の体が一瞬震えた。

(好きなのは僕じゃなく、僕と一緒にいる時間だろう……)

 分かっていても、開耶の口から紡ぎだされた最後の二文字が僕の脳を揺らす。

 とても甘美な響きだった。意識して言ったわけではないだろうが、それだけに自然な発音が僕を陶酔させる。

「もっと、こうしていたい。双葉くんと一緒にいると、落ち着くし、とっても楽しい。彼氏さんどころか、友達もいなかったこの学校で、一人ぼっちでいたときとは比べ物にならない。もっと……もっとこの気持ちを味わいたいって思うのは、わたしのわがままかな? 贅沢なことかな……?」

「……そうだな、贅沢でわがままだ。けれどそれは叶えられていい贅沢、わがままだと思う。僕も同じだ。同じわがままを抱いている。だから開耶が望むなら、もっと一緒にいよう。いや、いて欲しいんだ」

「うん……!」

 視線を戻すと、やわらかい笑顔がそこにある。

 何度も見てきた笑顔だった。



「お前らは結局、付き合ってるってことでいいのかよ」

「まあ、な」

 その夜も僕は高城の部屋にいた。夜の九時過ぎ、奴はアクションゲームに興じていて僕はそれを横からぼんやり眺めていたのだが、何の脈絡もなく高城は突然そう聞いてきたのだ。

「でも、お前らはまだデートにも行ってねえんだろ」

「中間があったからな」

「これだから恋愛初心者は。テストなんかに邪魔されるような恋愛してるようじゃ、俺みたいな恋愛上級者にはなれないぜ」

 いちいち突っ込むのが面倒だ。勉強を投げているせいで非常に成績の悪い僕が言うのもなんだが、こいつは恋愛にかまけているせいで成績が悪いということに気づいているのだろうか。画面の中で、高城の操作しているキャラクターが敵にぶつかって泣いていた。

「……これから行くのも悪くはないだろうな」

「どこへ行くつもりだよ」

「わからない……デートの定番ってどんなところだ」

 訊いてすぐに後悔した。こいつにだけは訊いてはいけないことだったのだ。

 高城は途端に手を顎に当ててにんまりと笑った。かなり気持ち悪い。

「いやー、しょうがねえな恋愛初心者は。どれ、この俺がデートのなんたるかを一から」

「やはり開耶に直接訊く」

「おい待て! 恋愛上級者の立場がねえだろ! な、おい、とっておきのデートコースを教えてやるから、ってうわあ死んだ、やべえ最後にセーブしたのいつだ!?」

 騒がしい男だ。僕はテレビから目を離し、近くにあったペットボトルを手に取った。

(開耶はどんな場所が好きかな……)

 今夜もまた眠れないだろうが、自分を責める合間にでも、そのことについて思いを馳せるとしよう。

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