自覚-3
開耶のノートは綺麗だった。
黒板の内容を写しただけでなく、自分なりにそれをもう一段階まとめて書いている、といった感じに見えた。
それに字も、開耶の優しい性格を表したような綺麗で細い字で、眺めていて癒される。
「ノートはコピーしてあげるけど、文法は書いて覚えないとダメだからね」と言われたので、僕は開耶のノートを見ながら自分の真新しいノートに文法の規則を書き写していくのだが、開始三十秒でもう手が痛い。どうも僕の身体は全体的に勉強に向いていないようだ。
そうやってダラダラ複写していたのだが、ふと開耶が僕の手元を見ながら「あれ? 双葉くんって、左利きなんだ」と、今さらのように言ってきた。
「気づかなかったのか?」
「だって、今日の昼休みは右手でお箸持ってたよね? どっち利きなの? もしかして両利き?」
「えっと……」
開耶の疑問に対して、自分は基本的には左利きだが、箸やスプーンなどは右手で持つんだと説明した。すると不思議に思ったのだろう、開耶はさらに「なんで?」と突っ込んでくる。
(それは……)
理由はあるのだが、説明に困った。
最初は箸も左手で持っていた。持てるようになった年齢は定かではないが、とにかく小さい頃は何もかも左手で持っていた。
ただその頃、僕の世界は右と左が逆だった。
母親に「箸を持つほうが右だ」と古典的な教え方をされていたために、箸を持っていた左手、つまり左の方向を「右」、右の方向を「左」だと思っていた。
そしてあるとき、母親とどこかへ出かけた時、母親にこう言われた。
――前から車が来てるわよ。右へ避けなさい。
幸いにも軽い怪我で済んだのだが、母親は気違いのように怒り狂った。
――あれほどお箸持つほうが右と言ったのに。
――お前が左手で箸なんか持ってるから悪いんだ。
――どうせ頭の中身もひっくり返ってやがるんだろう。
――今日から絶対に左手で箸を使うな。
怒鳴られ、殴られ、無理やり右手で箸を持たされ、掴み損ねるたびに金切り声で物を投げつけられた。
泣きながら、血を流しながら、僕は右手で箸を持つことを覚えた。
(嫌な過去だ……)
左利きの僕が、箸やスプーンだけ右手で持つようになった理由はそんなところだ。
あの頃の強烈な思い出と痛覚のせいか、左手で箸を持つことに罪悪感や恐怖感さえ覚えてしまい、
ただ、それをありのまま開耶に伝えることはできない。
それを言って、どうしようと言うのだ。開耶まで嫌な気持ちにさせてしまうだけではないか。
「聞くな」
だから、また撥ね退けた。
そうするしか思いつかなかった。
以前、どうしてわたしにこんなに良くしてくれるのと彼女が訊いてきた時もそうだったが、僕は適当な嘘をついて誤魔化すといったことが苦手なのだ。結果として、こういうギクシャクした空気を作ってしまう。
案の定、開耶は「……ごめん……」と沈痛な表情で謝っていた。
「すまない。言えないんだ」
「ううん、わたしこそつまらないこと訊いてごめんね」
本当は言いたい。
好きな女の子に吐露して、打ち明けて、分かってもらいたい。
でも、彼女は受け入れてくれるのだろうか。
もし受け入れてくれなかったらと思うと、怖かった。
「でも、左利きってなんかかっこいいね」
開耶は左手で文字を書く僕を珍しいようなうらやましいような、そんな視線で見つめてくる。
「かっこいいものか。それは右利きの人間が抱く勝手なイメージだ。実際は不便なことだらけで、得をしたことなんて一度もない」
「そうなの?」
「人間の左利きはわずか一割と言われている。つまり残り九割が右利きだ。当然、社会というものは多数の人間向きにできていて、左利きにとっては不便なことばかりだ。自動改札でつっかえたり、文字が書きづらくて雑になったり、公衆電話のドアがなかなか開かなくて難儀している姿がかっこいいと思うか」
「う……」
左利きの人間は、右利きが思いもよらないところで苦労しているのだ。
「今ではそんなことも思わなくなったが、昔は左利きゆえに不便を感じるとそのたびに自分は社会から受け入れられていないんだな、と思ったこともある」
それはもともとこんな性格だったからか、それとも左利きのせいでこういう性格になる過程に拍車をかけたのかはわからないけれど。
「……大変、だったんだね」
「えっ」
一瞬、母親にされたことを言っているのかと思って、左手が止まる。
その左手に、開耶の白い手が静かに添えられて。
(う、わ……)
「そんなに大変だったのに、わたし、無責任にかっこいいなんて言って、ごめんね……」
「いや、別に……かまわない……」
申し訳なさそうに、開耶の声が尻すぼみに小さくなる。
口に出していないから、開耶は僕の左手と右手にまつわる過去は知らない。
なのに、どうしてだ。
まるで僕の心の中を読みとったかのように、優しい言葉をかけてくれて、僕の手を包みこんでくれて。
開耶の手は僕のそれよりもずっと小さかった。白くて、指は細くて、握り返したらそれだけで折れて砕けてしまいそうなほど綺麗で弱々しい。
そして、あたたかい。
触れられた手の甲から、腕、肩と、開耶の体温が伝っていくような気がした。
(開耶なら、本当のことを言っても、分かってくれるのかもしれない)
ふとそう思って、そう思ったらもう止まらなかった。
彼女をまっすぐ見て、一息に言おうとして、
「さく……」
「あっ、ご、ごめんね、わたし、つい……」
我に返ったように開耶はばっと自分の手を引っ込めると、顔を真っ赤にしてうつむいた。
(あ……)
僕も恥ずかしさと、ほんの少しの名残惜しさを覚えながら手を引っ込める。左手に残る開耶の体温は、どこか懐かしい感じがした。
それからも僕は隣から熱心に教えてくれる開耶の力を借りながら、慣れない古文と格闘していた。
それにしても本当に僕の頭は勉強に向いていない。ろくに食べないせいで糖分も足りていないせいか、脳がまるで持たないのだ。受験を控えた三年生は一日十時間とか勉強するらしいが、僕が十時間ぶっ続けで勉強したら間違いなく一日目か二日目で脳死してしまう。
「双葉くん、頭から黒い煙が出てるよ」
「ああ、本当にそんな気がしてきた」
おそらく開耶は僕の憔悴っぷりに半分ふざけてそう言ったのだろうが、本当に僕の頭はオーバーヒート状態だ。死んでしまう。
「開耶、ごめんな……付き合って二日、何一つ彼氏らしいことをしてやれなかった……僕が死んだことはみんなには伏せて、死体はその辺にでも埋めておいてくれ……ぐふっ」
「だ、だいじょうぶだよ、人間、そんなんじゃまだ死なないよ……でも、ちょっと休憩しよっか。わたし、トイレ行ってくるね」
「ああ」
そう言って開耶は席を立つ。残された僕は大きく伸びをしてから机に突っ伏した。危なかった。あと五分勉強していたら僕の脳は派手に炎上していただろう。ここは図書室だ、燃えやすい本がたくさんある。炎は僕の頭から本に燃え移り、すぐに図書室が火の海になり、やがて別館全体が燃え上がり消防車が十台駆けつけ八時間後にようやく鎮火、しかし別館は完全焼失――
(んなアホな……)
変な想像をそこで止める。いよいよ頭が煮えているようだ。そして突っ伏したまま、なんとなく隣の空席を見る。そこには開耶のノートとペンケース、そして色とりどりのペンが机上に散らばっていた。
藤井や山口もそうだが、よくもまあ、女の子というものはアホほど色つきのペンを揃えるものだ。僕なんかペンケースの中にはシャープペンとその芯と赤のボールペンと消しゴムの計四点しか入れていないというのに。
(こんなに必要か?)
僕は身体を起こし、薄いピンク地に桜の花びらをあしらった可愛らしい開耶のペンケースから中身を次々取り出してみる。いったい何本あるのだろう。
赤、青、黒、ピンク、紫、茶色、黄色、緑、黄緑、オレンジ、ローズ、マゼンタ、ラベンダー、バイオレット、スカイブルー、コバルトブルー、金、銀、まだまだ色々出てくる出てくる。しかも普通のボールペンだけでなく香り付きのペンやラメ入りのペンや蛍光ペンまで出てくる。こんなに使わないだろう、絶対。
僕はその中から青とピンクのボールペンを拾い上げ、二本をぴたりとくっつけて置いてみた。
(青が僕で、ピンクが開耶……)
うん、完璧だ。
仲良く並ぶ二色のペンを眺めていたら、少しだけ優しい気持ちになれた。
トイレから戻ってきた開耶が首を傾げて、なにに頷いているんだろうというような疑問の表情を浮かべていたが、気にしない。
時間は流れ中間試験が終わり、再び授業が始まっていた。試験明けの一回目の授業では大概答案が返却され、その解説がなされる。
今日も午前中で答案が三教科ほど返ってきたが、おおむね成績は良好だった。
一年生前半の頃のようなトップクラスの成績ではないものの、平均点以上の点数は取ることができていた。試験二週間前から、毎日図書室に残り開耶と一緒に勉強してきた成果の賜物だ。
そんな午前中の授業が終わり、一息つこうとする。
「やっほー上杉くん! ねえねえ、さっき返ってきた古文のテストどうだった? え、私? あのね聞いて驚いて、なんと百五点だったんだよー! すごいでしょ!」
が、そんな暇などなかった。騒がしい学級委員が僕の席に突っ込んできて、得意げに百点満点中百五点の答案用紙を見せつけて思う存分自慢してくる。
「よかったな」
しかしこの女の子、ついに人間の限界を超えたか。人間ならどれほど頑張っても百点満点なら百点までしか取れないからな。もしかしたら彼女は人間ではないのかもしれない。そういえば、彼女は以前の全国模試でも総合成績が全国で七位とかなんとか言っていたからな。高城いわく、全国模試で三十位までの奴は人智を超えた化け物だそうだ。
「上杉くん、何点?」
「ビックリするほど凡庸な七十四点だ」
「うわあ、ビックリするほど凡庸!」
なぜ僕の言ったことを繰り返した。凡庸で悪かったな。これでも僕にとっては前回の三倍近い点数なんだよ。
それから木下は腕を組み、窓の外の遠い景色を眺めながら一人で喋り始める。
「もはやうちの高校に私の敵はなしか……私より強い人に会いに行こうかな」
「どこへでも行け。僕は開耶に会ってくる」
それだけ言うと立ち上がり、僕は木下を置いて教室を出た。
僕と開耶は校舎本館の三階から出られる、別館の屋上庭園で昼食にしていた。
広くもなく狭くもない庭園で、周囲に植物が植えてあり、一見良い環境だが、身を乗り出して外を眺めると住宅地しかなく殺風景。
僕と開耶は、そんな屋上庭園を二人の場所と決め、付き合い始めてからはそこで一緒に昼食をとることにしていた。
「今日返ってきたテスト、どうだった……?」
「開耶のおかげで、ずいぶん良くなった。開耶、教え上手だ。返ってきた点数を見て、改めてそう思った」
「よかった……役に立てたかなって、心配だったんだよ。でもその様子なら、わたしも安心して大丈夫かな……」
敬語なしの開耶の会話も、始めこそ不自然だったものの、今では自然に僕と話すことができている。
僕としても、そのほうが気楽で良かった。
「そういえば双葉くん、お昼、いつもそうやってパンとかおにぎりとか、しかも毎日一個しか食べないで、平気?」
「ん、ああ。別に平気だ」
「……うーん、でも、おせっかいかもしれないけど、お弁当のほうがいいよ。安上がりだし、栄養もあるし……お母さん、作ってくれないの?」
「…………」
「あ、あれ?」
つい黙ってしまった僕に、開耶は不安そうな声を出して僕の顔色をうかがう。
「あ、ああ、すまない……そうだな、作ってはくれない」
「……ごめん……もしかして、双葉くんのお母さんは……」
「生きてるよ、腹立つくらい元気にな」
「そ、そう……」
それでも、僕のもの言いから何かをつかんだのか、開耶はすまなそうな顔をして、誤魔化すかのように紙パックのジュースを一気に飲む。ちゅーっ、と可愛らしい音がした。
それを飲み終えてから、開耶は紙パックを横に置いて言った。
「そうだ、もしよかったら、お弁当作ろうか?」
「本当か……?」
開耶の弁当。
今日に限らず、開耶の食べているそれはどこからどう見ても手作りの弁当だ。
以前、開耶はご飯を自分で作っていると言っていた。
羨ましいと思っていた。
その神崎が、弁当を僕のために作ってくれるという。
「うん。わたし、料理くらいしかとりえないし……わたしとおんなじのなら、作る手間もほとんど一緒だから。もちろん、これが食べたいな、ってリクエストしてくれれば、それを作るよ」
「なら、作って欲しい」
何の迷いもなく、僕はそう頼んでいた。
「うん、わかった。料理はちょっと自信あるんだ。期待してていいと思うよ」
普段引っ込み思案で遠慮がちな開耶が得意げな笑顔でそう言うということは、それこそかなりの腕前なのだろう。これは期待せざるを得ない。
またひとつ、楽しみができたことが嬉しかった。
学校生活に、これから先に、楽しみが。
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