自覚-2

 せっかく正式につき合うことになったのに、体育祭の後は中間試験が迫ってきていたことを朝のホームルームで知らされた。

 帰り道で、神崎はまずその話題を憂鬱な表情で振ってきた。

「もう、テスト二週間前なんですね……」

「ああ、朝のホームルームで試験の時間割が配られるまで、すっかり忘れていた」

「そうなんですか? わたし、三週間前くらいから勉強始めてるんですよ……上杉さんって、やっぱりすごいなあ……」

「いや、それは違う」

 投げているだけだ、と言いたかった。

 でももしそんなことを言ったら、神崎は心配するのではないだろうか。

「その……なんというか、勉強苦手で、やる気が出ないんだ」

「あれ? でもたしか、去年なんかは成績が貼り出されると、上杉さん、名前、とっても上のほうに載ってませんでしたか? それに今でも、わたしと同じ特進ですし」

「! それは……」

 頑張っていた時だ。過去の自分だ。

 今の僕はあの頃と比べ見る影もなく落ちぶれてしまっている。定期試験においては、全教科で平均点以下はもちろん二十点台なんかも多く、順位で見ても後ろから数えたほうが余程早い。

 僕たちの高校には進学校らしく特進クラスというものがあるのだが、一組と二組が特進理系で、僕と神崎のいる三組と四組は文系の特進コースになる。入学試験の成績において上から順に特進に入れられ、二年以降のクラス分けの際は定期試験などの合計でこれまた成績の上から順に特進に分けられる。一年序盤の成績が優秀だったせいか二年になる際のクラス分けでは別段残りたくもないのに特進に残った僕だが、二年からの成績は完全に最底辺なので、三年になる際は高城ともども特進を落とされて普通コースになってもおかしくないほどだ。別に落ちたところでどうということでもないが。

 ほとんどの生徒は僕が過去に成績上位だったことなど、覚えているはずはないと思っていた。だからこそ触れて欲しくなかった。

「ついていけなくなったんだ、勉強に」

 適当な嘘をついた。嘘が苦手な割に、とっさに出た割には自然な嘘だと思った。

「あ……ごめんなさい、掘り返すようなことを……」

「いいんだ、自分が悪い。……神崎さんこそ、そんなに早くから勉強しているなら、成績はいいんじゃないか?」

 今度は神崎に振ってみた。

「そんな……ま、まあ悪くはないですけど……まんなか、くらいですよ」

「そうか……」

 神崎は黙ってしまう。

 が、口をもごもごと動かしたり、手を組んで指を不自然に動かしたり、なにか言いたそうだった。

 しばらくそうしていたが、神崎は足を止め、思い切ったように言った。

「わたしでよければ、勉強、教えましょうか」

「え……」

「そのっ、一緒に、いられますし……明日から、図書室ででも……嫌、ですか?」

 声は後半からだんだん小さくなっていき、最後には消え入りそうだった。神崎は顔を赤くして、僕の返事を待っている。

(神崎と一緒に勉強か……一緒にいられるのはいいし、神崎は真面目そうだから、教えてもらうのもいいかも知れない。成績が上がって悪いことなんてないからな)

「わかった、頼んでもいいか」

「は……はい、がんばりますっ」

 神崎はぱっと顔を輝かせ、両の拳を胸の前で軽く握って答えてくれた。

「今まで上杉さんに、いっぱい借りちゃいましたから、今度こそわたしが頑張る番です」

「あまり無理しないでいいからな」

「は、はい。じゃあ……ほどほどに頑張ります」

「よろしく、神崎さん」

「…………」

 するとそこで、神崎はなぜか黙ってしまう。

(…………?)

 別に無言にさせるようなことは言っていないと思っていたから、神崎が黙ってしまったことに対してやや不安を抱いた。何かまずかったのか。

 少し黙ってから、神崎は顔を真っ赤に染めながら胸の前で人差し指をつつき合わせる。

「あの、その……もしよかったら、これからわたしのこと……開耶って呼んでください」

「神崎さん、じゃ嫌か」

「嫌じゃないですけど、その……」

 また口ごもった神崎を見て、ああそうかと思い出す。

 僕たちは今朝の時点で関係が変わったのだ。

 それまでは他人同士だったけれど、関係が変わったら呼び方だって変わるものだ。

「そうだな、もう彼氏と彼女だもんな」

「……は、はい……」

 神崎は顔を再び赤らめ、嬉しそうだった。

 またひとつ、神崎の笑顔が見られた。その嬉しそうな顔を見ると、僕も嬉しかった。

 もっとそれを見たかった。だから僕は、こう言っていた。

「僕のことも、名前で呼んでくれるか」

「はい……双葉、さん」

「敬語も、いらないから」

「う、うん」

「じゃあ改めて、頼む」

 僕は初めて、この女の子の名前を呼んだ。

「…………さくや」

 濁らない三文字。口から紡ぎ出したその音の流れが、とても美しかった。声が震えていなければもっと美しかっただろう。

「……うん、よろしくね、双葉くん」

 開耶の笑顔は名前の美しさに全く引けを取らず、あるいはそれ以上に美しかった。

 夕日が優しく、それを照らしていた。

 出会ってからこの時までいろいろとあったが、僕と開耶は、初めて一歩進めた気がした。

 二人一緒に、足並みを揃えて。



 翌日、放課後。

 帰りのホームルームが終わってすぐに僕は教室をあとにし、一度本館を出て校庭を経由して別館の前まで赴き、そこで開耶を待っていた。

 図書室など、僕は入学してしばらくの校内案内とかいうイベントの時にクラス単位であちこちをぞろぞろ歩いていった時にしか入ったことがない。本館と切り離されたところにある三階建ての小さめの別館の一階と二階がそれで、この別館には図書室の他には生徒会室とか放送室とか、地下には柔道場に剣道場など、おおよそ僕の高校生活に無縁のものばかりで構成されていると言ってもよかった。だから別館そのものに入ったことなどなかった。入る理由がなかった。

(開耶のおかげで、世界が広がっていくな)

 そう感じていた。

 しかしその開耶は「放課後、四時十五分に別館の入口に集合だよ」と言っていたのに集合時間から十分経っても現れない。

 四時三十分にようやく本館から出てこちらへ必死に駆けてくる開耶の姿を見つけた。必死といってもあくまで彼女なりの必死さであって、僕の早歩きと同じくらいの速力だが。

 開耶は僕の目の前までやってくると、膝を手で押さえて荒い息を吐きながら弁解した。

「ご、ごめんね、ふう、わ、わたし、掃除、ふう、掃除当番、はあ、はあ、っから……遅れ……はあ、はあ……」

「落ち着け」

 そんなに焦ることもないというのに。

 ようやく開耶は顔を上げ、僕の顔色をおそるおそる窺うようにした。

「……お、怒ってる?」

「別に」

 そう答えたのだが、開耶の顔色が冴えないままだ。

「……怒ってないの?」

「そう言っている」

 どうして僕が怒っていると思いたがるんだ。そんなに怖い顔か。分かってはいたが。

「うう……双葉くん、いつも言葉が短いから、いつも怒ってるような気がするんだよ……」

 開耶は落ち込み気味に、自分の目の前で人差し指をつつき合わせながら言う。なるほど、僕のしゃべり方が誤解を招いたと言うのか。

「そうか、すまなかった」

 謝った後、昔から長く話すことが苦手で会話を簡潔に済ましてきていたから、言いたいことをどういう風に言えばいいか分からないんだ、と説明した。

「……だから別に心配しなくていい。本当に怒っているときは、なにも言わなくなる」

「そうなの?」

「ああ」

 言わなくなる、ではなく、気持ちに余裕がなくなってなにも言えなくなる、というほうが正しいのだが。

「わかった。参考にするね」

 開耶はにっこり笑って言った。なんの参考にするというのだろう。



 高校生活で二度目に入る図書室は想像していたよりずっと綺麗で、空調も行き届いていた。

 一階は本よりもパソコンやテレビが多数設置されていて、本、ならびに勉強するスペースは二階のほうにあるという。

「DVDなんかも、ここで貸し出しやっていたのか。よし、早速懐かしのアニメを探そう」

「双葉くん……わたしたち、なんのために図書室来たの?」

「無論、アニメを観るためだ」

「……勉強だよ」

 頬を膨らませて怒られた。

 ご立腹の開耶に追い立てられるように僕は階段を上がり、二階の勉強スペースまで行かされた。

 この時期ゆえ、受験を控えた三年生と見える生徒たちも多かったが、一つ空いていた六人がけのテーブルを見つけ、その隅に陣取った。すると、なぜか開耶も隣に座る。スペースの無駄遣いな気がする。

「じゃあ、なにからやる? そういえば双葉くん、世界史と日本史、どっちだったっけ……」

「日本史だ」

「あうう……」

 開耶は世界史を取ったらしい。教えてもらう科目が早くも一科目減った。僕の学校は一年生の段階では全員強制で世界史をやらされ、二年以降から世界史か日本史を選択する制度なのだが、僕は一年の段階で世界史なんて無理だと悟っていた。早口言葉のような人名ばかり出てくるし、おまけに同じ名前で一世とか二世とか出てくるせいで余計始末が悪い。ややこしくて覚え切れるかあんなもの――と、世界史を選ぶ奴らの気が知れなかったのだが今考えが百八十度変わった。僕も世界史にしておけばよかった。そうしたら開耶と勉強できたのに。なんだ日本史って。藤原とか足利とか同じ苗字がいくつも出てくる。ややこしくて覚え切れるかあんなもの。日本史なんて縄文土器と弥生土器でおなかいっぱいだ。

「とりあえず一番危なそうなのが古文だから、それからなんとかして欲しい」

「うん、わかった」

 二人、バサバサと鞄から教科書とノートを――ノートを出したのは開耶だけだが――取り出した。

「双葉くん、ノートは?」

「ふん、この僕がノートなど取っているように見えるか」

「それ、誇らしげに言うことじゃないよ……授業中なにしてるの?」

「ボーっと授業を受けていたらいきなり銃を持ったテロリストが乱入してきてそれを僕が華麗に倒す妄想なら授業中よくしている」

「も、もう……」

 開耶の眉がくたりと下がった。もともと彼女の眉は下がっているのだが、さらに勾配が急になる。

「しょうがないなあ、今回の範囲の分のノートはあとでコピーしてあげるから、これからはちゃんと自分でノート取るんだよ?」

「面倒だ、毎回コピーさせてくれ」

「ちゃんと、自分で、ノート、取るんだよ?」

「…………わかった」

 意外と開耶が強い。押され気味だ。

「双葉くん、お互い頑張って特進に残れば、三年生のクラス分けのとき、きっといっしょになれるよ」

「……ん? ああ、そうか、そうだったな」

 普通コースのクラスはかなり多いが、先述のように特進は二クラスしかないのだ。つまり二人とも特進に残れば、次のクラス替えでは五割という高確率で同じクラスになれると、開耶はそう言いたいのだろう。

「ね、だから頑張ろう?」

「……そうだな」

 開耶はぐっと拳を握って、応援するようなポーズをとった。

 同じクラスになれるというのなら、ひとつ頑張ってみるか。

 勉強する動機としては不純かもしれないが、まあ勉強なんて成績が上がれば目的なんてなんでもいいものだ。将来のためとか言われるより、そのほうがずっとやる気も出る。

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