三章 自覚

自覚-1

「そろそろ、離れようと思うんだ」

「あ?」

 体育祭が終わり、週が明けた月曜日の夜。高城の部屋でいつも通りくつろぎながら、僕は部屋の主にそう言ってみた。

「神崎さんを守るように、影となり陽となり動いて結構経つ。体育祭も終わって騒ぎもずいぶん落ちついてきたみたいだし、もう神崎さんにとって僕は必要ないかと思うんだが、どうだろう」

「……ま、てめえがそうしたいならいいんじゃねえの。んなことよりも、あーあ、体育祭での俺の完璧リレー計画が……ちくしょー、奈緒をどうやって振り向かせっかな……」

 高城はあまり興味がなさそうに答え、それから一人で何事かぼやき始めた。この自称恋愛上級者め、たまにはお前の意見を聞きたいと思って切り出してみたのに肝心なところで役に立たないじゃないか。そういえば先の体育祭のリレー勝負で事故とはいえ僕に負けておいて、設定した罰ゲームはどうしたんだ。まだひとつも消化していないぞ。

「…………」

 自分の世界に入ってしまった高城に対して僕は言葉を続けられず、代わりとばかりにグラスに注がれた麦茶をごくごく飲みほす。

 この高城は役に立たないし、明日にでも山口あたりに助言を求めてみるか、しかしあの女の子がまともなことを言うとは考えにくい、さてどうしたものかと考えていると、高城は僕のように麦茶を飲みほしてから豪快に「ぷはー!」と呼気を発してからぶっきらぼうに言った。

「お前自身がどうしたいかによるだろ」

「……僕が?」

「お前が神崎と一緒にいたくないならさっさと離れりゃいいし、あいつが好きでもっと一緒にいたけりゃこのままでいいだろ」

「…………」

 またしても僕は黙りこんでしまう。というより、黙らされてしまう。

(僕自身がどうしたいか……)

 神崎とは、そろそろ離れるべきだと思う。

 これ以上ズルズルと一緒に居続けても、神崎に迷惑がかかってしまうだろう。

 もとより、最初から「騒ぎが落ち着くまで」と彼女にも明言していたのだ。それ以上居続けることは前言に反する。

(しかし……)

 ここ数日神崎と一緒に過ごすことを、僕はどう思っていたか。

 少なくとも、不快ではなかった。

 脳裏に映し出される神崎の笑顔を見て、僕はどう思っていたか。

 少なくとも、もう見たくはない、などとは思わなかった。

 耳をくすぐるあの声を聞いて、僕はどう思っていたか。

 少なくとも、聞くに堪えない、などとは思わなかった。

「……僕は……」

(一緒にいてはいけないはずだ……それが互いのためなんだ……でも……)

 あの笑顔が、あの声が、脳から離れない――。

「悩んでんなあ、若い若い。恋愛初心者は存分に悩め」

 高城はけらけらと笑って、また麦茶をごくごくと飲んでいた。



 真夜中に自宅に戻り、電気もつけずに部屋の中で考える。

「神崎さんと一緒にはいられない……いてはならない……が……」

 そう、頭で分かっていることを何度も繰り返し、髪をかきむしる。

 僕は、女の子と一緒にいるなんて大それたこと、してはいけないはずだ。

 恋愛なんて人間のする行為のうちで、最も愚かで忌々しいものなのだと、ずっと思ってきていた。

 母親と剛史のせいで、そう思わざるを得なかった。

 今までああして神崎の近くにいることだって、本当はよくないと分かっていた。

 分かっていたのに、彼女の笑顔が焼きついて、彼女の声が耳に残って。

 それは、甘くて、優しくて。

 一度口にしたら二度、二度口にしたら三度と、求め続けてしまう。

 この麻薬のようなものを、なんと表現するのだろうか。

 得体の知れないそれのせいで、僕の心は乱れに乱れている。

「僕は、どうしたらいいんだ……? 自分のことなのに分からないなんて、こんなの初めてだ……」

 二択なのだ。神崎と離れるか、そうでないか。ただそれだけの単純な問題なのに、いつまで経っても答えが出ない。



 全く眠れないまま、朝早くに家を出て学校へと向かう。寝不足の頭は、中にガスが入ったかのようにフワフワしていて、なんてことのない朝日が無駄に眩しい。

 いつもの不快な気分、僕を安心させるこの不快な気分なのに、今朝はそれに輪をかけて気分が悪い。精神の安定も図れないほどに強烈だ。

「うう……」

 学校の最寄り駅に到着し、改札を抜けて空を仰ぐ。気分最悪の快晴だった。そのままもつれる足を交互に前に出し、学校へと向かう。

 家を出てからも、電車に乗っても、今この時も、ずっと神崎とのことばかりをフワフワする頭で考えていた。もちろん、結論など出ないままに。

(少し休もう……陽が眩しい)

 寝不足だけでなく、食事もおとといの昼あたりからろくに摂っていない。昨日は高城の家で飲んだ麦茶しか口に入れていない気がする。

 その辺の電柱にもたれかかって息を吐いた。きちんと歯を磨いて出てきたはずなのに、口から出るものはひどく澱んで腐っている気がした。

(僕は本当に腐っているな……僕の身体なんか、このまま道端のヘドロのように、ズルズル溶けて小さくなって、やがて最後には無くなってしまえばいいのに)

 そんなことを思いながら、通学路の端でぼんやりとしていた。

「……あれ、上杉さん? そんなところでどうしたんですか……?」

 神崎開耶が声をかけてきたのは、そんな時だった。



「か、神崎さん……」

 眠気と空腹が、一気に吹き飛んだ気がした。

 まだ始業には一時間以上ある。母親たちと顔を合わせるのが嫌だったから早く出た僕を除いては、こんな時間に登校する生徒など皆無に等しいはずなのに。

「気分でも、悪いんですか……?」

「そ、そんなことはない……」

 慌てて、虚勢を張ってみる。僕が自ら体調不良になっているのは、そうすることで自身の精神の安定を図っているからであって、間違っても他人に悟られて同情を引いてしまうようなことはあってはならないのだ。

 悟られないようにと、話題を変えようと試みる。

「それより、神崎さんはこんな時間にどうしたんだ」

「あっ、えと……宿題、学校に忘れちゃったので、早く行ってやろうかなって……」

 そう言うと、神崎は恥ずかしそうに笑った。

「そうか……」

 また、その笑顔に心が揺らいでしまう。

 彼女とこの場で会って、僕の心臓は先ほどからずっと早鐘を打っている。

 神崎との関係を終わらせなければと煩悶していた矢先にその本人が現れて、動揺しないわけがない。

(そうだ、今なら誰もいないし、切り出すには絶好の機会だ……)

 言わなければいけない。

 この関係を終わりにして、僕たちは出会う前の状態に戻らなければいけない。

 いけないの、だが。

「あの、上杉さん」

「……な、なんだ」

「もし、もしよかったら、学校までご一緒しませんか」

 頬を赤らめてそう言う神崎に、こくりと頷くしかできなかった自分が心底情けない。



 そうだ。

 これは、別れ話を持ちかけるために一緒に歩いているんだ。

 そう言い聞かせて、彼女と共に歩く。

 歩幅の狭い神崎に合わせて、ゆっくり歩くのにも慣れてきていた。神崎は急いでいる様子もなく、普通に僕の横を歩いている。

 その真横の女の子を呼び、こちらを向かせ、『もう周りも落ち着いてきたし、そろそろ終わりにしようかと思うんだ』と言ってしまえばよい。

 それだけだ。簡単なことだ。

 なのにすぐ近くの神崎を見ていたら、言いたいと思う気持ちはすっかり四散してしまって、僕はただ惚けたように神崎の横顔を見ながら、彼女が途切れ途切れに出してくる話題に相槌を打つだけだった。

(だめだ、気持ちが乱れる……)

 僕はどうしたいのだろう。

 別れ話を持ちかけたくないということは、裏返せばまだ一緒にいたいということに他ならない。

 だが、これ以上深入りすることはあってはならない。

 だからと言って、この微妙な関係を続けていくのも良くないような気がする。

(ああ、どうしたら……)

「あの、上杉さん?」

 神崎に呼ばれ、はっと我に返る。

「もしかして、あんまり寝ていないんですか?」

「いや……」

「じゃあ、おなかすいてるんですか?」

「いや……」

 眠いし、空腹だ。

 この女の子には、分かっているのかもしれない。

 けれど、僕のある種の自己満足であるこの眠気と空腹を悟られるわけにはいかない。

 そう思っていたのに、空気の読めない僕の腹はこんなときに限って、ぎゅうう、と鳴るのだ。

「う……」

「や、やっぱり、おなかすいてるんですか?」

「…………」

 言い訳もできず、ただ黙ることしかできない。というか、腹が鳴る音を聞かれると言うのは恥ずかしいものだ。

すると神崎は自分の鞄をゴソゴソとまさぐったかと思うと、そこから何かを取り出した。

「あの、上杉さん。これ、よかったらどうぞ」

「…………?」

 差し出されたものは、コンビニで売っているようなカレーパンだった。

「さっき駅前で買ったんです。朝、時間なくてご飯作れませんでしたから、宿題やりながら教室で食べようと思って……でも、おなかすいてる上杉さんに。あっ、もちろん、お金はいらないですから」

「……い、いや、それなら神崎さんが食べればいいじゃないか」

 なぜ自分用に買ったものを僕に渡すのだ。僕に渡したら、自分の分がなくなってしまうだろう。せっかく買ったのに、なんの意味もないじゃないか。

 そんな風に思っていると、神崎はふるふると首を振ってから答えた。

「だいじょうぶです。そしたらわたし、お弁当を少しだけ食べますから。昨日の残り物を詰めただけでしたから、お弁当だけは持って行けたんですよ」

 えへへ、と笑いながら僕にパンを差し出してくる神崎。

 僕は黙ってパンを受け取ると、その場でそれを開けて中身を口にする。

「…………」

 美味しかった。

 ただの店で売っている凡庸なカレーパンなのに、この女の子の優しさが伝わってくるようで。

 久しぶりに、本当に久しぶりに、砂以外の味がした。

 なんでこの女の子は、こんなに優しいのだろう。

 どうして人間の屑のような僕に、こんなにも優しくしてくれるのだろう。

 胸の奥から、何か得体の知れない感情が湧きあがってくる。それは喉を通って、口から言葉となって溢れそうで。

 それを塞ぐかのように、僕は夢中になってパンを口に詰めていく。

(この女の子は、僕のことを気遣ってくれる……僕を心配してくれている……こんな、なんの価値もない男を……)

 こんなに嬉しいことはあるだろうか。

 誰からも心配されず、価値を見出してもらえず、挙句の果てに道具として使われる。

 そんな僕が、他人から心配され、気遣ってもらっている。

 まるで、人間扱いされているように。

(ダメだ……離れなきゃいけないのに、こんなに優しくしてもらったら、もう……)

 もしかしたら、答えはすでに出ていたのかもしれない。

 気づきたくなくて、認めたくなくて、迷った振りをしていたのかもしれない。

 過去の自分の決意が揺らぐことを恐れて、気づかない振りをしていたのかもしれない。

 でも、もう迷わない。

 僕は神崎と一緒にいたい。

 とても罪深くて、いけないことだというのは分かっている。

 僕なんかが、男女交際なんてものをしたところで破滅的な結果にしかならないということも分かっている。

 だけど、この女の子は他の奴らとは違うのだ。

 こんなにも優しくて、健気で、僕のことを思ってくれて。

 神崎となら、もしかしたら。

 母親と剛史のような爛れた汚い恋愛などとは違う。もっと穏やかで、清らかで、一緒にいて安心できるような、そんな形を描けるかもしれない。

 あいつらの汚い恋愛模様を目の当たりにした反動だろうか、恋愛が嫌いだと思いつつも、心の中では自分の理想を、あいつらとは真逆な形の理想をひそかに思い描いていたのかもしれない。

 もしかしたら、神崎となら、そんな関係が築けるのかもしれない。

「神崎さんに、言わなきゃいけないことがあるんだ」

 意を決して、かねてから用意していた最初の一言を吐いて、少女をこちらに向かせた。

 けれど、その先の言葉は用意していたものではなくて。

 正直な、不器用な、僕の気持ちだ。

「僕は神崎さんを守るつもりで、名前を貸させてもらって、一緒に下校している」

「は、はい……」

「そして騒ぎが収まってきたら、別れたということにしようと決めていた。で、体育祭も終わったし、だんだん騒ぎも収まってきている。だから、そろそろ離れるべきかと、少し前から思っていた」

 神崎は黙って聞いてくれている。その眉が少し下がり、どことなく不安そうに見えた。

「でも、今日神崎さんと会えて、こうして喋っているうちに、そんな気持ちがどこかへ行ってしまって。その……もう少しだけ、一緒にいたいって思ったんだ」

「…………」

「神崎さんと一緒にいると、楽しいんだって改めて気づいて。だから……神崎さんさえ迷惑じゃなければ、もう少し……」

 そこまで言うと、神崎は戸惑った。遠慮がちに、確かめるように僕に聞く。

「い、いいんですか? わたしなんかと、一緒でも……」

「うん」

 僕が頷くと、神崎はほっとしたように「よかった……」と呟いた。

「良かった?」

「実はわたしも、不安でした。いつ、この関係が終わっちゃうのかなって。できたら、もうちょっと上杉さんといたいなって」

「そう、だったのか」

「離れたら、また一人になっちゃうって不安もあったんです。でもそれ以上に、上杉さんと一緒にいられないのが寂しくて……わたしも、上杉さんと一緒にいたこの短い間が、とても楽しかったから……わたしも、びっくりです。わたしだけが楽しいんじゃないか、上杉さんは迷惑だとばっかり思ってるんじゃないかって」

 神崎はまた、屈託なく笑った。

 もし当初の予定通りに別れ話を持ちかけたら、神崎は絶対にこんな笑顔を見せなかっただろう。

 僕は、神崎のそういう笑顔を見たかった。もっと近くで、もっとたくさん。

「なら、その……思い切ったことを言ってもいいか」

「は、はい」

 きっと神崎も僕の言わんとしていることを悟ったのだろう、緊張した面持ちで僕の瞳を見つめている。僕よりずっと大きな、黒ダイヤのような美しい瞳に僕の顔が映っている。

 時間も場所もふさわしくないと、自分で思った。

 夕方とか、誰もいない教室とか、雰囲気が出そうな場所や時間は頭になかったわけではなかった。

 それでも、今、どうしても言いたかった。

 想いに気づいたことのときに。

 疾走する衝動のままに。

 今、どうしても言いたかった。

「神崎さん、僕と付き合って欲しい。どんな酷い目にも遭わせない」

「……っ、はい……」

 とても照れくさそうに神崎は顔を赤くして、それでもやわらかく笑って答えてくれた。

「よろしく……お願いします」

「ああ……よろしく」

 これを最初で最後にしよう。

 僕は一度だけ、女の子と付き合う。

 たとえそれがどれだけの罪だとしても。

 一度だけ、一度だけでいい、信じてみたいのだ。

 救いようのない人間も、救われるかもしれないということを。

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