体育祭-6

 翌日。

 都心のど真ん中の狭い敷地内にある僕たちの高校は校庭もまた狭く、とてもじゃないが体育祭など行えない。そのため、毎年国立の競技場を借りて体育祭を取り行うことになっている。現地集合現地解散、僕は慣れない地下鉄に乗って一人で国立の競技場までやってきた。

 夕べも剛史が来る前に高城の家に避難してから家に戻ったし、そうでなくても普段からろくに寝ずに自分を責めているため、僕の朝はいつも早い。早々に家を出たせいで、会場に着いても人影はまばらだった。

 数日前に配られたプログラムの最後のページには、クラスごとの観客席の場所が大まかに示されている。三組の面々がまだ誰も来ていないそこにたどりつき、僕は一番後ろの座席の列に荷物を下ろすと寝る態勢に入った。

(寝るにはちょうどいい……ん?)

 ふと見下ろすと、十数人の人間に交じり見覚えのある女の子が二人動いていた。

 一人は自分のクラスの体育祭実行委員で、それと少し離れた所にもう一人。

(ああ、神崎も実行委員だったか)

 あの華奢な女の子が体育祭実行委員なんて不釣り合いだが、学生生活のイベントにおける実行委員というものは大概誰もやりたがらず、適当な人間に半ば無理やり押し付けられるものだ。きっと彼女も無理やりならされたのだろう。

 しばらく準備に奔走する神崎を上から何となく眺めていたが、やがてそれも見飽きて目を閉じた。

 いつもはあまり眠らないのだが、さすがにこの体育祭という日だ、少しでも眠って体力をつけておこう。



 午後になっても競技はどんどん進み、そろそろリレーが近い。これが終われば僕の出場する競技は全て終了となる。

 出場する競技のだいたい二種目前くらいに館内放送で招集がかかるので、その前に一度トイレに行っておこうと思い席を立った。広い会場内を少し歩いていざトイレに入ろうとすると、隣の女子トイレから見知った顔がひょいと現れる。

「あっ……」

「ん、神崎さんか」

 ハンカチで手を拭きながら、神崎開耶が出てきた。いつもはそのまま下ろしている短い黒髪を、ざっくりと集めて左耳の下で結わえてある。僕を見て、彼女はいつものようにぺこっと頭を下げた。

「上杉さん、そろそろリレーですか?」

「まあな。その前にトイレ行っておこうと思って」

「わっ、ご、ごめんなさい! ど、どうぞごゆっくり」

「あ、ああ、行ってくる」

 真っ赤になって恐縮し、神崎は頭を深く下げ左手で男子トイレの入り口を示した。トイレに行くのに不釣り合いな見送りを受けて中へ入り、用を足して手を洗って出る。

 すると、神崎はまだそこにいた。

「あっ、おかえりなさい」

「ん? なんで戻らなかったんだ。危ないだろう、こうして一緒にいたら」

「あ、いえ、せっかくですし、ちょっとお話することありますから……」

「話?」

「はい、あの……」

 神崎は両手を組んでもじもじしている。あっ、あっ、うっ、など意味をなさない声が小さく断続的に漏れていた。それから――。

「リレー……がんばってください」

「…………」

 ややあって、彼女は小さく言った。

 まさかそんなことを言われるとは思わなかった。

(僕を、応援してくれるのか)

 目の前の神崎は、頼りなさげだけれどもまっすぐな瞳で僕を見つめている。

 建前や社交辞令ではなさそうな、正直な。

 そこになにか、言葉では言い表せない力のようなものを感じた。

「……わかった、がんばるよ」

 だからそう答えると、神崎は顔をぱあっと明るくさせた。

 ちょうどその時、二年生男子のリレーの選手を招集するアナウンスが聞こえてくる。

「よし、じゃあ行ってくる」

「はいっ、ずっと見てます、応援してます」

 笑顔の神崎に見送られ、僕は同じクラスの走者と合流するために一度自分のクラスに戻った。しかし彼女は四組なのに、他のクラスの僕を応援していいものなのだろうか。



「……で、お前と一緒か」

「はっはっはー! 運が悪かったな上杉、悪いが一位は俺のもんだぜ!」

 この、普段の馬鹿さゆえに陸上部部長だということを失念しがちにさせる高城が、四組のアンカーだった。鬱陶しいことこの上ない。

 すでにリレーは始まっていて、現在、ほとんどの第二走者が第一走者から順次バトンを受け取っているところだった。出番待ちの僕らはトラックの内側に座っている。

「足加減はしてやらねえぜ。一位でゴールイン、それは奈緒とのゴールインなんだからな」

「…………」

 まったく意味がわからない。結婚したいのだろうか。

「どうせお前は寝ず食わずでコンディションは最悪だろ、それに対して俺はたっぷり寝て朝も昼もガッツリ食べて弁当の後は昼寝までしたからな、もうバッチリだぜ。しかも召集の前に会場の外を軽く走って身体をあっためてきた。こういう足場固めで勝負ってのは決まるんだぜ上杉」

「…………」

 たかが体育祭で気を入れ過ぎだ。ため息が漏れる。

 というか、僕が寝ておらず食べておらずなのはいつものことなので、むしろこの状態のほうが自然なコンディションだったりするのだが――。

「いやー、やっぱ俺を魅せるにはこういう場が一番だよな! 俺も恋愛上級者だから分かるんだけどよ、自分の一番得意とするとこを見せつけるのが手っ取り早いしな! 慣れない料理に挑戦するよりは効果的だって、上杉もそう思うだろ? ま、俺が勝つのは当然だが、お前、万が一俺に勝てそうだとしても空気読めよ。俺ら友達だろ? 友達の恋は応援したいだろ?」

「黙ったらどうだ、鬱陶しい」

 心の底からどうでもいい。僕はこのバカと違って何も背負ってはいない。普通に走ってリレーは終了、あとは毎年恒例の、体育祭のフィナーレを飾る三年生女子のダンスでもゆっくりと観ていたいものだ。

「お前、勝利に執着なさそうだな」

「ないな。どうでもいい」

「そんなぬるい考えの奴と戦って勝ったところで嬉しくもなんともねえ。ここは勝負に緊張感を持たせるために罰ゲームを設けようぜ」

 また余計なことを。

 内心で舌打ちをしていたら、僕の同意を待たずに高城は勝手に罰ゲームを設定しだす。

「そうだな、上杉が負けたら消しゴム五個食うとかどうだ」

「……じゃあ高城が負けたらシャープペンの芯を十本まる飲みだ」

「上等だこの野郎、お前が負けたら百円ショップで店員に『これいくらですか?』って聞くのも追加な」

「お前こそ負けたら女子更衣室に全裸で突撃してもらうのを追加だ」

「服の中に毛虫二十匹入れるんだぞ」

「カブトムシとクワガタとゴキブリを生きたまま一匹ずつ食え」

「ドラム缶になみなみ入ったコールタールに肩まで浸かれよな」

「今度の全校朝礼の校長スピーチのときに舞台ジャックして一曲歌え」

「駅を通過する特急電車を体ひとつで止めろよな」

「ロケットに生身でくっついて火星まで行って地球を背景に写真を撮ってこい」

 どんどん不毛な言い合いになってきた。

(アホか僕は……)

 そんなもの、仮に負けても実行する義理はない。僕は高城から目を離してコートのほうを見た。

 僕たちの目の前で、第三走者が走り出していた。三組が一位で四組がそれに続いている。

「ちっ、三組に追いつけねえか。まあ、あのくらいの差ならむしろいいか。ぶち抜きながらゴールすんのが一番決まるからな」

 高城は顎に手を当てて一人で喋っている。

 僕は無視して、なんとなく四組の観客席のほうを見上げた。

(そういえば神崎さん、ずっと見ていると言っていたが……)

 ここからでは神崎の様子は見えない。どこにいるのかもわからない。

 コートを半周した反対側で、第四走者が走り出した。僕たちアンカーは立ち上がり、バトンゾーンへと出る。四組の走者が三組の走者を半ばほどで抜いた。

「よっしゃ西村、よくやった! あとは俺に任せとけ! やべーよ勝っちまうよ、いや、悪いな上杉、俺奈緒と幸せになるわ。式には呼んでやっからな。あー、でも一番かっこいい勝ち方じゃねえな。まいっか、一位でゴールできれば十分かっこいいしな、な、上杉」

(そうか)

 相変わらず一人で喋りながらバトンゾーンのぎりぎり後ろまで下がる高城。僕もそうして後退した。

 高城にバトンが渡る。

「はっはー、先行くぜ上杉! うおおおおおおお!」

 奴は雄叫びを上げながら走りだした。一位でゴールしたからといって、山口と結婚できる保証はどこにもないことには気付かないのだろうか。

 そう思っていると、三組の第四走者が必死に走って近づいてくる。

「す、すまねえ上杉……あとはたの……」

「ふん」

 切れ切れに何か言っていたが気にしない。僕はゾーン内をゆるく走りながらバトンを受け取ると、一気に加速した。

 一応本気で走ってみるが、いくら高城の専門が長距離の五千メートル走でこうした短距離が奴の苦手分野とはいえ、流石にあいつの走りは現役のそれだった。離されていくわけでもないが、追いつけそうで追いつけない。

(罰ゲームは嫌だな……消しゴム食べて百円ショップで値段を聞いて服の中に毛虫入れられてコールタールに浸かって特急を止めるのか……どのみちやらないが……)

 それでも競技終了後、あいつの自慢げな声を聞き、満面の笑顔を見なくてはならなそうだった。脳内でやたらと腹の立つ高城が映し出される。

 ゴールしたらその勢いのまま観客席まで走って逃げようかと算段していたそのとき。

 奴の姿が脳内で霞み、代わりに女の子の顔が見えた。



 ――リレー、がんばってください。

 ――ずっと見てます、応援してます。



 声も聞こえた。

(神崎さん……そうだ、僕は神崎さんにそう言われた)

 彼女は、僕のことを見ていてくれている。

 僕のことを、応援してくれている。

 今まで誰も、僕にそんなことをしてくれなかったのに。

(どうせなら神崎さんに、いいところを……)

 脚に、体に、不思議と力が湧いてきた。

 自分のことを応援してくれる女の子のために、もう少しだけ頑張れそうだった。

 徐々に差が詰まっていき、周囲の歓声が大きくなる。

(もう少し、もう少しなんだ……が……)

 残りの距離はほんのわずか。追いつく前にゴールされてしまう。

 無念さで唇を噛んだとき、いきなり目の前の高城が変なポーズでゴールしようとして――そしてそのまま転倒した。

「ぎゃああああ!」

「えっ……うわあっ!」

 体に思考が追いつかない。避け切れず高城に追突して、僕もうつ伏せに倒れこんだ。

 そしてその隙に他のクラスのアンカーが、僕たち二人を避けてゴールインしていた。驚愕と落胆の声が四方から降りかかってくる。

「あいたたた……なんてことだ……」

 バトンだけはどうにか握っていられたようだ。痛みをこらえて立ち上がり、残り二メートルもない距離をふらふらと歩いてゴールする。

 それから振り向くと、高城はその場でうつ伏せになって男泣きしていた。その涙は、転んだうえ僕にぶつかられた痛みからくるものではなさそうだ。見るとバトンははるか遠く、あらぬ方向に転がってしまっている。もう勝てないと悟ったのだろう。

(…………哀れな奴だ……)

 気の毒過ぎて直視もできない。

 結果、僕たち三組は五位、高城の四組は最下位となった。

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