神崎開耶-2

 昨夜は、剛史は来なかった。今日は早すぎる登校をしなくて済む。

 それでも母親と朝から顔を合わせるのは御免こうむりたかったので、酔って寝ている母親には声をかけず、手早くパンを焼いて食べてから学校の支度をする。

 と言っても教科書類はすべて学校に置いてきているため、空の鞄に昨日木下に申しつけられた材料だけを突っ込んで家を出た。わざわざ昨日の夕方、スーパーで買ってきたものだ。僕も律儀だなと思う。

 それにしても、久しぶりに朝に何か食べたような気がする。珍しく体調のいい日だ。

 地元の駅で、高城と合流する。

「いよいよ今日の五、六時間目、俺のゴールインのための大いなる一歩が踏み出されるぜ……」

「一晩寝れば、自分のバカさ加減に気がつくと思ったのは僕だけか」

 やる気十分の高城に、僕は呆れてそう言った。

「悪りいが、お前の期待してるようなことにはならないぜ。俺はネットで、一味違うチンジャオロースの作り方を徹夜で覚えたからな。何度も実践したし、抜かりはねえよ」

 一晩寝れば、以前にこの男は寝ていなかった。そりゃ目も覚めないだろう。昨日こいつの家に行かなくて本当によかったと思う。もし行けば、僕まで付き合わされることになっていただろうから。

「夜中に寝ずにやったのか、真性の馬鹿だ」

「出来る男ってのは、裏で努力するもんだぜ」

 手段が目的になっている。彼女を射止めることから、チンジャオロースを上手に作ることに目的がすり替わっているが、それでは努力の方向から違う気がする。

 だが、別にいい。とりわけ破局を望んでいるわけではないが、面白いものが見られれば少しは無聊の慰みになるだろう。

 この退屈な学校生活に、退屈な人生に、ほんの少しでも。

 そのくらいしか、今の僕にはないのだ。



 昼休みに少しだけの昼食を取って、終了間際に一人で調理室へと移動する。

「上杉くーん、こっちだよー!」

 調理室に入るなり、木下の元気すぎる声がした。そちらを見ると、すでに僕の班の面子は揃って着席している。 名前もよく覚えていない男が二人と、木下、そして彼女の友人である女子二人。うち一人は、高城の彼女でもある山口奈緒だ。

 空いている席に、僕も座った。

(山口も僕と一緒だったのか……考えてみれば、高城と山口はクラスが違えば当然班も違うわけで、山口は自分の料理にいっぱいいっぱいで、高城のほうなんて見る余裕もないんじゃないのか)

 僕も今気づいたが、おそらく高城は最後まで気づかないに違いない。

 高城が料理に失敗しても山口がそれを目撃しなければ、面白さは半減だ。

 しかし、山口に声をかけると、山口は笑いながら言った。

 ――そんなのどうでもいいよ。そんなことより、私たちのほうに集中しようよ。

 僕はあきらめた。高城には哀れだが、もし奴に何か言われたら、見たいときにいつでも見られるから、どうでもよかったんだ、と説明してやろう。



 全く問題なく、僕たちの料理は完成した。

 統率力のあるこの学級委員が直々に指揮を執るせいだろう、完成はどこのグループよりも早い。

「やっぱり、みんなで作って食べるとおいしいねー!」

 その木下が食べながら大声で言う。口の中のものを見せないで欲しい。

「材料と過程がしっかりしていれば、美味しいものができるのは当然だ」

「もー、どうして上杉くんは揚げ足ばっかとるの! きみ、夢がないよ、ロマンもないよ、仕事もなけりゃ愛もない、お金もなけりゃ髪もないよ!」

「か、髪は関係ないだろう」

 なぜか怒られた。他はともかく、髪の毛はちゃんと生え揃っている。その言葉に反応してハゲたらどうする。やめてくれ。

「ほんとですよ、死んでください上杉くん」

 すると今度は、木下の右隣で食べていた女の子が口を開く。開口一番、死ねときた。

 黒髪の前は切りそろえ、後ろはそのままおろして腰まで伸ばしている、クラス一長い髪の毛をもつ藤井絵梨香ふじいえりかだ。

 山口、木下、藤井は仲が良く、普段から三人組を形成しているのだが、この藤井は前の二人に比べると比較的おとなしい。

 が、おとなしいのは見た目だけで、ひとたび口を開けば丁寧語で毒舌が飛び出してくる。

 おまけに弱い者虐めが大好きな嗜虐癖のある、簡単にいえばドがつくほどのSな女の子だ。男女問わずクラスの誰も彼女には敵わなくて、ついたあだ名が女帝。

「邪魔で、役に立たず、食べられず。あなたなんていま食べてるチンジャオロース以下、ゴミか微生物か定義すらあいまいな存在なんですから、人間に向かって偉そうなことを言うくらいなら今すぐ隣の実験室のガス管を咥えて死んでください、見ててあげますから」

「…………」

 今日も今日とて毒舌に容赦がない。僕がたいそう落ち込んでいると、家庭科の教員の声が聞こえてきた。

「食べ終わった班から、食器を片づけてテーブルを拭いて、教室に戻ってください。それから、今回の調理実習のことも期末に出しますので、もう一度プリントを読み返してみると良いでしょう」

 それを聞いて、木下はもう次の采配を振る。

「じゃあ男子のうち二人が食器を洗って、残りの一人が洗った食器を持ってって!」

「あんたらは?」

「私たちはいっぱい料理したから、先戻るから! よろしくねー!」

 僕が訊くと、木下はさわやかに答えて去って行ってしまった。藤井と山口も同様に去っていく。

 面倒だし、僕も帰ってしまおうか。三人が二人になっても別に大差ないはずだ。すでに流し台で食器を洗っている名も知らぬ男子二人を信じて任せよう。僕はこの存在感のなさを利用してさりげなくこの場を――。

「うえすぎぃ……」

 離れようとして、呻くような声とともに後ろから肩を掴まれた。振り向くとそこには憔悴しきった顔の高城。

「なんだ高城、静かにしてくれ、さりげなく帰りたいんだ」

「俺の徹夜の努力はなんだったんだよ、奈緒、こっち全然見てくれねえじゃねえか……」

「離せ、あいつらに気づかれる」

 こんな奴のことはどうでもいい。僕は今、面倒事を回避できるかどうかの瀬戸際に立っているんだ。邪魔するな。

「お前が信用できる男になれとか言ったから頑張ったのによ、どう責任取るってんだよお……」

「知らん、離せ。帰らせろ」

「なに帰ろうとしてんだ上杉、ほらこれ持って行け」

 ほらみろ、お前のせいでこいつらに気づかれたじゃないか。

 僕は内心で舌打ちをすると、流し台のそばに積まれた皿に手をかけて持ち上げた。面倒だから、せめて一度に運んでしまおう。スープ皿なども合わせて結構な数になった六人分の食器は一度に持ち上げようとするとなかなか重いが、持てなくはない。

「ほら高城、もうどいてくれ」

 この男はまだ僕にすがりついている。僕のせいじゃないだろう。

 もう蹴っ飛ばしてしまおうと、片足を上げたその時だった。

 何かが僕の体にぶつかった。軽いが、勢いがある。

「えっ……うわっ……!」

 両手がふさがり片足の浮いた状態で、その衝撃に耐えることはできなかった。

 僕は床に倒れ、持っていた食器をすべてぶちまけた。耳をつんざく破壊音が、調理室に響き渡る。

「大変だー! 先生、皿がーっ!」

 我にかえった高城の声も聞こえた。僕より皿が先か。

 しかし、そんなことは二の次だ。いったい誰がこのようなことをしたのか、それが一番気になった。

「だ、誰だ……」

 呻きながら半身を起こす。

 それに答えるかのように、高くて小さな声が返ってきた。



「ごっ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 女の子だった。

 顔に見覚えがないから、四組のほうの子なのだろう。

 背は高くもなく低くもなく、華奢な体型。支えが必要なほど細く、けれど支えたらそれだけで折れてしまいそうなほど。

 肩のあたりまで伸びたやや短めの黒髪は、癖がなくサラサラで美しい。それが天井の蛍光灯の光を浴び、濡れたように光っている。

 それは気持ちが透き通るほど幻想的で。

 それは気持ちがざわつくほど蟲惑的だった。

 丸顔で、大きな二つの黒の眼は少しだけ垂れている。おっとりというか、おとなしめというか、攻撃的ではないというか、そんな顔立ちだ。

 そして今、その大きな眼は今にも泣き出してしまいそうなほど、不安と恐怖で揺らいでいる。いや、揺らいでいるのは瞳だけでなく、身体全体だった。恐怖からか、その細い身体がぷるぷると震えているのだ。そしてそれに合わせて少女の髪が前後に小さく揺れていた。

 僕は立ち上がり、その相手に向かってぶっきらぼうに言った。

「ぶつかったのはお前か」

「ひっ……そ、そうです……ごめんなさいっ……!」

 女の子はびくりと身をすくませ、腰を引いて腕を前に構え目をつぶった。これでもかというような防衛本能全開の体勢だ。別にその程度で何かするというわけでもないのに、ずいぶんと怯えられたものだ。

「おいおい上杉、女子を脅すんじゃねえよ。恋愛上級者はいつでもスマートに女子をだな……」

 高城が何か言っているがどうでもいい。今はこの女の子をどうするかが先決だ。

 さて、どうするべきか。こちらから何か言って女の子を安心させるか、彼女が何か言うのを待つか。

 そう思っていると、向こうから口を開いた。

「あ、あの、わたし、日直で、早く教室に戻らないといけなくて……で、でも、わたしの班、料理できるのが遅くて、だから早く片付けて、戻らないといけなくて……」

 しどろもどろに、それでもとにかく弁解しなければと必死になっているのがありありと分かる。

 調理室にはまだ全体の人数の半分程度の人間が残っていた。先の皿が割れた大轟音のせいで連中の目は一斉に僕たちに集まっている。あまり居心地のいい雰囲気ではない。

 しかし、こんな女の子がいただろうか。

 高城に教科書を借りたりするために四組の教室に入ることはたまにあるが、こんな女の子の姿や顔は記憶にない。

 もしかして転入生だろうか。いや、女の子の転入生なんて男にとっては大騒ぎだ、高城が嬉々として報告してくるはずだがそんな記憶もない。なら最初から四組にいたのか。

 ぐるぐると考える。そんな僕を前に、目の前の女の子はひたすら謝り続ける。

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 さすがにそろそろ鬱陶しいと感じるようになった。僕は右手ですっと出口を指し、短く告げた。

「行け」

「……は、はい?」

 女の子はいきなりそれだけを言われ、なんのことか分からない、というような表情になる。それに対し、僕はもう少し詳しく言う。

「日直だと言っていただろう。……もういいから、行け」

 これでいい。

 すぐにこの女の子は、逃げるようにそこから出ていく。

 あとは割れた皿を片付ければいい。

 そう思っていた。

 なのにこんな時に限って、事態をおかしくさせる奴が現れるのだ。

「うわ、上杉、お前血ィ出てんじゃねえか、その手」

 高城の言葉で、僕も、その女の子も、僕の右手を見る。

 僕たち二人が気付かずにいられれば、あるいは後で気がつけば、どれだけ事が円滑に運んだか知れないのに、そのせいでこの一件がこじれていく。

 転倒して床に手をついた時、僕は知らずに、皿の破片を手で押しつぶしたらしい。掌がぱっくりと切れ、血をぽたぽたと滴らせている。

「……切ったのか」

 出血など別に珍しくない。剛史に血が出るまで殴られることもあるし、母に食器を投げつけられ割れたそれが頬を切ることもよくある。いつだったか母に割れたビール瓶の断面で切り裂かれた時はさすがにひどい怪我を負ったが、それに比べれば痛みも出血もなんてこともない。

 だがそれは僕だけのようで、目の前の女の子はいよいよ顔を真っ青にして狼狽し始めた。

「た、た、たいへん……どうしよう……! あああ、ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさい……!」

 せっかく落ち着きかけていたと思っていたのに、高城のせいでさらに悪化してしまった。恐怖か自己嫌悪か、女の子の眼には涙がいっぱいに溜まっている。今にも泣きだしてしまいそうだ。

 誰か、この状況を何とかできる人間はいないのか。

「さっきの音はなんです……あらまあ!」

 隣の調理準備室に引っ込んでいた家庭科の教師がやってくる。やってきたかと思えば、血を見るなり頓狂な声を上げて固まっていた。まるで役に立たない。

「しょうがねえ先生だな、まあいいや、上杉、保健室行くぞ」

 結局は、事態をややこしくした高城が収拾を図った。

 先を歩いて、調理室から出ていこうと歩き出す。

「保健室など行かなくていい。放っておけ」

「バカ言ってんじゃねえ、菌が入ったらどうすんだよ。俺は普段はガサツだが怪我には敏感だぞ、なんたって陸上部部長だからな」

「どうせゴミみたいな僕の身体だ、たとえ菌が入って腐ろうがかまうものか。むしろそのほうが相応しい」

 不毛な言い合いをしながら、それでも僕たちは調理室から出ていく。

「あ、そうそう」

 思い出したように、高城は止まって振り返り、言った。

 未だにその場で震えている、女の子に。

「俺がこいつ連れてくから、お前はさっさと戻れ」

 高城について調理室を出る僕の背中に、また小さく詫びる声が聞こえた気がした。

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