一章 神崎開耶
神崎開耶-1
午前一時、高城の家を後にして自宅へと向かう。
この時間になるとだいたい母も剛史も酔い潰れて寝ているので、僕は静かに帰宅し、自室に戻り電気もつけずに上着を脱ぐ。
そしてベッドに腰掛け、真っ暗な部屋の中でものを思う。
剛史とは、母親の恋人だ。
僕が十四歳のときに両親は離婚し、父親はどこかへ消えた。連絡も取れない。
あまり家にいることのない人間で、それでも仕事だけはこなす人間だと僕の眼には映っていた。
僕が小さいころから、両親は夫婦喧嘩が絶えなかった。
怒鳴り声と金切り声で夜中に何度も目が覚め、怖くて眠れない、そんなことはいくらでもあった。
何がそんなに互いが気に食わなかったのか、わからない。
ある晩、父親は離婚届を突き付け、僕の目の前で母親を思いきり殴りつけた。
父はそれを最後に、腰を抜かして震えている僕には顔すら向けず、すでに用意していたのか、荷物を抱えすぐに家を出て行った。
残された母は、立ち上がりもせず泣いていた。
そんな母を見て、僕は決めた。
僕が、父親の代わりも果たそうと。
母のことが、好きだったから。
そう決め、勉強に精を出し、少しでも偏差値の高い高校に行こうと息巻いていた。その先は、偏差値の高い大学へ行こう、高給を取れる職に就こう、そして母を楽にさせようと、そこまで考えていた。
今の高校は私立の進学校なのだが、都立高並みに学費が安く、かなりの大学進学率を誇るなかなか優秀な学校だ。母と相談してこの学校に第一志望を決め、猛勉強して合格を果たした。
――まだスタートラインにすら立っていない。もっと勉強して母さんを楽にできるように頑張らなくては。
僕は入試が終わって春休みになっても頭のネジを緩めず、毎朝五時には起き、高校の勉強の予習に励んでいた。
――今からでも金を稼ごう。女手一つで仕事をして疲れて帰ってくる母さんのためにおいしいご飯を食べさせてあげられるように、料理のスキルアップも兼ねて飲食店で働こう。
そう思ってファミリーレストランをバイト先に選んだ。僕の高校はバイト不可だが、母子家庭で収入も低いため特別に許可を貰った。
バイトのせいで学業が疎かになるなどあってはならないから、効率の良い時間の使い方も試行錯誤した。
成績の順位が上がるたび、給料が入って金が貯まるたび、僕は達成感を味わい、しかしすぐに兜の緒を締め直して、また勉強とバイトに打ち込んでいた。
しかし、そうやって僕が頑張っていたことは、やがてすべて壊されてしまった。
ある晩、学校の後のバイトを終え、家に帰ってきた。
遅くなってしまって母に心配をかけてはいないかと思ったが、家には誰もいなかった。
料理を作って待っても、いつまでも母は帰ってこなかった。妙なこともあるものだと思っていたが、勉強しながらずっと待っていた。
日付が変わる頃、母は見知らぬ大柄の男を連れて帰ってきた。
――いずれあんたのお父さんになる人だから。
酒臭い息を吹きかけながら、そう言った。
僕はただ驚くことしかできなくて。
母は酒などめったに飲まなかったのに。
それからも、母は夜遅くに帰ってきては、その男を連れ、どこかで飲んできたのであろうに、さらに家の中でも飲んで騒ぐのだ。
煙草も吸うようになった。その男も煙草を吸うせいか、家中がたちまち煙草臭くなった。
ほどなくして、母は仕事を辞め、昼間からでも飲むようになった。
僕が控えめに注意すると、まるで父親と喧嘩していた時のような金切り声をあげた。
ビールの瓶を振りまわして威嚇することも少なくなかった。
金は、恋人の男が出していた。
家の主導権も、その男が握るようになっていた。
母親は、剛史という名のその男にひたすら媚を売るばかりだった。
僕はこの男が嫌いだった。
大好きな母をここまで変えてしまったこの男を。
ある時、我慢が出来なくなって、僕は叫んだ。
――ここは僕と母さんの家だ。出ていけ。
そうしたら、血が出るまで殴られた。
――なんで俺がここにいると思う。てめえ一人の力じゃ自分で生きていくことも母ちゃんを守ることもできないくせに、ナマ言ってんじゃねえ。
ボロ雑巾のように床に打ち伏せられ、そんな無様な格好のまま、僕は呆然としていた。どうしたらいいのかまったく分からなかった。
その時に気づいた。
僕は、今までずっと無駄なことをしていたのだと。
母のために、自分自身のために、必死に頑張ってきたと自分で思っていたのに。
その努力はこの男にぶち壊され、守りたかった母は変わり果て、僕は一人でずっと空回りをし続けていたのだ。
僕のしたことは、全て無駄になってしまった。
頑張ったことは水泡に帰された。
もう、なにを頑張っても、なにをしても、無駄なのだ。それがこの世の中なのだと、そう思うようになっていた。
なにもかもが馬鹿馬鹿しく思え、すべてを投げてしまった。
勉強も、バイトも、生きる意味も、なにもかも。
(そうだ……その挙句が、このざまだ……)
暗い部屋で頭を抱え、今夜もまた眠れない夜を過ごす。
翌朝、母親も剛史もまだ寝ているうちに家を出て学校へ向かう。そして始業まで一時間以上ある誰もいない教室に入り、ただそこで何もせずぼんやりする。
次第に生徒たちが視界に増えてくるが、気にしない。
古い付き合いである隣のクラスの高城以外に、友人などいない。こんななんの価値もないような人間に声をかけてくる人間など、ほとんどいない。
だから、ひたすら自席でボーっとしている。
(ああ……どうせこうやって、何も進まないまま時間だけが過ぎていくんだろうな)
「上杉くーん! 上杉くーん!」
ふと、誰かが僕を呼んでいるような気がした。気がしたかと思うと、後頭部を平手でペチンと叩かれる。
「わ……な、何の用だ」
振り向くと、そこには短い栗色の髪をした、快活そうな女の子が僕を見て笑っている。
「何の用だじゃないよー! 出席番号四番、女の子みたいな名前に定評のある我ら二年三組の無気力男子代表、
「うるさいな……」
僕はほとんど眠らない。
剛史が家に来てからというものの、僕の生活と家庭は崩壊の一途をたどるばかりだった。
この間、もう母も剛史も眠っているだろうと油断してついうっかり眠っていたら、いきなり母親に一升瓶で殴られ、わけも分からないまま二人に理不尽な暴行を受け続けた。
そんなことがないように常に起きているというのもあるし、その恐怖と不安で眠れないというのもある。
それともうひとつ、自分を責めたくて眠らない、という理由がある。
剛史によれば、僕は何の価値もない人間らしい。
高校生が学業のかたわらに稼げる金など、たかが知れている。そんなはした金で母親を助けようなどと、ガキが息巻くなと怒鳴られ、テーブルの角に頭をぶつけられた。
お前が何年もかけてしてきたことなど、俺に比べれば毛ほどの価値もないことだと怒鳴られ、ビール瓶を投げつけられた。
ああ、そうかと思う。
僕のしてきたことは、全て無駄で。
僕には何の価値もないのだなと、思い知らされた。
酒乱と化した母親も、剛史に同調して喚き散らした。
こいつはなにもしてこなかった、産まなければよかったとまで言われた。
ああ、そうだなと思う。
僕は、生まれてくるべきではなかったのだ。
こんなに何の役にも立たない、なんの価値ももたらさない男など、存在していいはずがない。
最も近しい場所にいるはずの人間である母親から、そう言われた。
だとすればもう、そうでしかないのだ。きっと誰も、否定してくれない。
ならば、自らそうだと言い聞かせることで、精神の安定を図るより他なかった。
自分は価値がない、自分はクズだ、そう自分に言い聞かせて、自分を責め続けるより他なかった。
全て、空回りをしていた僕が悪いのだから。こんなことになったのも、母親でも剛史でもなく、全て僕のせいなのだ。
そうやって自分を責めて初めて、自分の精神が安定する。
これほど歪んでいる人間も珍しいと思う。
だが、僕にはそうするしか思いつかないのだ。
常に自分を責めていないと、安心できないのだ。
安心できないと、眠れもしないのだ。
真っ暗な部屋で自分を責め続け、ようやく精神が落ちついてきた頃に空が白んでくる。
それから三十分ほど眠り、朝早く、まだ母も剛史も目を覚まさないうちに学校へと向かう。
食事など摂らない。もはや何を食べても砂のような味しかしない。
そうでなくとも、僕は無価値な人間なのだから、死なない程度にものを食べていればそれでいい。
空腹、寝不足、そういった体調不良からくる不快な気分は、逆に僕の精神を落ちつかせてくれるものだった。
クズ人間には、こうやって苦しい思いをするのが似合いだと思うから。
ろくに眠らず、ろくに食べない。
ひたすら自分を責め、この世の全てに意味がないと思いながら無為に日々を過ごす。
そんな毎日なのだ。
(はあ……)
それはともかくとしても、このやたらとテンションの高い女の子の無駄な元気さに僕は若干の苛立ちを覚え、「いったいなんなんだ。用があるなら早く言え」と急かす。
彼女の名前は
男女関係なく、相手が誰であろうと対等にその元気さと明るさで接するクラスの人気者で、学級委員だ。前期もそうだったが、つい先日の始業式後のホームルームで後期も同じポストに決まっていた。
ちなみに彼女は、どう低く見ても偏差値60を超えるこの進学校において、成績はどの教科も入学当初から一位以外を取ったことがなく、まるで漫画の中にいそうな優等生を地で行っている。
「もしかして夏休みボケ? まあきみは春夏秋冬関係なくどんよりしてるけどねー! 安心と信頼のローテンションだよ! 私と足して二で割ったらちょうどいいかもねー! あっはっはっは、こいつはお笑いだ!」
「さっさと要件を言え」
笑いの要素などどこにもない。まったく朝から声の大きな女の子だ。この暴走超特急め、その元気さはどこから来るのだろう。
そう思っていると木下は一枚の紙を取り出したかと思うと、僕にびしっと突きつけてきた。
「なんだこれは」
「夏休み前に配ったプリントだよ! ほら、調理実習の!」
話を聞くと、どうも夏休み前の最後の家庭科の授業で調理実習をやることになっていたのだが、何らかの事情で夏休み明けに延期になったらしい。最初の授業で行うから、なにを作るか、各自で持ってくる必要なものはなにか、などが書かれたプリントを終業式の日にもらうはずだったのだが――。
「上杉くん、終業式の日に通知表だけもらって帰っちゃったじゃん! あのあと調理室に集合ってことになってたのに!」
「全く覚えていないな」
記憶にない。完全に頭の中から消失してしまっている。
「うわーもうこの子はー! このぶんだと私と同じ班だってことも覚えてないねー!」
「ああ、覚えてないな」
「そこをふんぞり返って言うんじゃないよー! もういいや、上杉くんはこれとこれとこれ、持ってきてね! 持ってこなかったら斬首だよ!」
プリントを指さしながら持ってくるべき材料を言い渡す木下。斬首って。
「まあとにかく持ってきてね、じゃないと明日困るんだから!」
「明日?」
僕が聞く前に、木下は友達の輪の中に戻っていった。残された紙を見ると、なるほど明日となっている。
「まったく……」
そう呟いて、プリントを鞄に突っ込んだ。
今日、教室で僕に声をかけてきたのはこの木下だけだった。
「よ、帰ろうぜ」
授業が終わり教室を出ると、高城が僕の教室の前で待っていた。部活は休みらしい。
帰り道で、高城は明日のことを話し始めた。
「明日は待ちに待った調理実習だな」
「全然待っていない。……ん? お前のところも調理実習なのか」
「いや、調理実習は三、四組合同だろ。しっかりしろよ上杉、俺レベルになっちまったか?」
「うるさいな、誰にだって間違いはある」
なにがそんなに調理実習が楽しみなのだろう。調理なら去年まではバイト先のファミレスで嫌と言うほどやっていたのだが。
「だってチンジャオロースだろ? 重い中華鍋を軽々と振り回して、奈緒に頼れる男ってのを見せてやるんだぜ。こうな、こうっ」
高城が歩きながらパントマイムを始めた。クネクネした動きがなんだか気持ち悪い。
それに僕が昨日言ったのは「信用できる男」であって、「頼れる男」とは言っていないのだが。
「似たようなもんだろが。これで奈緒は『きゃー、秀明って力あるだけじゃなくて料理もできるんだねー、結婚してー』と来るわけだ。そこで俺はすかさず、こんなもんよりも俺はお前を料理して美味しく食べちゃいたいぜって言うわけだ、そうすると奈緒はコロリといっちまい、あとは俺んちにホイホイってわけだ。っちゅーわけで明日はお前来んなよ、明日の夜は奈緒とあんなことやこんなことをするんだからな。やべーな、オカンに頼んで明日の晩メシはとろろご飯にしてもらわねーとな、精がつくようにな」
(なにひとつ意味が分からない……)
こいつは日本語をしゃべったのだろうか。僕の頭がついていけていないだけか。
しかし、調子に乗って鍋を振り回して料理を駄目にする高城が見られると言う、小さな楽しみが出来たかもしれない。
僕は高城の肩に手を置いた。
「頑張れ、高城。料理ごと駄目になったら、気休めぐらいは言ってやるから」
「おい、それどういう意味だよ上杉!」
「聞いたままだろう」
高城を置いて、僕は駅へと歩き出す。
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