融壁-the wall had melted unawares-

千石柳一

プロローグ ひとりでいい

ひとりでいい

 桜色の雪が降っていた。

 それはずっと「無」だったこの世界で、初めての事象の変化だった。

 何年も何年も、なにひとつ変わらず、閉じ込められていたこの世界に。

 あとからあとからそれは降り続け、そのまま落ちていくものもあれば、僕の体をかすめて落ちていくものもあった。

 僕はそれを掴みたかった。

 いったい何なのか、確かめたかった。

 だから空に向け手を伸ばした。

 ひとひらの雪が、僕のたなごころに舞い降りる。

 雪なのに、温かい。

 とても温かくて、優しくて、どこか懐かしい。

 そうっと腕を曲げ、顔の近くまで掌を持ってきて、間近で見たそれは――。



(桜の……花びら……)



 雪では、なかった。

 柔らかくも儚い、淡い桃色の花弁。

 僕が手のひらのそれを眺めていると、不意に奇跡が起こった。

 花びらが音もなく桜色の光を発し、僕の体を包んでいく。

(ああ……これは……)

 温かく優しい光に包まれて、そうして、やっとわかった。

 これが僕の、求めていたこと――。

 長い長い時を経て、いまこの時まで渇望していたもの――。



 満たされた僕は、目を閉じてすべてをその光に委ねた。










「……夢、か……」

 僕が目を覚ますと、そこは夕暮れの誰もいない教室。

 六時間目の途中から、帰りの会をすっ飛ばして今までずっと眠っていたらしかった。

 壁の時計を眺めると、午後五時半。眠っていた時間は二時間を超えていた。

(疲れているのだろうか……)

 教室の固い椅子と机では、その疲れもまるで取れなかったのに。

(ああ、いけない、遅れる……)

 くだらない考えは捨て、僕はやらなければならないことを思い出した。

 机の横にかかっていた鞄を掴んで教室を後にし、廊下の冷水器で少しだけ水を飲んでから帰宅する。



「ぐっ!」

 電車で一時間かけて帰宅した僕を、灰皿が飛来して出迎えた。

「……遅れた詫びは、これでいいのか」

 それが直撃した眉間にずきずきと響く痛みをこらえ、その元凶を睨みつけて言ってやる。

「いいわけないだろ馬鹿野郎! 何時だと思ってんだ!」

 灰皿を投げてきた人物――僕の前に現れて金切り声を上げる太った中年の女は、僕の母親だ。

 血のつながった、本当の母親だ。

「ああムカつく! その目がいつも以上にムカつくなあ、おい! 僕はこんなひどい親に黙って耐えてますよ、って言ってるみたいで!」

「…………」

 何を言っても、こいつは怒り、喚き散らす。

 黙っていても喚き散らすが、結果が同じなら黙っていたほうがいい。

 すると今度は、母親は台所に引っ込んで蛇口から水を流す音を立てたかと思ったら再び僕の前に現れ、濡れた汚い雑巾を投げ付けてきた。べちゃっ、という不愉快な音が僕の耳を間近で殴りつける。

 それも避けずにわざと顔面に受けると、水がまとわりつく不快感が体を駆け巡った。

「早く掃除しろ! 剛史つよしが来る前に!」

「……わかった」

 言われたとおりに掃除を始める。まずは掃除機からかけるので雑巾の出番はもっと後だが、それは単に母が僕に濡れた雑巾を投げつけたかったから、という理由に他ならない。

 掃除の途中でいくら殴られようと蹴られようと、文句ひとつ言わず従順に働く僕を、その濁った小さな瞳で見て母は何を思うのだろう。

 もう、僕の大好きな母ではなくなった彼女は。



 一時間かけて掃除を済ませた僕は、これ以上母親が何か言う前に、僕にとっての招かれざる人間が来る前に退散することにした。

 本来帰る場所であるはずの、自分の家から逃げて。

 行き着く先は、いつもの場所だった。



「お前、またかよ」

「ああ、いつものことだ」

 そこは親友の家。

 僕は小学生以来の腐れ縁とも言える男の家、男の部屋に厄介になっていた。

 ここで夜を過ごし、自宅で騒いでいるだろう奴らが寝静まってから僕は帰宅し、朝はあの二人が目を覚ます前に学校へ行く。

 あの男が家にやってきたときは、いつもそうやって災いを避けてきた。

「血は出てねえみたいだな……で、今日はどっちにやられたんだ」

「母親」

「かーっ、ったく情けねえな」

 こいつは――僕の親友は、名を高城秀明たかぎひであきという。

 先述のように小学校時代からの腐れ縁で、高校では僕の隣のクラスに在籍している。陸上一筋の男で陸上部部長でもある。

 背はかなり高いほうだが、僕と同じくらい。短く切った髪は爽やかさも演出している。結構顔も悪くはなく、それでいて気さくで彼女持ちだ。

 だがそんな爽やか野郎でも、情けないというセリフは僕の心に不快感を与えた。

「言っておくが、僕は自分の意志で無抵抗を貫いているだけだ」

「お前、それ毎回言ってるからな」

 高城は僕の弁明に、呆れたように溜息で応じた。

「んなこと、いちいち言われなくても俺なら知ってるよ。中学時代、この俺とタイマンで引き分けたお前だからな。俺に勝てる奴はいなくても、引き分けた奴はお前しかいねえ。いやーしかし、あれは歴史に残る名勝負だったよな」

「お前、中学時代に喧嘩したの、僕との一戦だけだろう」

「うるせえよ! 嘘は言ってねえだろ!」

 確かに嘘は言っていないが。

「ホントは俺、すげえ強いんだぞ。夜のこの街を仕切ってる気分になったことだってあるくらいなんだからな。でもな、能ある鷹は爪を隠すっていうかだな」

「教師に目をつけられて推薦が取れなくなったら、普通に勉強してもどこも受からないからな」

「そうそう、俺には陸上しか……ってうるせえな! 余計なお世話だ!」

 ノリツッコミを存分にかました高城は、自室の床に座りなおして今度は一変真面目な顔になる。

「いつも思うんだがよ、上杉うえすぎ、お前は俺と引き分けるほど喧嘩は強いし背も高いし、おまけにすっげえ目つき悪いし、ちょっと抵抗すりゃあいつらもおとなしくなるんじゃねえの?」

「嫌だ」

 短く否定すると、高城は怪訝そうな顔になる。

「暴力は大嫌いだ。暴力に暴力で抵抗したら、その時点で僕はあいつらと同じになる。……それが嫌だ」

「意地だな」

「意地だ」

 二人、しばらくの無言の後に高城が長く息をつく。

「そんな意地、張ってても意味無いと思うんだけどな。結局その意地を張り続けて、上杉、お前は何回殴られた? 何年それが続いてる?」

「…………」

「おいおい、無言になるなよ。悪かったよ。俺は何もお前を落ち込ませようと言ってるわけじゃねえんだからだよ」

 その目つきで睨むなよ、怖いから、と小さな声で付け加える高城。僕は答える代わりに黙って膝を崩した。

「しっかし、あれだな」

 するとこいつは声のトーンを変え、またしても僕に問いかけるように言う。

「いま俺の目の前にいる人間。それが上杉、お前じゃなくて奈緒だったら、俺はどんなにか幸せだと思う?」

「僕で悪かったな」

 奈緒、とはこの高城の彼女だ。山口奈緒やまぐちなおという。

 ちなみに山口は僕と同じクラスで、高城との縁で僕とも一応友人と言える――向こうが言っているだけだが。

 あの少女は高城と同じ陸上部に在籍していて、一年生の秋頃から交際を始めて今も交際中のはずだが、妙に思って僕は聞いていた。

「結構付きあっておいて、山口さんはお前の家に来たことはないのか」

「来るのはお前だけだよ」

 即答だった。

「何度も勇気出して誘ってみるんだけどよ、これが全然な……俺も恋愛上級者なんだが、これはやっぱうまくいかねえな」

 高城は炭酸飲料の入った大きなペットボトルのふたを開けると、こぽこぽと自分のグラスに注いでいった。

 何が恋愛上級者だ、その家に来ない山口が人生初の彼女のくせにとも思ったが、ここは我慢して僕は自分の推測を述べる。

「おおかた、どこどこへ行こうよ、のような言葉ではぐらかされるんだろう」

 高城が固まった。

 どうやら的中らしい。ややあって、絞り出すように言う。

「な、なんでわかんだよ……!」

「それは、お前のことを信用していなくて家に行きたくないんだ」

「行きたくないとも言ってねえよ! じゃあどうすんだよ! 絶望しかねえじゃねえか!」

 僕に訊かれても困るのだが、適当に返してやる。

「信用されていたら、向こうから家に行っていいかと聞いてくると思う。そういう、信用できる男というのを見せてみればいいんじゃないか。一度だけでなく、何度も繰り返せば効果も高いだろう」

「で、それはどうすんだよ」

「そこからは自分で考えろ。どうして彼女のいない僕が彼女持ちのお前に助言しているんだ。バカらしい」

 僕は呆れ、自分のグラスに飲み物を注ぐ。

 ペットボトルの中身も、残り三分の一程度にまで減ってきていた。

「……なあ、上杉」

 高城も、僕の後に同じことをしながら僕に聞いてきた。

「今ので思い出したんだけどよ、お前こそ彼女作らなくていいのか」

「なんだ、だしぬけに」

 急にそんなことを訊かれ、戸惑う。

「お前は今でこそそんな性格だけどよ、それでもまだ多少希望は残ってるじゃねえか。運動は俺には及ばないができるし、背も俺と同じくらい高いし、顔は俺より……まあ劣るけど、すげえ甘く見れば普通だな。その難儀な性格を除けば、まあ、悪くはねえんじゃねえの?」

「……だからなんだ」

「ちょっと頑張れば彼女なんてすぐ作れそうなお前が、なんで高校生活も折り返しに入って、ずっと一人でいんだよって、今改めて思ったんだよ」

「…………」

 そんな話をしないでほしかった。

 高校に入って何度か、付き合ってくれと言われたことはあった。

 しかし――。

「声がかかっても、それを断ったからに決まっているだろう」

 つまりはそういうこと。

 先ほどの高城への答えでもあった。

「勿体ねえ奴だ」

「勿体あるなしは、僕が決める。それに、お前だって知っているはずだ。僕が人を愛していい資格なんて、そんなもの……ないんだ」

「……相変わらずの意地っ張りだな、おい」

 そうだ。

 僕は人を好きになってはいけない。

 恋愛なんてしてはならない。

 ずっと一人で、死ぬまで一人でいなければならない。

 そう決めているのだから。

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