神崎開耶-3

 結局無理やり保健室に連れて行かれた。養護教諭によれば、見た目に反して軽い怪我ということらしい。

 先の調理実習は今日最後の授業ということもあり、僕の鞄をわざわざ持ってきた高城が部活を休んで送っていこうと言ったがそれは断り、消毒してもらい、包帯も巻いてもらい、教室に戻らず一人で直接帰路につく。

 家に帰ると、母親は僕に台所を片付ける事と、風呂とトイレの掃除を命じた。包帯を巻いた僕の右手のことなど、まるで気にもかけない。

 きっと、今晩来る恋人のことに気が向いており、どうでもいいのだろう。

 別にこの母親に、気にかけてもらいたくはなかった。

 けれど、やはり何か寂しかった。

 そんな気持ちも隠し、僕は黙々と命令をこなす。



 その後、いつものように高城の部屋でダラダラと過ごす。

 今日の僕は部屋の隅にあった男性向けファッション雑誌を意味もなくぼんやり眺めていた。奴は恋愛上級者を自称しているせいか、こういうものをよく読むらしい。

 ちなみに部屋の主の男はというと、先ほどからずっと机に向かって「あーあ、俺の完璧料理計画が……」とか「ちくしょー、奈緒をどうやって振り向かせっかな……」などとぶつぶつ呟きながらため息をついている。よほど調理実習の結果が悲惨だったことを気にしているらしい。

 しかし金のかかる服ばかりだ。もっとこう、リーズナブルな服をいかに着こなすか、のような指南は書いていないものか。もっともファッション雑誌というものは服の宣伝も兼ねているようなものだから、どうしても高い服ばかりが紙面に載るわけだが。

 そんなことを考えながら床に座って雑誌をペラペラめくっていると、一人でクダを巻いていた高城はふと僕に話しかけてきた。

「そういやお前、調理実習の後で事故ったとき、あいつのことを不自然なほど見てたよな。もしかして、惚れたか?」

 あいつとは、昼に僕にぶつかって怪我を負わせた女の子のことだろう。何を言い出すかと思えばそんなことか。

「そんな、バカな」

 すぐに否定した。あんな出来事の後で、惚れるも何もあったものではない。

「にしちゃ、お前、ずっと見てたじゃねえか」

「いや、それは……」

 言葉に詰まった。

 ただ、こんな子いたかな、と思って考えていただけなのだが。

 僕がうまい言い訳を考えていると、高城は言う。

「やめといたほうがいいんじゃねえのか?」

「……何をだ?」

「狙うにしても、お前はその気になりゃ、まあなんとか女を引っ掛けられるだろ。あいつ、神崎ってんだけど、なにもあんな女じゃなくたっていいんじゃねえか? あいつ、地味だしちょっと暗いんだよな。俺も話したこと一回あるかないかだわ」

「狙うも何も、初めから彼女なんて作る気はない。そもそも、どうしてそんなことばかり言うんだ。今日に限らず、しょっちゅう」

「そりゃお前、男は女と、女は男と付き合えば、こう、変わるからだよ」

 思い当たる節はある。

 それは、僕のいちばん身近に。

 男を連れ込み、変わった母。

「……なるほど、合点がいった」

「いや待て待て!」

 高城も僕の考えていたことを読んだのだろう、僕が脳内で拡げるイメージをかき消すように制止の声を上げた。

「なんつうか……お前は恋愛の負の面だけしか見てねえから、そういうのに消極的なんだな。俺も恋愛上級者だから分かるんだけどよ、自分に合った彼女作ると、マジで人生だって変わるんだぜ? いい方向によ」

 高城の言うことが不快だ。だいたい、付き合った人数が今の山口で一人目でありながら、どうしてこうも恋愛上級者と自称するのだろうか。

 それはいいとしても、恋愛方面の話は僕が一番嫌なものだ。だから、ついむきになって言い返した。

「つまり、僕の母は自分に合った男を見つけたから、ああも変わったというわけか。なるほど母にとっては良いことかもしれない、けれど、僕はどうなった? お前の部屋にこうしてみっともなく半ば寄生する、それはいい方向か?」

「いや、そうじゃなくて……ほんと、お前は分かんねえ奴だな……」

 徐々に僕の中での冷静さが失われていく。それを分かっていながらも、口は止まらない。

「要は、僕はピエロか? あいつらが幸せになるほど僕は嫌な思いをし、僕が将来、必死に働いて金を稼ぎ、その金であいつらは、幸せに酒や博打に興じるわけだものな」

「あーもう、わかったよ!」

 高城は、大きな空のペットボトルで軽く僕の頭を殴った。ばこんと大きな音がしたが、別に痛くはない。

「別にお前が作りたくねえってんならいいんだよ。俺も不毛な言い合いは好きじゃねえし」

「そう、か……」

 話をそこで打ち切り、あとは無言で漫画や雑誌を読んだりして時間を潰し、頃合いを見計らって僕は帰宅した。



 何日かが過ぎ週が明けた。

 傷の痕は残っているが、僕は包帯を取って家を出た。

 駅から学校へ向かう途中、見慣れた顔を見つける。向こうも気づいて、僕に近づいて声を掛けてきた。

「お、包帯ねーじゃん。すっかり治ったか」

「治りきってはいない。邪魔なだけだ」

 高城は、開口一番僕の怪我のことを聞いていた。

「お前には、少し心配させてしまったか」

「なことねえよ。手を怪我したのって大変なことだし、何より俺とお前の仲だろ」

 気持ちの悪いことを言い出した。

 しかし、高城がこういうふうに仮にも友人である僕のことを気に掛けてくれていることは分かって、少しだけ嬉しかった。

 面倒見の良い奴で、こいつの存在が有難いと思ったことは、小学校のころから幾度もある。なんだかんだで山口との交際が続いているのも、こいつの人柄からくるものなのかもしれない。

 そのまま一緒に歩き、三組の教室の前で別れ、僕は教室に入った。誰も怪我のことは聞いてこなかった。

 怪我をした当日と翌日は、鬱陶しいくらいだったのに。

(七十五日どころか、今では五日も持たないものだな)

 そう思った。

 別に、注目してもらいたいわけではない。

 僕のしたことを逐一覚えている、そんな奴はいないほうがいい。

 なのに、そう思っていたのに、まだ覚えている奴がロッカーの中にいた。

 僕が教科書を取り出そうとロッカーを開けると、入れたはずも見覚えもない便箋がひとつ、確かに教科書と教科書の間に挟まって、取って下さいとばかりに上から突き出ている。

「手紙……?」

 いったい誰が何のために。

 気になることはあるが、とりあえず封を切り、読み下した。



 突然のお手紙をお許しください。

 先日は大変失礼いたしました。

 貴方にお詫びしたいと存じます。

 お暇な時で構いません、放課後に西階段の屋上へ出る扉の前にいらして頂けないでしょうか。

 今日からそこであなたをお待ちしております。

 九月十一日



「…………名前が書いていない……」

 差出人不明の手紙には、奇麗な楷書でこう書いてあった。日付は今日のものだ。

 手紙の裏側や封筒を隅から隅まで眺めても、どこにも名前は書いていない。

 が、手紙の内容から推測すればすぐに絞られた。

「あの女の子だな……」

 地味な黒髪の女の子。

 僕にぶつかって怪我を負わせた女の子。

 ちなみに高城も普段から微妙に存在が失礼だが、この可愛らしい便箋、この優しげな字はどう見てもあのガサツな男のものではない。

 そう言えばその高城が一度だけ彼女の名字を口に出していた気がするが、どうもうまく記憶に引っかからなかったのか思い出せない。最初が「か」で始まっていた気がするが。

(駄目だ、思い出せない)

 ロッカーに顔を突っ込みながら悩んでいてもわからない。正解にたどりつく前に、いきなり後ろから声を掛けられた。

「おっはよ、上杉くん」

「うわあ!」

 あわてて振り向くと、そこにいたのは小柄な女の子。

「なんだ、山口さんか」

「そうだよあたしだよ、エリカだとでも思った?」

 山口奈緒、高城の彼女にして僕のクラスメイトだ。

 背は低くても、運動をやっている人間らしいしなやかな体つき、外側に跳ねた短い髪の毛とくりくりした瞳は元気さや活発さを連想させる。

 性格も悪くなく友達も多い人気者なのだが、情報通でおしゃべりなため敵に回すと面倒くさい。そうでなくても手紙のことを気取られたくなかった僕は、山口に手紙を見られないように素早く自分の体でそれを遮蔽した。

「なにロッカーの前で固まってんの? あ、さてはエロ本でもそこに隠して、毎朝それ見て一日の元気を補給してるとか、そういう朝のエロ本タイム? うっわー、引くよー。ドン引きだよー」

「そんなものは入っていない。高城のロッカーになら入ってるかもしれないがな」

 軽く流してやると、山口は大げさにため息をついた。

「なんだ、つまんないの。上杉くんの弱み、見つけられたら面白いのにな。上杉株が大暴落するのに。あ、ちなみに秀明のロッカーは漁ったら普通にエロ本出てきたよ」

(あいつは……)

 学校に何をしに来ているのかと、僕は頭を抱えた。それはあえて語らず、彼女の言葉の前半部分にのみ返事をする。

「こんな無価値な僕に、株も何もあったものか」

「あるんだなー、これが。きみ、黙っていればそこそこだからね。でも愛想が悪いせいで台無し、口を開けば悪態ばかりでこれまた台無しだけど」

 悪かったな無愛想で。

「恋愛ゲームの主人公じゃないんだし、仏頂面してたって誰も寄ってこないよ。もっと笑って笑って、あと周囲への気配りと小粋な会話、それができてれば多少顔が悪くても、上杉くんにだってすぐ彼女できるって。彼女できたら楽しいよー、青春だよー。ブルー……春ってなんて言うんだっけ、まあとにかく青春真っ盛りだよー」

 いい笑顔で親指立ててまで、山口は得意げに語ってくれた。先ほどは黙っていればそこそこと言いつつ、僕の顔が悪いのが前提なのか。励ましているのかバカにしているのか、どちらなのだろう。

「ずいぶんと僕に要求するんだな。もしかして高城に飽きたか」

「うーん、どうだろね。まあ正直秀明はウザいとこもあるけど、いいとこもそれなりにあるしねー」

 両手を組んで目を閉じて、山口は夢見るように自分と彼氏の馴れ初めを語りだした。

「あたしが去年の夏休みの練習中、熱疲労でばたんきゅーしたとき、秀明は一番早く介抱してくれたんだよね。それまでは同じ部活にいても、ほとんど接点なかったのに。それからなんとなく一緒にいるようになって、新人戦のとき、とんでもないミスしたあたしを顧問から庇ってくれたり、文化祭でも出し物の準備を、自分のクラスそっちのけで手伝ってくれたり……気づいたら、そんな秀明を好きになってて、その気持ちは今でも変わんないんだ」

「そうか」

 これまでに何度も聞かされたことで、僕にしてみれば単純に鬱陶しいだけだ。放っておくとエンドレスで聞かされそうなので僕は戻ろうとしたが、そんな僕を山口は呼びとめた。

「ところで、手紙にはなんて書いてあったの?」

「……なぜばれた」



 放課後になると、僕は空の鞄を抱え教室を出る。

 階段を一段抜かしで上がり、あの女の子の手紙で指定された場所、屋上へ続く扉の前に辿り着いた。

(どうやら、まだ来ていないようだな)

 その狭い場所に着いたとき、僕以外には誰もいなかった。

 壁にもたれかかり、長い息をひとつだけ吐く。

(なぜ僕は、こうも律儀に来ているのだろう)

 別に、来なくてもよかった。

 そういえば、と思いだす。

 僕は過去に二回だけ、ここで交際の申し込みを受けていた。僕に限らず、ここは校内でのそういう場所らしい。この学校は街中にある狭いそれだから、伝説の木のような仰々しいものは置けないのだ。

 が、そういう申し入れを僕が受け入れることはなかった。

 嬉しくもなんともなかった。不愉快になるだけだった。その頃すでに母親とその恋人による汚い恋愛模様を見たくもないのに目の当たりにしてしまった僕は、恋愛沙汰そのものにすっかり幻滅していたのだ。

 一人目は去年の今頃で、高城と付き合う前の山口だった。僕が断ってしばらくしたら、あいつは高城とくっついた。その上で、僕とは友達でいようなんて言ってきた。それまで断ると色々と大変そうだし、高城にまで頼まれてしまったので仕方なくそれは呑んだ。後で知ったのだが高城は山口が僕にアプローチするにあたって裏から彼女に協力していたらしい。

 もう一人はそれから三カ月ほど過ぎた去年の冬ごろ、見た目からして軽そうなどう見ても僕とそりの合わなそうな女子に軽い口調で「つきあわなーい?」なんて言われて、脳裏に自分の母親がダブった。だから即座に断った。いや、何も言わずその場から立ち去った。

 恋愛なんて、大嫌いだ。

 人がするのは好きにやればいいと思うが、自分がそんなことをするなんて考えも及ばない。

 大好きだった母親は、恋愛したせいであんなに変わり果ててしまったのだ。

 酒を飲んで二人して僕の悪口を言い合い、その延長で引きずり出されて殴られて。

 それだけならまだいい。だが僕は彼らの恋愛がもたらす事象の中で、最もおぞましいものをこの目で見てしまったのだ。

 剛史が家に来てしばらく経った頃、僕は真夜中に母の寝室から彼ら二人の異様なうめき声がするのが聞こえ、病気か何かかと思ってそっと中を覗いた。

 そのとき僕の目に入ってきた光景は、忘れられたくても忘れられない。

 男と女というものは、あんなに汚いものなのかと思った。

 恋愛というものは、ああも浅ましくて穢らわしいものなのかと思った。

 豚の鳴き声のような下卑た嬌声、部屋に充満する異様な熱気、むせ返るような体液の臭い、汚らしく重なり合った中年の裸体。すべてが僕の聴覚、触覚、嗅覚、そして視覚に尋常でない不快感を与え、僕はその直後トイレで吐いてしまった。

 あんなもの、人間のする行為じゃない。どちらも、ただのけだものじゃないか。

 相手に媚を売り、酒を飲んで暴れ、肉欲に溺れ、勝手に幸せになって第三者のことなど眼中にも入れない。

 それが恋愛だというのか。

 だとしたら、それは僕にとってもっとも忌み嫌うものだ。それこそ、文字通り反吐へどが出るほどに。

 だから、僕は恋愛が大嫌いだ。恋愛なんてしてはならないと、固く決めている。

 あいつらと同じようになど、絶対になるものかと。

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