第24話 私にとってのカタルシス
レオナルドは死ぬ最期の日まで「モナリザ」に絵筆をいれていたそうである。それゆえに「モナリザの微笑」は立体的で魅惑的な笑みを今日も醸し出している。「自分の作品を愛さなければ、人々に愛されない」ときっと、レオナルドは言いたかったに違いないと私は勝手に思っている。
そういう私は自分の作品を大して愛していない物かきである。小説家というのもおこがましい。私にとって小説を書くということは、カタルシスにすぎないのだ。何かを書いて作ろうとは別の作用が働いている。つまり、私にとっては、何かを書いて心の中のものを吐き出して楽になろうという思いから、ペンを走らせている。創造的な行為ではなく、浄化的な行為だ。だから吐き出すと気持ちいいとばかりにどんどんペンは進む。書きたくないときは、浄化したくないときだから一切書かない。私にとって、小説を書くというのは趣味にすぎず、有名になりたいとか、お金を得たいとか、そういう次元のものではないのだ。でもそれに対していろいろ言って来るひとは確かにいる。書籍化していないものは認めないとか、それだけ私が努力したら、もっとえらくなっているとか。小説家の先生視線でものを言う人を見ていると、話し合うにも争点がはずれていて、話し合う気にもならない。
趣味でやっているのだから、書籍化もなにもないだろう。それに、手が勝手に自分の心の様を書いて、カタルシスをしているんだから、少なくとも努力はしていない。浄化して気持ちいいなあと思う程度だ。
小説家といわれるひとにはわからない人も多い。有名になりたくて、お金を得たくて、ない知恵をふりしぼって、ときにはぱくってまで書く。そんな小説家先生は、小説家という威厳を守るために無理にまで書いて大変だなあと思う。書くことが、ツールになっている。
書くことが楽しく、発想することが嬉しくなければ、なにもかも続かないような気がする。私は文章を書くために作っているのではなくて、吐き出すためにつなげている。そんな違いはわかってもらえないだろうか。
嫉妬かなにかわからないけど、いろいろなことを詐称してるだの、そんなに書いてなんになるだの、さんざん絡んできたひとが、自分のことを棚にあげて、納豆女よばわりしていることには驚いた。
「先生」ということにこだわって、もっと人目につかないろころで私は発表してろだの、うるさくて、納豆みたいな人だった。ああはなりたくない。書きたいから書く。勝手に手が文章をうつために、パソコンの上を走る、それを努力とは言わないでほしい。心の浄化だ。何度も言うようにカタルシスだ。文章がかけなくなったら、人を攻撃したり、おとしめたり、ぱくったりしないで、堂々と筆を折ればいいのだ。自意識過剰はやめたほうがいい。だれも作品を待っている人はいない。私はもちろん、自分のためだけに今日もパソコンをたたいている。
「なんのために書くのか」だ。世界はかえられないって、みんなそうだ。楽しむために書いているのなら、嫌がらせなんて初めからしてこなかっただろう。
私はちょっとずれているので、自分の中にたまりたまったものをオーバーフローしないうちに出しているだけなんだが・・・。
まずこれを書きたいって信念なのではないだろうか。どうしても伝えたいことがある。どうしてもこれだけは言いたい。そういう思いを書くことが、大切なのではないだろうか。
レオナルドが最期までモナリザに絵筆を入れていたように、これだけは残したい、その思いひとつだと思う。
(お題:絵描きのセリフ 制限時間:30分 文字数:1472字 )
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