第8話 彼女は彼らと対峙する

 足をもつれさせ、転がりそうになりながらも、もう姿が見えなくなってしまった少年を恋は必死で追いかける。


(あの曲がり角……あそこを右だったはず!)


 心臓がばくばくと音を立てる。こんなに必死で走ったことは生まれて初めてだ。でも、それ以上に、嫌な予感が胸を締め付けた。

 UGNからの報告とかで、父がこんな話を母としていたのを聞いたのだ。最近、巷をジャームが連続で人を殺めていると。そいつは、人の頭を、脳味噌を食うという……最悪に悪趣味な化け物だと。


(桃ちゃん、妙子ちゃん、無事でいて──!)


 右の角を抜ける。広がったその光景は──


 血のように染まった夕闇が、全てを赤く染め上げている。先ほどの少年が目の前に立ち、前方を睨んでいた。

 倒れているのは、二人。桃と妙子だ。桃はコンクリートの地面に、妙子は壁に寄りかかって倒れている。二人とも、頭から血を流し、失神しているようだった。

 そして。


(何──からだが──)


 ドクン。


 急に、恋の小さな体が熱くなる。全身に血が巡るのを感じる。視界が濁る。


 少年の目の前には、


(あれが、『ジャーム』……!?)


 白くぬめっとした体。それでいて、大きなトカゲのような形。

 両手両足はあるものの、歪でグロテスクだ。酷い臭気に胃液が込み上げてくる。その臭気には──鉄の臭いが混じっていて。

 その手のようなものの先にあるのは、知らない大人の男の体。ぐったりとして、されるがままになっている。そのトカゲのようなジャームは大きく顎を開けたかと思うと──


 ぐちゅっ。


 頭の上半分だけ噛り付いて、そのまま食べたのだ。脳味噌を。


「うっ……うぇぇぇっ」


 堪らず、恋は胃の中のものを地面に吐瀉する。

 頭が混乱して、思考がまとまらない────


 不意に、化け物の赤い双眸が、ギョロリとこちらを向いた気がした。


 ドクン──ドクン──


 心臓が早鐘を打つように、恋の体を支配していく。止まらない。気持ちが悪い。

 頭が、頭が締め付けられるように痛い!!


「早乙女、なぜここにッ……来るなと言ったはずだ!! 訓練も受けていないお前がレネゲイドウィルスの衝動に勝てるわけが──」


 何か喚いている少年の声が、遠くから聞こえている。恋の体に、頭に、とてつもない破壊衝動が押し寄せてくる!! が──


(──負けないもん!!)


 キッ、と前方を見据え、涙をこらえながら、恋はなんとか衝動を耐え切った。


「なん……だと?」


 訓練を受けていない少女にしては、あまりにも早く衝動に耐え切ったことに、少年はいささか動揺を隠せない様子だった。

 こういったジャームと相対する場合、大体は相手のレネゲイドウィルスに影響されての様々な殺戮や破壊などの衝動が訪れる。そうならないよう、レネゲイドウィルスを理性的にコントロールする力であるRCレネゲイドコントロールがきちんと出来なければ、UGNで訓練された兵士でも扱いが難しいはずなのだが……


 そのジャームは、ぐるるぅ、とひと鳴きすると、こちらに近づいてくる。すると、少年はふっと笑って、


「ふん……嗤っているのか。面白い。『紅蓮の疾風ソニック・インフェルノ』、推して参る!!」


 その瞬間──


 ヴン、という鈍い音がして、彼の姿が消えた──次の瞬間には、化け物の背後に回り込んでいた。いつの間にか、右腕には燃え盛る炎の剣が握られている。超高速・音波を操る能力ハヌマーンと、炎熱・凍結を操る能力サラマンダーを併せ持つオーヴァードの力だ!


「ハァァァッ!!」


 そこから、超高速で打ち出される炎の剣。剣というより、ここまで酷いと既に連射される銃弾に近い。無数の炎の塊を身に受けて、ジャームが一瞬怯む。肉の焦げる嫌な臭いがした。痛みに激昂し、化け物の右腕が少年を捉えるも──その姿が、ふっと消えて。

 いつの間にか、その背後に回り込んだ少年は、つぶやく。


「残念だったな。それは残像だ──」


 そのまま、思いっきり腹を剣で切り裂く。グギャッ!! と肉が軋む音がして、壁に激突するジャーム。


 (すごい……!!)


 生まれて初めて見る壮絶な戦いに、呆然となる恋。しかしハッと我に返り、友人たちの元に駆け付ける。二人とも血を流してはいるが、胸は弱々しく上下に動いていた。ほっと安堵する。


(このままじゃ、桃ちゃんも妙子ちゃんも危ない。私が、私ができることは……)


 桃と妙子をなんとか道路の端まで引きずり、二人を壁に寄りかからせ、出来るだけ遠くに座らせる。でも、まだ危ないだろう。咄嗟に、二人の制服の上着を脱がせ、自分の上着も脱いで、三人分の上着を二人の上にかける。


「どうか神様、気付かれませんように──『テクスチャーチェンジ』!」


 瞬間、三人分の上着の見た目は壁と同質化した。傍目には二人の姿が消えたように見えるはずだ。見せかけだけ騙すモルフェウスの能力だが、時間稼ぎにはなるだろう。ただ、あの上着の見た目は、もう戻せないが──


(あの人が何とかしてくれたら、二人の上着は私の力で作らなくっちゃ)


 そう思って、振り向いた瞬間。


「うわあああぁぁぁぁっ!!」


 悲鳴が聞こえて、少年が吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。信じられなかった。さっきまで、一方的にやっつけていたのに──!?


「だ、大丈夫!? 君っ……!!」

「う──かはっ。ば、馬鹿……にげ、ろ」


 駆け寄ろうとした恋だったが──目の前のジャームが、ぎらりとした眼をこちらに向けた。湿気の含んだ吐息とともに、口の端を上げて笑う。


「なんなのよぅ、あなた……噂の『じゃーむ』なの!?」


 泣きそうになりながら、恋はヤケクソ気味に叫ぶ。対する奴は、歪んだ声帯を震わせて、嬉しそうに喋った。


『喰わせろ…お前の…脳みそを喰わせろ…』

「ジョーダンじゃないわようッ!?」


 ちまたの連続殺人の犯人。頭を割っては脳みそを喰らい尽くしてるよくわからない猟奇殺人の犯人。そんなことはわかりきっている──

 わかりきっているから、恋は叫んだ。


「私、戦えないモルフェウスなんだってばッ!?」


 しかし、奴は止まらない。嬉しそうに笑いながら、


『ひひひぃ…喰わせろ…喰わせ…ろろろおおおおお』


 恋の叫びと同時に、ジャームが動く。


「うっ、ひっ、ひいぃぃぃっ!!!」


 恐怖と混乱が綯い交ぜになったまま、闇雲に恋の足裏からモルフェウスの力が伝達される!


「ばっ──『万能器具』ッ!!」


 コンクリートの地面から、路地幅いっぱいに無数に生え出すのは、家の玄関のドアと壁だ。恋の精一杯の盾であったが──


 ゴギャッ!!


 無情にも、化け物の渾身の一振りで、豆腐のように壊されてしまう。


(こんなんじゃダメだ、あんな化け物の力に対抗できないよ!)


 絶望。死の予感。走馬灯のように、父と母の笑顔が脳裏に流れては消える。ゆっくりと近付いてくる化け物との距離は、もう2メートルも無い。


(やだ……殺される──!!)


 そう思った刹那、


「カアアァァァァァッ!!!」


 聞き慣れた一つの鳴き声が、そして大きな黒い塊が、視界いっぱいに現れた。次の瞬間、


 バキィッ!!


 見えない壁に弾き返されるように、ジャームが吹っ飛ばされる。

 黒い塊はふんわりと地面に降り立ち、黒い嘴をつんと上に上げた。


「騒がしいと思って来てみれば──『斥力障壁』の味はいかがかな、若いの」

「神威……!!」


 これほどこの黒い鳥を頼もしいと思ったことはない。神威は器用に恋にウインクすると、倒れている少年を叱咤する。


「お前もお前じゃ、京介きょうすけ! お前が付いていながら、なんたる失態。自らの力に自惚れおって、恥を知るが良い!!」

「面目、ありません……神威……様」

「説教はあとでみっちりとしてやるわい。まずは、こやつを何とかせねばなるまいて」


 二人は面識があるらしく、あんなに偉そうだった京介と呼ばれた少年は、がくりと頭を垂れる。どうやら気絶したらしい。

 神威は嘆息すると、突然、今まで見たこともないような殺気を繰り出した。空気がビリビリと震えるようだ。あのジャームが、その強大な殺気に気圧されたのか、少し後ずさりしている程である。


「さて、小僧。儂の可愛い友人と弟子をこのような目に合わせた罪──そう簡単には赦すまいぞ。年老いても、この『闇を齎す者ダーク・ブリンガー』。まだまだ若いもんには負けん」


 ズズズ……


 地面からずっしりとした黒球がいくつも浮かび上がり、神威の周りに集まってくる。恋もまだ見たことがなかった、重力を操るバロール能力。


「そちらから来ないならば、こちらから行くぞ──」


 ふぅっ、と神威の周囲から一陣の風が吹く。


「──『黒の鉄槌』」


 重力の力場が次々とジャームに襲いかかる──が、ジャームの体に届きかけたその時、


 バサァッ


 いくつもの黒球が一瞬で砂に変わり、粉々に砕け散った。そして──砂煙にかき消されるように、化け物の姿も搔き消える。


「チッ──領域を操るオルクス能力と万物を作り変えるモルフェウス能力の三つ手か。厄介な」

「ば、化け物が消えちゃった……!!」

「消えたのではない、恐らくは領域の力で逃げたのじゃ。しかし、もう追うことは不可能じゃろう」


 化け物がいなくなった──


 それをじっくりと時間をかけて認識して、へなへなと地面に座り込む恋。呆然としている彼女に、神威は優しく語りかける。


「よう気張ったな、恋よ。元々お前はこちらの世界の者ではないというに……巻き込む形となってしまって、申し訳なかった。許せ」

「う…うびえ…びええええええ」

「うむうむ。泣くが良い、泣くが良い。よくよく気張った」


 黒い翼で恋の頭を抱き寄せる神威。それにしがみつくように、恋は泣き続ける。


「怖かったよお…怖かったよおおおぉ……!!」

「うむ。しかし恋、いやちょっとその、鼻水を儂の翼で拭くのは止めてくれるかの? あの恋、ちょっとその、ちゃんと聞いとる?」

「びえぇぇー!!」


 倒れている少年。倒れている少女たち。転がっている、頭が半分無くなった死体。

 色々と問題は山積みだが──

 超天才のこの鴉は、事態の収拾に頭をフル回転するのだった。


(いやはや。忙しくなりそうだわい)


* * *


「なるほど──そういうことですか」


 現場近くの監視カメラをブラッグドックの力でジャックして、一部始終を眺めつつ。星霜は、興味深そうに茶をすする。

 ここは、神楽町の街中にある小さなカフェだ。珈琲より緑茶は無いかと聞いてみた所、快くメニューには無い緑茶を出してくれたから、星霜の中でこの店は良い店ということになった。また来よう。


「シンドロームはキュマイラ、モルフェウス、オルクス……近接戦闘系でありながら、結界領域による防御も完璧とは……なかなか面白い」


 昔から使っている手帳に殴り書きでメモしつつ、星霜は頷く。まだこのジャームの個人特定はなされていないが──あの、小柄な少女に対するジャームのアプローチが、少々他とは異なっていたことに注目する。


「ふむ。早乙女恋、か……近付いてみる価値はありそうですね」


 丸眼鏡の中央をくいっと中指で押し上げ、彼はにたりと笑う。

 夕闇はいつしか夜の帳に押し流され、一番星が小さく輝き始めていた。

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