第5話

俺の生活が少しだけ変わったその頃のある日。俺はどうしても終わらない仕事があって、休日出勤をした。なんとかその日だけで終わらせようと頑張った結果、夜9時過ぎに予定していた仕事が終わった。

で、けっこう疲れて会社を出たんだ。帰りの電車は休日の夜だけあって、空いていた。俺がシートに座って携帯電話をいじっていると、車内に怒声が響いた。

声が聞こえて来た方を見ると、同じ車両の端の3人掛けの席に座った中年の男が、隣を向いて何か吠えていた。かなり酔っているようだった。よく見ると、酔っ払いのおやじの向こうに女の子が座っていた。女の子は俯いて、体を縮めている。酔っ払いに絡まれて怯えているのかも知れない。

俺は特に深く考えることも無く立ち上がると、酔っ払いに向かって歩き出した。そして酔っ払いの正面に立って、その中年おやじを見下ろした。

俺に気付いた酔っ払いが俺を見上げて何かわめいたが、何を言っているのかよくわからない。

「あんた、みっともないからやめなさい。」

俺が酔っ払いにそう声を掛けると、酔っ払いは俺の足をがんがん蹴りながら、また何かわめいた。俺の頭の中で何かが切れた。

俺は酔っ払いの髪の毛を右手でがしっと掴むと、思い切り持ち上げた。メタボ体系の酔っ払いの体重は、おそらく70キロ程度だったろう。俺が力いっぱい引き上げると、酔っ払いの体が浮くのがわかった。俺の手の中で髪の毛の束がぶちぶちと音を立てた。

酔っ払いが俺の両腕を掴んで何か言った。どうやら離せと言ったらしい。俺は酔っ払いの頭を電車の窓に向けて放り出した。酔っ払いの後頭部が窓にぶつかり、大きな音を立てた。酔っ払いの目が俺を見上げる。その目に怯えの色が浮かんでいた。俺の体格にようやく気が付いたようだった。

酔っ払いは立ち上がると、俺の横をすり抜けて車両の反対側によたよたと歩いて行った。

今考えると、あの中年男もいろいろとストレスが溜まっていたんだろう。もう少し穏やかなやり方があったかも知れないと、今さらながら反省している。

俺は酔っ払いが座っていた席に腰を下ろすと、俯いて縮こまっている女の子に話しかけた。

「もう大丈夫だよ。」

女の子が顔を上げて俺を見た。俺は息を飲んだ。

カナだった。

「カナ・・・」

俺が呟くと、カナは首を軽く傾けて、俺に向かって頭を下げた。そして、携帯電話を取り出すと、文字を入力し始めた。カナの文字入力はすごいスピードだった。カナはすぐに携帯電話の液晶画面を俺に向けて見せた。


  助けていただいてありがとうございます。


液晶画面にはそう入力されていた。俺は改めてカナをじっくりと見た。カナも俺から目をそらさない。

カナじゃなかった。

よく似ていたけれど、カナじゃなかった。

俺は安心すると同時にがっかりした。

やっぱりカナはもういないんだ。

改めて、その思いが心に沁みこんで来る。

その一方で、俺はそのカナによく似た女の子が気になった。女の子はまた携帯電話に文字を入力している。

電車が駅に停車した。女の子は俺に携帯電話の画面を向けた。俺は画面の文字を読んだ。


  わたしはこの駅で降ります。

  本当にありがとうございました。


「大丈夫? もう夜遅いから、家のそばまで送って行くよ。」

俺は無意識にそう言っていた。言ってから、自分で「えっ? 俺、なに言ってんの?」って思った。

女の子が笑いながら、両手を前に出した。結構ですと言っているようだった。その笑顔は、本当にカナにそっくりだった。

その時、車両の反対側で怒声が響いた。俺が声の方を見ると、さっきの酔っ払いがドアの前でわめいていた。俺の視線を追った女の子がそれを見る。電車が完全に停まりドアが開くと、酔っ払いが降りるのが見えた。女の子の笑顔がこわばるのがわかった。

俺は女の子の手首を持って女の子を立たせると、引っ張って電車から降ろした。

「大丈夫。俺が送っていくよ。」

俺がそう言うと、女の子はこくりと首を縦に振った。

女の子の身長は、カナよりもほんの少しだけ大きかった。と言っても、せいぜい1センチかそこら大きいだけだろう。

歩きながら、俺は女の子を安心させようと、名刺を渡してから、いろいろなことを一人で喋った。高校・大学でラグビーをやっていたこと、今はサラリーマンをやっていること、両親は遠くに住んでいることとかだ。

その女の子は、俺が話すときはじっと俺の顔を見るんだ。なんだか照れてしまう。でも、自分では全然口を開かない。しばらく歩くと、女の子はまた携帯電話に文字を打ち始めた。場所は住宅街だった。もう酔っ払いの声も聞こえなくなった頃、女の子は俺に携帯電話の画面を見せた。


  家はすぐそこなので、ここで結構です。

  今日は本当にありがとうございました。


画面にはそう打ち込まれていた。

俺はもう少し一緒に歩きたかったが、ここで変なことを言えば、あの酔っ払いと変わらなくなっちまうな、って思った。

「そう。それじゃ、気を付けて。」

と言って、俺は女の子に背を向けて来た道を引き返し始めた。見送っていたら、跡を付けられるんじゃないかとか、家を探られるんじゃないかとか、思われるのがいやだったんだ。

でも、もう一回だけ、あの子の笑顔が見たかったな、って思って、10メートルくらい歩いたところでつい振り返ってしまった。そしたら、女の子はまださっきの場所に立っていた。

振り返った俺と目が合うと、にっこり笑って俺に手を振り、俺が見ている前でくるりと体の向きを変えて、すぐそばの家に入って行った。

本当に家はすぐそばだったんだ、って思った。遠目に、女の子が入って行った家の表札の文字が見えた。『雪下』と書いてあった。珍しい名前だなって思った。

本当のあの子の笑顔はカナにそっくりだった。でも、あの子はついに俺に一言も口をきかなかった。

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