第3話
それから、しばらく会社を休んだ。上司も理解してくれて、しばらく休んで良いと言ってくれた。だけど、必ずまた出社すると約束してくれ、でないと仕事が回らん、とも付け加えた。
アパートの2DKの部屋に一人でいても、やたらとカナのことを想い出すだけで、ひたすら悲しくて淋しいので、俺はまもなく仕事に復帰した。
会社ではできるだけ普通に振る舞っていたけど、職場のみんなは俺に気を遣ってくれているのがわかった。
家に帰っても一人。食事をしても一人。テレビを見ても一人。風呂から上がっても一人。朝、目覚めても一人。
淋しかった。カナはもういないんだ、ということをいやというほど思い知らされた。
日常のふとしたことでカナを想い出してばかりいた。例えば、食器棚の中で二つ並んだコーヒーカップとか、洗面台の歯ブラシとか。カナが使っていた物を見るたびに、それを使っていたカナを思い出して、二人のなんでもない会話とか、どうしても想い出しちゃうんだ。ほら、なにかの歌の歌詞じゃないけど、ホントになんでもないようなことが幸せだったんだなって、まさしくその通りなんだよ。そのときは全然意識してなかったけど、後から想うと、ホントにあの頃は幸せだったんだな、って想うんだ。
そんな生活をしているうちに、俺は精神的に参ってしまっていたんだろうな。なんだか、生きているのがいやになっていた。
この頃、通勤で電車に乗るためにホームで電車を待っているとき、列の一番前に立つのが怖かった。電車がホームに入って来るとき、無意識のうちに電車に飛び込んでしまうんじゃないか、っていう気がしていた。だから、列の先頭には立たずに、わざと2番目に立つようにしていた。
ある日、仕事で残業をして、結構遅い時間に帰ったんだ。俺はある大きな駅で地下鉄から私鉄に乗り換えるんだ。その駅は私鉄のターミナル駅なので、電車はそのホームに入線して乗客を降ろしたあと、今度は反対向きに出発するんだ。で、俺が降りる駅の改札は駅の前の方にあるので、俺はいつも先頭車両が停まるホームの一番端に並ぶんだ。だから、ホームの一番端に立っていると、入線して来る電車はまだ結構スピードが出ている。
その日、その駅で電車を待つとき、いつもなら誰かが先頭に並ぶのを待ってその後ろに立つようにしていたんだけど、たまたまその日は残業して疲れていたんだろうな、列の先頭に立ってしまったんだ。
これからアパートに帰って、一人で晩飯を食って、自分で風呂を沸かして入って、適当にテレビでも見て、寝て、明日の朝一人で目覚めるんだ、って思ったらなんだか家に帰るのがいやになっちまったんだ。
もういいや、って思った。こんな生活、終わりにしよう、って。
そして、電車が入線して来るのが見えた。電車の強烈なライトがぐんぐん近づいて来る。けっこうスピードが出ていた。
近づいて来る電車のライトを見ているうちに、俺はそれに引き寄せられるような感覚に捉われた。
そして、衝動的って言うのかな、俺はふらふらと左足を一歩前に出してしまった。そのままの勢いで右足を出そうとしたとき、いきなり腹に圧力がかかった。誰かが俺のベルトを掴んで、ぐっと俺を引き止めたんだ。
俺は後ろを振り返った。
カナだった。
カナが俺のベルトを両手で掴んで、顔を真っ赤にして両足を踏ん張っていた。体重が倍以上ある俺を、カナがあの小さな体で、必死で引き留めていたんだ。
俺は声も出なくて、あっけにとられて体の重心をカナに向けた。とたんに、カナはつっかえ棒を外されたみたいになって、ベルトから手を放すとそのまま、とっとっと、っていう感じで後ろに下がって雑踏の中に混ざってしまった。
俺は慌てて人ごみを透かしてみたけれど、もうカナの姿はどこにも無かった。俺は茫然と周囲を見回した。頭が完全に混乱していた。
結局その日はそのままアパートに帰った。でも、もう死にたいという気持ちはどこかに吹っ飛んでいた。
衝動的に電車に飛び込みそうになった俺を、カナが引き留めてくれた。カナが死ぬなって言うんだったら、俺は生きなきゃいけない。ぼんやりとした頭で、そう思った。
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