SFと現代FT

これはおいらのSF的な世界観の拡張であって、一般論ではない。


SFベースに物事を考えるときは、今の技術や『当たり前』をまず考える。そこに科学的な拡張と、それが『当たり前』になった場合の意識の変化を考える。


空と値の狭間EXの『生体マシン薬研究局』辺りが公開済みでこの思想に則ってるかな。


"つり橋効果"というものがある。つり橋上での恐怖・緊張によるドキドキと恋愛におけるドキドキを錯覚し、恋に落ちたと思い込むことで、つり橋の上で出会った人とは恋に落ちやすい、というものだ。


これはドキドキの錯覚である。脳は『ある状態』と『ある状態』が一致した場合、同じものとして認識する。生体マシン薬は、薬で脳の状態を変えるというアイディア(ホルモンを分泌させるとか)。習慣付けることで、薬がなくても『その状態』であると認識させる(パブロフの犬のように)ことを意図したもの。麻薬に近い。


ナノマシンでプログラム可能(制御可能)であれば、麻薬のような常習性も副作用もなく処方できるのではないか。脳血管関門などの問題もあるが、ナノマシンであればクリアできると仮定する。実際にはナノマシンはそこまで万能ではないはずだが。

……このあたりがフィクションがフィクションであるあたり。


今ある技術、考え方(脳の錯覚、習慣づけ)をベースに、拡張(ナノマシンでそれを実現!)したものが話のSF部分の骨格だ。


そして、『終焉の明星』では、基本的に火葬しない。これは、『宇宙には有機資源が乏しいはず』⇒『燃やしたり、宇宙葬なんてもったいない!』という状況を想像し、とるべき手法として分解・再生を考えた。

(燃やすのはC02という還元が面倒くさい物質にしちゃうこと。宇宙葬はそのまま、その重さ分の物質のLost。溶液による分解でないのは、そのとき思いつかなかったから……)


『もし、こんな状況だったら』

『もし、この理論が実現したら』

『もし、この技術でここまで出来たら』

それがおいらのSFのベースである。


じゃぁ、現代ファンタジーはどんなものだといえるだろう。


ファンタジーは空想である。フィクションよりもっと自由で良いはずだ。

そもそもファンタジーは既存科学で扱えない要素を扱う。(森村の勝手な定義)

なので、科学的『ありそう』にこだわっては小さくまとまってしまうのではないか。


『ありそう』を全く無視することは共感性などに関わってくるだろうが、『これは説明できない』とか『どうなってるかわからない』から、やめる、というのは、科学的過ぎるだろう。


ファンタジーにもファンタジーなりの一定の『法則』は欲しい。無秩序は混沌で十分。(あ、物理のカオスには法則も秩序もあるからね!)


けれどそれは、科学とは違うロジックであっていい。呪文により科学で観測し得ない力を呼び起こすのでもいいし、謎作用で色が変わってもいい。


光が浮かんで見えるのも、『こんな(ファンタジー)要素でこうなる』だけできっといいのだ。


(色が変わるをSF的にするなら、光線の反射吸収率を変える、だったり、媒体の密度や吸収率を変えるだったり、ドップラー効果だったりするし、

ものが浮かんで見える、は、投影だったり、浮遊だったり。投影ならカメラは。浮遊なら、磁場の反発か、重力制御か。

こういう説明はSFのサイエンス部分でもしかしたらフィクション部分だ)


好きにやれ、では、投げすぎかもしれないが、ファンタジーを自覚するなら科学にとらわれる必要は全くない。

そう思う。




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