魔法って何だろう・6/7

◇情報は広まらなければもれたことにはならない。

 そういう意見もあるだろう。


 では、同じように。『気づかれない』ものが小石だったら。

 そしてその小石が『気づかれない』うちに消えていたら。


 その小石は存在したのだろうか。


 この例えは、『人』に限った話ではあるが、これが『空間』、『意識を持つもの』へ拡大したとしたらどうだろう?


◇ではもうひとつ、まったく逆のたとえ話を。


 小学校の林間学校、修学旅行といえば、よく言えば観光地、悪く言えば歴史的いわくの多い土地への旅行である。

 予算の関係もあるのだろう。近代的な真新しいホテルより、少し『雰囲気のある』旅館に集団で泊まることが多いように思う。


 ここでつき物なのが、枕野球と怪談である。

(いや、実際のところ、枕野球は埃が立ち込める上、厳重禁止だったように思うが…)


 筆者は比較的冷めた子供であったようで、(多分、きっと、希望的観測)怪談に加わりはすれど、その後さっくり寝てしまったのだが。

(あのころには、『怪談を聞いてしまって怖くて寝れない』などという

かわいい神経はすでになかった)

 同室の少女たちの話を聞くとどうやら『出た』らしい。


「長い髪の着物っぽい女の人が、すすすっと歩いてきて、障子にぺったり張り付いた」

「AちゃんもBちゃんも見た」


 同室女子の半数ほどが見たという。


 その部屋は、障子、廊下越しに旅館の庭を見る離れの一階。

 二階部分では先生たちの酒盛りがあったとかなかったとか。

 そもそも、用のない人が通る場所ではなかった。


◇この例で考えられる事実は二つ。


・本当に出た

・本当は出ていなかった


である。


『本当に出た』に関しては何も言いようがないのでこの場ではおいておく。

議論としてあげておきたいのが『本当は出ていなかった』のほうである。


 オカルトではよくあげられられる『本当は出ていない』の理由として、思春期前の子供たちには、比較的ありがちだとされる。

『集団ヒステリー』である。


 一人が錯覚、もしくは思い込みで『ある』と認識。

 周囲に伝えることで、周囲もそれに同調。

 あたかも、本当に『出た・見た』かのように錯覚する。


 もし、最初の一人が『本当に見た』のであっても、残りが『見た』とは限らない。

『見た』と認識すれば、同じである。


 ここでのポイントは、『本当に出た・見た』ではなく、

『本当はいなかったかもしれないけれど、出た・見たことになっている』である。


 思い込むことにより、『本当は見ていない』ひとでも『見た』と認識することがあり、複数の証言として『見た』と認識されれば、物理的に存在しないものさえも、存在したことになりうるのである。

(…と、あの現象に関しては解釈している。だって…おいら寝てて見てないもん)

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