第三十三話 岡崎の戦い
春もまだ浅いある日。内裏に呼ばれた新羽貞義は後太鼓帝から『足柄義氏追討の宣旨』を受けた。ついに坂東を攻め、義氏を倒す時が来たのだ。自分が武家の棟梁になるとは夢にも思っていなかった、欲浅き人貞義も玉剣を頂いた時には身が震えた。貞義に後太鼓帝は、
「我が敵、義氏、義直兄弟を打ち倒し、その首を六条河原に晒せ」
と強い口調でおっしゃった。積年の恨み、晴らす時が来たと、意気軒昂である。
そのお姿を見て、貞義は少し冷めた。一時は蜜月の中だった帝と義氏。義氏は別に悪いことをしているわけではない。義直の森永親王暗殺は褒められたものではないが、もともと鎌倉幽閉を決めたのは帝だ。宝条時雪が鎌倉で森永親王と合体していたら、世はもっと乱れていただろう。宝条政権が復活していたかもしれない。いろいろ考えているうちに、貞義の額に汗が滲んできた。
「上野介、いや征夷大将軍よ。この寒き時になぜ、汗をかく」
後太鼓帝はお尋ねになった。
「はっ、この度の戦で大勝利することを考え、体のうちから燃えてまいりました」
貞義も決して馬鹿ではない。本音を漏らそうはずもなかった。
「そうか、燃えておるか。都を火事にしてくれるなよ」
後太鼓帝は冗談を言った。
「はい。燃えるのは坂東でございます」
「その言やよし。早速参るが良い」
「はっ」
貞義が内裏を出た。
その直後である。後太鼓帝の寵臣、吉田照房が内裏に現れた。
「照房、如何した?」
お尋ねになる後太鼓帝。
「はい、万全の策をもってまいりました」
照房が言う。
「ほう、万全の策とは?」
「足柄武蔵守に新羽上野介を追討するよう、宣旨をお出しになるのです」
「なに!」
後太鼓は立腹なされた。
「朕に二股をかけろと申すか?」
「はい。この戦、どちらが勝つか分かりません。保険をかけておいた方がよろしいかと」
「うむ」
「今の状態で武蔵守が勝てば、また馬鹿の一つ覚えで、黄金上皇を帝の地位に復し、帝を今度は遠島に送るでしょう。それでは今までの苦労の意味がありません。ここは武蔵守にも種を蒔いておいた方がよろしいかと」
「うむ。人倫おいては非道のそしりを受けそうだが、帝は神だ。神は間違いを犯してはならぬだろう。照房、良きように計れ」
「ははあ」
後太鼓帝は、足柄義氏あてに『新羽貞義追討の宣旨』を書かれた。
「さて、一刻も早く、義氏に宣旨を届けなければならぬが」
後太鼓帝が心配されると、
「ぴよぴよ」
と小鳥の鳴く声がする。
「良き適任者が現れたわ」
後太鼓帝は内裏の外に出た。
「帝、お久しゅうございます」
小鳥法師が控えていた。
「足柄勢の陣容を遠くから見てまいりました」
「そうか。だがそれ以上に大事な頼みがある」
「はい」
「この書状をな、義氏に届けて欲しいのじゃ」
「えっ、足柄に? 何用ですか」
「うーむ。そうじゃ、降伏せよとの書状だ」
「それを帝が書かれた? 面妖ですな。普通は上野介殿が書くのでは?」
「まあ、深くは考えるな。それから、渡したら返答は聞かず、新羽の陣に入れ。足柄の陣がまえなど、教えてやってくれ」
「はい。かしこまりました」
小鳥法師は根が素直なので、後太鼓帝の言うことを信じたようだ。
「すぐに、お届けします。戦がなくなれば民が喜びます。では」
小鳥法師は消えた。
後太鼓帝から宣旨を預かった、小島法師は東海道を駆け抜けた。一般に十五日程度かかる道を三日で進んだ。とてつもない脚力である。しかし、不思議なことに、新羽軍と邂逅することはなかった。そうすると、新羽軍は東山道を行ったのかと法師は考えた。
足柄峠にたどり着くと、兵士たちによって、砦が築かれていた。臨時の関所が置かれ、通行人を厳重に調べている。「困った」法師は立ち止まって考えた。宣旨が見つかったならただでは済むまい。いっそ、自ら名乗り出て、足柄義氏に面会を請うか? などと考えていると、
「三郎殿では御座らぬか。どうしたその格好は?」
親しげに自分の旧名を呼ぶものがある。
「お主は……ああ、大斧殿!」
法師を呼んだのは大斧銛太郎である。随分と久しぶりの再会だ。
「三郎殿、ご出家されたのか?」
「ええ、今では備前法師と名乗っています」
「そうか。で、こんなところで何をしていなさる?」
サッと法師の顔色が変わった。
「大斧殿。お主は武蔵守様に顔が効かれるか?」
「ああ、正式に直参の家臣になったからな。いつでも会えまするよ」
「ならば、拙僧を武蔵守様に合わせて欲しい」
切実な顔で法師が頼む。
「ああ、構いませんよ。でも、何の様ですか?」
「軽々しく、口に出せない御用です。直接、武蔵守様にお会いしてお話ししたい」
「ならば、こちらに」
銛太郎は法師を砦の内側に案内した。
足柄義氏は砦の強化を指揮するため、本拠地の足柄に来ていた。今はのん気に部屋で弁当を使っている。
「殿、よろしいですか?」
「銛太郎か? 構わんよ」
「殿に客人が参っております」
「どなたじゃ?」
「かつての小鳥三郎高徳。今は剃髪し、備前法師を名乗っております」
「そのもの、あったことがあるな?」
「わたしと共に一度」
「良い。入れ」
法師が呼ばれ、義氏の部屋に入る。銛太郎も続こうとするが、
「ここは、ご遠慮あれ」
と法師に遮られた。
「人払いとは大事だな」
義氏が鷹揚な表情で言うと、
「足柄武蔵守義氏。帝の宣旨じゃ、頭が高い!」
法師は大音声を発した。
「ははあ」
義氏は思わず平伏する。そして、
「はて、それで宣旨の中身は?」
と法師に尋ねた。
「ああ、拙僧は中身までは存じません。どうぞ、ご自身でお開けください。拙僧は配達の役目のみ。では失礼します」
と言うと法師の姿は消えた。義氏は、
「備前法師は天狗か?」
と言いつつ、宣旨を押し頂いて、開封した。そして、
「ははは、帝の大狸め。生き残ることに必死じゃな」
と笑い、弁当の続きを使い始めた。
その頃、新羽軍は東山道を東に向かっていた。なぜ東海道ではなくて東山道を選んだのか? それは軍師三休が「東海道にはいくつか難所があります。その点、東山道は安全。碓氷峠まで無事に兵を動かせましょう」と新羽貞義に進言したからであった。
「又太郎は亀のように坂東にこもるのだな」
貞義が三休に尋ねる。
「おそらくは」
三休は答えた。そこに、三休の斥候が報告に来た。
「足柄軍、四十万が足柄峠を出て東海道を進軍しております。大将は足柄相模守。三河の足柄衆が付いております」
「なにい!」
三休が珍しく動揺する。
「三休、軍師でも情勢を見誤ることがあるのだな!」
貞義が三休をからかう。
「殿、相模守の軍。一気に都を陥れる可能性がありまするぞ」
橘宗茂が進言する。
「それはまずいな。全軍、南下して三郎の軍を潰す。戦下手の三郎だ。それに兵力が違う。出てきた亀の首級を切り取れ!」
貞義が号令をかけ、全軍は美濃から三河に南下した。
その頃、足柄義直率いる軍は三河を目指して進軍していた。副将は三河足柄一門の重鎮吉良貫首。三河衆の梅井忠常、石像頼房、
「忠常、わざと負けるというのは難しいな」
義直がぼやく。
「何の、いつも通りの殿の戦をすれば大丈夫。負けられます」
忠常の言は辛辣だった。
「そ、そうか」
義直は悄然とした。
義直軍は東三河から入国した。そして西三河の岡崎を目指す。
新羽貞義軍の軍師三休の元に、草の者から知らせが入った。
「殿!」
三球は馬を貞義に寄せる。
「なんだ?」
問う貞義。
「相模守の軍勢は岡崎に陣を張ったようです」
三休が答える。
「なに? 一気に都へ攻め入るのではないのか」
貞義は考え込む。
「もしかしたら、囮ではございませんか?」
橘宗茂が言う。
「その可能性、大いにあります」
三休も続く。
「おそらくは足柄峠と碓氷峠、どちらかに堅固な砦を築き、もう一方は手薄ということだな」
「では、相模守軍を討ち、敗走した方向と逆の方の峠を襲えば良いと思われますな」
宗茂が献策した。
「そうだな。とにかく、とりあえず三郎の陣を襲おう。全滅させてはいかんぞ。少しは残さんとどちらに行けば良いのか分からぬ」
「はっ」
貞義軍は三河岡崎に向かうことになった。
足柄義直を大将とする、三河衆四十万は三河岡崎に陣を張り、東海道を下ってくると思われる、新羽貞義軍を今か今かと待っていた。皆様ご存知の通り、貞義軍は東山道を下ってきている。貞義軍は義直軍の情勢を把握しているが、義直軍は貞義軍の動向に義直の諜報能力のなさが露呈する。
「敵は西から来る。見張りを怠るな」
義直は命令した。
翌朝、足柄義直は下士の悲鳴で目を覚ました。
「北から敵軍が来襲!」
「へっ?」
義直は惚けた声を出す。
「北からだと。そんなこと想定外じゃ」
義貞軍は西に厚く北は薄い。すぐに陣を破られた。少しは敵に一矢報いようと思ったが、こうなったらお約束通り、足柄峠に逃げるしかない。
「忠常、味方を回収。足柄峠に逃げるぞ」
「はい」
梅井忠常は義直軍唯一の名将だ。西に取り残された味方の兵をまとめ、東へと逃走する。
義直は脇牙義助、橘宗茂に追われ、必死に逃げた。この際、失禁したとも脱糞したとも言われている。また一つ、義直の凡将伝説が生まれた。
数刻後、岡崎を占拠した、新羽貞義軍は、馬上で軍議を行った。
「三郎は足柄峠に逃げたな」
「はい。これこそ足柄峠の要塞化が進んでいる証拠でしょう」
三休が答える。
「ならば、我ら東山道に戻り、碓氷峠を抜く!」
貞義が天高く大号令をかけ、新羽軍は北に移動した。
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