Barber’s Trap4
午後6時、アサド・マジュムダールが来店した。
予約時刻は午後5時30分だったから30分遅れての来店だった。
それはいつものことだった。ならば6時に予約すればいいのにと店主はいつも思うのだが、6時に予約したら6時30分の来店になるのだろう。
店主も心得たもので、アサドの前の客には5時45分まで時間をかけた。
30分遅れてきたアサドに謝罪の言葉はなかった。
いつものことだ。
30分遅れは当たり前というのが彼の文化のようだった。
いらっしゃいませ、店主は慇懃に挨拶した。
「マスター、げんき?」
アサドは椅子に腰を下ろしながら聞いた。
アサドの体臭がキツいため店主はいつもマスクをしていた。
それでも臭いが鼻をついた。
「おかげさまで」
「でも、マスター、いつもマスクしてる」
「エチケットです」
あんたが臭いからだとはもちろん言えなかった。
「俺、気にしない。日本人、キレイ過ぎる。マスク外してもいいよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。マスクしてた方が落ち着くんです。先に流しますね」
店主はマスクから話を逸らすように言って、シャンプー台のシャワーからお湯を出した。
背もたれを倒し、アサドを横たえると顔にタオルをかけ、椅子を180度回転させた。
アサドの硬い髪をお湯で流し、シャンプーを付け、泡立てた。
「かゆいところありますか?」
「チンチン」
「それは別な店でお願いします」
「マスターも言うねえ」
くだらない冗談だったが日本語の不自由な外国人ゆえに大目にみた。
それに何でも口に出すのが彼の憎めない所でもあった。
バングラデシュから日本にやってきて、清掃業で生計を立てていると言っていた。
清掃業がいくら稼げるのかは知らないが、アサドは羽振りがよかった。
そもそもこの店のサービスは安価ではない。
にもかかわらず、毎月来店するのは、ギリギリの生活を送っているなどという状況ではなさそうだ、そう店主は推測していた。
そして、判明したのが、アサドは暗殺集団「殺家ー」の一員だったということだ。
敷島からその話を聞いた時は俄かに信じられなかった。
アサドは殺し屋ではない、掃除屋だ。
敷島は言った、
掃除屋と言うのは死体を掃除するのが役目だそうだ。
アサドにしてみれば異国の地で生きていくためと割り切って携わっているのかも知れない。
死体が自分とは見た目の違う外国人ゆえに、罪の意識を感じにくいのかも知れない。
いずれにせよ、アサドが殺し屋ではなく掃除屋だと聞いたところで店主の驚きや恐怖の念が軽減されたわけではなかった。
この気の良い、何でも話す外国人のお得意さんが、暗殺集団の一員であることに変わりはなかった。
「お湯加減はいかがでしょうか」
「きもちいいよー」
アサドはタオルの下で声を発し、ドレープの下で右手を曲げた。
ドレープがめくれ、OKと親指を立てた右手が露わになった。
店主は泡を流し切るとシャワーを止めた。
「少々お待ちください」
と言って店を出て行った。
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