Barber’s Trap

その理容室は「黄昏のレンガ路」と呼ばれる繁華街にあった。

殺人事件のあったゲイバー「つぶらな瞳」と通りを同じくする。

レンガ作りの雑居ビル、地下へ通じる階段の入り口に理容室ありを示すサインポールが立っている。

敷島は地下へ降りていく。


黒く塗られた木のドアに「barber’s trap」と店名が書いてある。


ドアを開けるとそこはニューヨークの古びたバーのような雰囲気だった。もっともそれは敷島の勝手なイメージで彼はニューヨークに行ったことがなかった。


店主が無言で理容椅子を指し示した。

敷島は腰を下ろした。

理容椅子はひとつだけだった。

理に適ってる。

完全予約制。

店主1人で経営している。

2人同時にはやらない。

だとしたら椅子はひとつでいい。


店内はバーのように薄暗いがここはバーではなくバーバーだ。

理容椅子のところだけがスポットライトで照らされている。

バーバーだが、バーのような雰囲気でBGMにはジャズが薄く流れ、腰を下ろすと、今日はどのようにカットしましょう?と聞かれるのではなく、何も言わずにまずはウィスキーがロックで提供される。さらに店主が葉巻を差し出し、くわえると火をつけてくれる。

無言だが、歓迎されているのが分かる。


店主は常にネクタイや蝶ネクタイを締め、バーテンダーのように正装している。高級レストランのドレスコードをクリアする装いだ。インテリア、サービス、店主の服装、ハサミ、クシ、バリカンなどの道具も含め、細部に至るまで店主のこだわりが行き届いている。

作り上げた世界観は確固たるもので、スキがない。


敷島はウィスキーを飲み干すまではカットを頼まない。

もっとも敷島がウィスキーを飲み干すのにそれほど時間はかからない。

せいぜい二口程度だ。


敷島がグラスを空けると店主が近づいてくる。


カットクロスを付けようとした時、敷島の携帯電話が鳴った。画面を見ると潜入からだった。


「悪いな」


「どうぞ」


店主はカットクロスを避けた。

電話の時、敷島が外に出るのは心得ていた。

そして敷島の電話はよく鳴った。


敷島は、立ち上がり店の外に出た。階段を登りながら電話に出ると、いきなり怒鳴り声が上がった。


「何やってんだよ!」


理由は分かっていた。

グレープ脱走事件はすでに全国ネットでニュースになっていた。

会見前に深々と頭を下げる上層部の映像がすでに繰り返し報道されている。


潜入がグレープ脱走をニュースで知る前に自分の口から伝えたかった。敷島は繰り返し彼に電話をかけていたが、応答はなかった。結局、潜入はニュースで知ることとなり、怒りの電話となった。


潜入が怒るのは当然だ。

暗殺集団「殺家ーサッカー」に潜り込み、命がけで情報を送っているのだ。今回のグレープ逮捕だって潜入からの情報があったからこそだった。捕まえて牢屋にぶち込んだにもかかわらず逃げられてしまうとは…あまりの不甲斐無さと申し訳なさに言葉もなかった。


「状況を説明しろ」


敷島はグレープが逃亡した経緯を説明した。


「グレープを逃したバカ3人はクビにするんだな。あるいは俺んとこに連れてこい。半殺しにしてやる」


敷島は返す言葉もなく、黙り込むより他なかった。グレープを逃したバカとは自分のことに違いなかった。


敷島が無言でいると潜入が言葉を次いだ。


「グレープを泳がせろ」


「は?」


「いいか、ボスはグレープを消すようにすでに殺し屋たちに指示を出してる。グレープは組織のことを知り過ぎてるからな。で、グレープも自分が狙われてることを知っている。じゃあ、奴はどうするか? 当然、指を加えて待ってるわけがねえ。奴は殺家ーを1人で潰しにかかるだろう」


「つまり…」


「そうだ、高見の見物だ」


敷島は、それついてしばらく考えた。

警察としてグレープのような危険な殺し屋を野放しにするわけにはいけない。

しかし、彼を放っておけば警察の代わりに殺家ーを潰してくれる。確かに、これを利用しない手はない。


「なるほど…」


敷島は思わずつぶやいた。


(つづく)





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