殺していない殺し屋
取調べも4日目になるがグレープは相変わらず沈黙を貫いていた。何を聞いても反応はなかった。まるで耳が聞こえないかのように。
彼の本名も年齢も住所も分からなかった。運転免許証や健康保険証など、身分証の類は一切所持していなかった。
潜入捜査官からもそれらの情報は得られていなかった。
互いのプライバシーは絶対に明かさないと言う組織内のルールが厳守されていた。
しかし、潜入から入手したグレープの写真は、ここにいる男が間違いなく本人であることを証明していた。
敷島はイラついていた。
いつもイラついているが、グレープを逮捕して以来、特にイラついていた。
「
しかし、『殺家ー』の犯行になるべき殺人は、どういうわけか彼らの仕業でははかった。そのため殺人容疑ではなく、銃刀法違反による逮捕となった。
何としても殺人の容疑で彼を逮捕し暗殺集団「殺家ー」の存在を証明したかった。
間もなく取り調べが始まろうとしていた。
敷島はいつものようにインスタントコーヒーをデスクに置き、新聞を後ろから読み始めた。状況がどんなに行き詰っても、精神的バランスを保つため日々の習慣だけは欠かさぬよう心掛けていた。
オリンピックの記事とともに彼の目を引いたのは、以下の記事だった。
「MB検査結果を誤送
OOO保健所が、マインド・ボム(通称MB)の抗体検査結果を被検者49人に誤って送付していたことが26日、明らかになった。
このため、検査の結果が陰性にもかかわらず陽性判定の通知を受け取った被検者、あるいは陽性にもかかわらず陰性の結果を受け取った被検者がいるという。
保健所は事態を重く見て、なぜこのような誤送が起きたのかを調査しているという。」
この記事をみて敷島の胸を去来したのは、マインド・ボムの爆発的な流行に対する恐れと、誤った結果を受け取った被験者たちへの同情だった。
特に、陰性の結果が覆り、陽性判定を受けた被検者のショックは計り知れない。
彼らの悲しみ、怒り、絶望に敷島が想いを馳せているときだった。
青柳が駆け込んできた。
「大変です!」
「何だ」
「被疑者がいません!」
「被疑者がいない? どの被疑者だ?」
「『殺家ー」の・・・どうやら逃走した模様です!」
敷島は新聞を放り、留置場へとかけつけた。
グレープが入っているはずの檻に3人の警官が閉じ込められていた。
3人は格子の向こうで床に座りうなだれていた。
警官Cにいたっては下着姿をさらしていた。
「お前らそこで何をやってんだ?」
「…」
「被疑者はどこだ」
「…逃げました」
警官Cが顔を上げて答えた。
額にマジックで「税金泥棒」と書かれていた。
状況によっては笑うところだが、今の敷島には笑えなかった。
込み上げる怒りで唇の端がひきつった。
敷島は檻に手をかけ開けようとしたが施錠されていた。
「鍵は?」
「マスターキーならあります」
「じゃあマスターキー以外はどこにある?」
しばしの沈黙の後で警官Aが言いにくそうに答えた。
「…分かりません。被疑者に顎の辺りを蹴られたところまでは覚えています。その後のことは記憶にありません」
敷島は推測した。
3人はグレープに蹴りを食らって失神した。その間にグレープは檻に鍵をかけて3人を閉じ込め、自分は逃走した。
大方そんなとこだろう。
「青柳、マスターキーを持ってこい」
敷島は青柳に言った。
青柳は、マスターキーを取りに行った。
その間、敷島は何も言わずに立ち尽くしていた。込み上げる怒りを抑えるのに必死だった。
全身の毛穴から汗が吹き出した。怒りが爆発し、汗が飛び散る寸前だった。
キーを手に青柳が戻ってきた。
「開けろ」
青柳がマスターキーで解錠すると、敷島は待ち構えていたように乱暴に檻を開けた。
中に入るなり敷島は靴底で警官一人一人の胸に蹴りを入れていった。警官たちは後ろに転がった。
敷島が怒るのは当然だった。
「殺家ー」に潜入しているのは彼の部下だった。それは敷島と、上層部でもほんの一部の者だけが知る極秘作戦だった。その部下による命がけの潜入捜査のおかげで、何とか「殺家ー」のメンバーを逮捕することができた。
この間抜けどもは、そんなことを知る由もない。
たとえ『殺家ー』の殺し屋と言えども3人で行けば、だいじょぶだぁぐらいの気持ちで向かったのだ。
俺も甘かった。
もっと危機感を持って指示を出しておくべきだった。
相手はグレープだ。
雑魚キャラが束になってかかっても勝てる相手じゃなかったのだ。
敷島はグレープを甘く見た自分が許せなくなり、かと言って自分を殴るわけにもいかず、また3人を1人ずつ蹴り倒して行った。
「しばらくそこに入ってろ!」
敷島は格子扉を叩きつけるように閉め、立ち去った。
(つづく)
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