グレープ・エスケープ



1.


留置場でもグレープは日々のトレーニングを怠らなかった。

ナンバーワンであり続けるのには理由があった。

彼は誰よりもストイックだった。

殺し屋として銃やナイフに頼りきることはしなかった。

それに、武器を操る肉体が磨かれていなければ、武器も役に立たないと言うのが彼の持論だった。


ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト


ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト


声を殺してカウントしながらグレープは全身の筋肉を伸ばしていった。

ストレッチをするときはいつも目を閉じることにしていた。

視覚からの情報を遮断することで己の身体が発する声をより鋭敏に聞き取ることができた。

愉悦に酔う声であれば問題なし、痛みを訴える声であればケアをする。

グレープにとっては全身が武器だった。常に手入れをし、いざというときに備えておかなければならなかった。


ストレッチが終わるとシャドーを始めた。


ボクシングではない、ブルース・リーを創始者とするジークンドーだ。


最初はゆっくりと。

理想のフォームで技が繰り出せているか確かめるように。

そして徐々に速く。


ステップ、ジャブ、ステップ、ジャブ

2度目のパンチは1度目より速く!


ホップ、ステップ、ハイキック

ホップ、ステップ、ハイキック

2度目のキックは1度目より高く!


体温が上昇するにつれて、アチョー!の声が自然にもれる。声は徐々に大きくなる。


アチョッ! ホチョッ! アチョー!


人間とも獣とも言えぬ彼の気合いは、留置場内に響き渡り、他の勾留者を気味悪がらせる。


グレープにとってアチョーの声はジークンドーとイコールだった。

ジークンドーとはアチョーであり、アチョーとはジークンドーだった。


アチョッ! アチャッ! チョーオッ!


パンチを打てばアチョーが出る、蹴りを放てばアチョーが出る、止める気はないが、止めようと思っても止められない。セックスのときに女が漏らす喘ぎ声と同じである。


間もなく二日目の取り調べが始まろうとしていた。

警官が迎えにくるはずだった。


あるいは留置場にいた方が安全かも知れない。

娑婆しゃばに出れば、『殺家ー』の殺し屋たちが命を狙いにくる。


しかし、こんなところでじっとしているグレープではなかった。


俺はジークンドーの達人、(元)「殺家ー」イチの殺し屋だ。

他の連中に俺はやれない。

片っ端から返り討ちにしてやる。

そして、俺をハメた組織の犬を突き止め、ボスを始末し、俺が次のボスとなるのだ。


アチョー!


最高最速のハイキックを宙に突き上げたところで、ウォーミングアップを終わりにした。


ホォォウゥゥ


鳥のような声を漏らし大きく息を吐いた。


準備は整った。



2.


取調の時間が近づいていた。

グレープを取調室に連れて行くため、とりわけ屈強な警官A、B、Cが留置所にやって来た。

名うての殺し屋だけに警察も警戒を怠らなかった。

3人はグレープの収監された留置室の前に立った。

鉄格子の向こうでグレープは正座し、留置室の入り口に尻を向け、床に額を押しつけていた。


何してんだ?

3人はお互いに顔を見合わせた。

聖地エルサレムの方角に向けて祈りを捧げているようだった。

警官Aは念の為に警棒を取り出してから開錠した。

おい、どうした、気分でも悪いのか?

不用意に近づいた警官Aは、アルマジロのように丸くなったグレープの背中に手を触れた。


次の瞬間、警官Aは気を失い仰向けに倒れていた。


一体何が起きたのか、速すぎてグレープ以外にはわからなかった。


グレープは床に額をつき膝の隙間から3人が入ってくる様子をうかがっていた。

警官Aが射程距離に近づいたところで、折り畳んでいた左足を突き上げ、Aの顎をヒットしたのだ。


バネのように立ち上がったグレープは、唖然としている警官Bの側頭部にホチョッ!とハイキックを浴びせた。

BはAの上に重なった。


Cはすぐに大声で助けを呼ぶか、その場を立ち去るべきだった。

しかし、暴力的と言うよりは、手品のように華麗なグレープのジークンドーにくぎ付けになっていた。


我に返ったときには遅く、アタッ!と前蹴りを喰らい背中が鉄格子にぶつかって跳ね返ったところにアチャーッ!とハイキックを見舞われ、Bの上に重なった。


一瞬の内にABCがアルファベット順に重なった。


グレープはホゥゥゥと息を吐いて呼吸を整えると、Cの制服を脱がせ、着用した。


胸ポケットにマジックマーカーが入っていたので下着姿のCの額に落書きをした。


「税金泥棒」


留置室を出ると、格子戸に鍵をかけた。


階段を降り、途中で掃除していたおばさんに「おはようございまーす、今日も暑いねえ」と気さくに声をかけ、市民であふれかえっているロビーを通り抜け正面玄関から堂々と出て行った。


追ってくるものはいなかった。


あいにく俺は警官だ、グレープは自分にそう言い聞かせた。

絶対正義の体現者、平和な市民生活のために命を捧げる戦士、秩序をこよなく愛する制服姿のヒーロー。


警察署の駐車場を抜け、通りに出るとグレープの足取りは自然と早くなった。


グレート・エスケープならぬグレープ・エスケープ。


歩きながら留置所の鍵を側溝に捨てた。

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