とりあえずの乾杯

ビールを口に運ぶ広道の手は止まらなかった。

潜入捜査官として広道が組織に潜り込む前、最後に2人で飲んだのがこの居酒屋だった。

全国のどこの駅前にもあるようなチェーンの居酒屋だった。


席に通されるなり、広道はビールをジョッキで5杯オーダーした。

敷島に、5杯は全て俺の分だから、お前は自分で頼めと言った。

敷島もビールを頼んだ。


「ご苦労だった」


敷島が労いの言葉をかけ、2人はジョッキを合わせた。


「生きてこの日を迎えられるとはな」


広道は言って、ビールを仰いだ。

一気に飲み干すと、2杯目にとりかかった。

2杯目も一息で飲み干した。

間を開けずに3杯目に取りかかった。

一息で3分の2を空け、そこでふうっと息を吐いた。


そんな調子で空のジョッキが次々とテーブルに並んだ。

死と隣り合わせの状況から解放され、生きていることの喜びが広道の勢いに拍車をかけた。


広道刑事、そう、彼こそが暗殺組織「殺家ー」に送り込まれた潜入捜査官であり、組織内でボスの寵愛を受けたチェリーに他ならなかった。


警察にとって長年のミッションであった「殺家ー」の壊滅。敷島の陣頭指揮と広道の潜入捜査が実を結び、ついにこの日を迎えた。

広道には喜びしかなかった。


一方の敷島には苦味が残った。

ボスの死亡、殺し屋グレープの逮捕で幕を下ろした壊滅劇。

だが、敷島はボスを生きたまま逮捕したかった。

ボスは敷島の実の弟だった。

生きたまま弟を捕らえ、社会的制裁を課すことが敷島の個人的なミッションでもあった。


そして、そのミッションはあるいは彼の中では「殺家ー」壊滅より重要だった。

兄として、弟に社会的制裁を課すことは…


しかし、弟は償うには余りに多くの罪を犯した。まるで風船を割るみたいに多くの命を軽々しく奪ってきた。生かしておく理由などなかった。手下に殺されたのも当然の末路 だったのかも知れない。


それでも敷島にとって彼は弟だった。

まだ二人が子供だった頃、腹の底から笑い合った仲だった。

感じる胸の痛みは抑えようがなかった。


敷島はガラスに残っていたハイボールを飲み干した。

広道が口を開いた。


「あんた本当に引退すんのか?」


敷島は頷いた


「俺のポジションはお前に譲る」


「あんたの後釜なんて気乗りしねえな」


それは、褒め言葉だった。

広道には敷島のようにやれる自信がなかった。

部下からの信頼は厚く、上層部とぶつかりつつも高い検挙率を背景に己のやり方を貫いた。

時には違法行為とも取れる乱暴なやり方だったが、結果で周囲を従わせた。


「ただな、一つだけやり残したことがある」


敷島は写真をテーブルの上に置いた。

広道は写真に目を落とした。


「木口だな?」


敷島は頷いた。


「足取りはつかんでるのか?」


「ソープ嬢と駆け落ちしたところまでだ。その後は分からない」


「韓国は?ソープ嬢って韓国人だろ?」


「よく知ってるな」


「組織の直営だからな。失踪したときはえらい騒ぎだったよ。何せ1番人気のソープ嬢が消えたんだ」


「ソープ嬢はパスポートを持っていない。逃亡を防ぐために雇用時に取り上げるそうだ。木口がパスポートを申請した履歴もない。てことは海外逃亡はない」


「木口は未成年だよな?」


「ああ、19だ。顔写真は公開できない。聞き込みはしてるが、目撃情報は今のところゼロだ」


「組織に捕まらず逃亡できたってことは、ほとんど誰にも見られることなくこの街を出たんだろうよ」


「ソープ嬢について何か知ってることは?」


「名前だけだ。ソヨン」


「歳は?」 


「せいぜい20代前半だろう。それぐらい調べりゃわかんだろ?」


「それがなかなかそうもいかねえ。ソープで働いてた連中もお互いのプライバシーはほとんど明かさなかったらしい」


「店長とかマネージャーとかそういうたぐいに聞いてみろよ」


「死んだよ。ボスに撃たれてお前がかばったやつ、アイツがソープの店長だった。結局、出血多量で死んだ」


「なるほどね。ボスがヤツを犬に仕立て上げたのには訳があったんだな。ソヨンと木口を逃した制裁ってわけか」


「ソヨンのパスポートもまだ見つかってない。組織が関係する建物は全部ガサ入れしたんだけどな」


「もういいじゃねえか。あとは若いのに任せて、とっとと引退しろよ」


広道は残っていたビールを飲み干すと店員を呼んでお代わりを注文した。


「木口を助けたいんだ」


敷島は唐突に言った。

彼の発言は脈絡を欠いていた。

広道は理解しかねると言った表情で続きを待った。

敷島は続けた。


「木口は復讐したんだ」


「復讐?」


「木口はMBの抗体検査を受けていた。結果は陽性だった。誰かが彼にうつした、それがサキだった。サキは自分がMBキャリアだと知りながらそれを隠して木口と関係を持った。それを知った木口はサキを殺した」


敷島は一旦、言葉を区切った。

広道が理解するための時間を取った。


「なるほど」


広道が言った。


「筋は通ってるな」


「死体のペニスが切り取られてた。MBが性行為で感染するのは言うまでもない。だが。この話には続きがある。木口はMBじゃなかった」


「どういうことだ?」


「違う被験者の検査結果が木口の元に届いた。つまり、陽性だったのは木口ではなく、別の被験者だった。木口は陰性だった。だが、保健所の手違いで陽性の結果を送ってしまった。木口がそれを知ったのはサキを殺した後だった」


敷島はそこまで話すと、ハイボールで喉を潤した。

再び口を開いた。


「手違いを知った保健所はすぐに木口に連絡を取った。しかし、何度電話をしても、応答はなかった。まあ、一人暮らしの若者が電話に出ないなんてよくあることだ。仕方なく謝罪の手紙を木口に郵送した。そしたら木口から電話があったそうだ。保健所の職員は謝罪した。結果は誤りで陰性だったことを伝えた。すると木口はこう言ったらしい。『遅すぎる。俺は取り返しのつかないことをしてしまった』」


広道は何も言わなかった。

敷島の話を頭の中で整理していた。

彼の話が事実だとするなら、木口は運命に翻弄された憐れな青年だった。


「俺の言わんとすることがわかったろ。木口はある意味被害者だ。助けてやりたい。何ていうかな、精神的に救済してやりたいんだ」


「まるで宗教家みたいな物言いだな」


「宗教家になろうってわけじゃない。裁判を受けさせ、罪を償わせる。ただ、なるべく刑が軽くなるよう、最高の弁護士をつける」


「特別な思い入れを感じるな」


「木口は若い。人生を棒に振るには早すぎる。俺の警察人生最後に関わった相手としてやれることをしてやりたい」



しかし、以後半年間、木口の行方に関する手がかりはほとんど何も得られなかった。

敷島は自ら足を使って聞き込みをしたが、無為に時間が過ぎていくだけだった。



その日の朝も敷島はいつものように聴き込みに行くところだった。


玄関を出たところで後ろから呼び止められた。

振り返ると広道がいた。

何やら慌てている様子だった。


「木口の居所がわかった。沖縄県警から電話があった」


「沖縄?」


「石垣島だ」


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る