ふたりのアイランド
九一とソヨンは石垣島にいた。
石垣島にツテがあったわけではない。
パスポートがなかったので、国内で、できる限り遠く、かつ目立たない所という理由で選んだに過ぎない。
島での最初の1週間を二人はホテルで過ごした。
昼間はセックス、夜になるのを待って外出した。
毎日のようにソーキソバや海ぶどうを食べ、オリオンビールを飲んだ。
「そろそろ働かないと」
ソヨンが言った。
二人は居酒屋にいた。
通りに面した屋外の席で向かいあっていた。
逃亡者という意識はありつつも2人に緊張感はなかった。石垣島まで来たし、夜になれば捕まらないという根拠のない自信があった。
ソヨンはスマホを九一に差し出した。
仕事を検索しろという意味だ。
ソヨンは日本語の読み書きがほとんど出来なかった。
「どんな仕事があるかちょっと見てよ」
九一は自分のスマホを取り出した。
「アルバイト」と入力し、位置情報を許可した。検索結果が画面に映し出されたが、酔っていたので真剣に見る気にはなれなかった。
「明日から探すよ」
次の日、二人はハローワークに向かった。
ネット上にも仕事は掲載されていたがコンビニやスーパーの店員など客商売がほとんどだった。
二人は人目につかない仕事を探していた。
開所時間より30分早く到着したので、海沿いを散歩して、時間を潰すことにした。
ハローワークから海まで歩いて5分程だった。
日差しが眩しかった。
本土よりも景色の輪郭がくっきりしているのは日の射し方が違うせいだろう。そんなことを考えながら九一はソヨンと並んでゆっくり歩いた。
足取りはこの土地の緩やかな時の流れを反映していた。
こんな調子でどこまでも歩いて行けそうな気がするが、それは幻想だった。
現実は、警察に追われ、金は底をつきつつある。走らなければ現実に追いつかれてしまう。
橋を渡り、公園を抜けて海沿いに出た。
水平線に溶けた陽射しが宝石をちりばめたように輝きを放つ。2人はベンチに腰を下ろし、無言で海を見ていた。
空が青ければ青いほど、海が眩しければ眩しいほど、さらに不安が募る気がした。
開所時間になると2人はハローワークに向かった。
所内はすでに多くの人で混み合っていた。
職員との相談ブースは全て埋まり、検索用のパソコンはほとんどが使用中だった。
一台だけ空いていたので、ソヨンが椅子に座り九一は立ったまま画面を脇から覗き込んだ。
ソヨンがマウスを握り、日本語の読めない彼女に九一がクリックすべき箇所を指示した。
住所不定、身元も明かせない以上、正社員という選択肢はなかった。
アルバイトの応募で条件を入力し、検索すると20件程がヒットした。
ほとんどがコンビニや飲食店だったが、その中に2人の条件にピタリと合う仕事があった。
「ヨナミネサトウキビ農園」
サトウキビの生産農家で住み込みでも働くことができ、観光客の短期就労も受け入れていた。
九一は電話番号を手の甲に書き留めた。
ハローワークを出ると、早速電話をかけた。
年配の女性の声が応答した。
ハローワークで募集要項を見た。
友達と2人で観光に来たが、そちらで働かせてほしいと伝えた。
「いつこれる?」
今からでも行けるが履歴書をまだ書いていないと答えた。
「履歴書はなくていいよ。こっちに来てから連絡先を教えてもらえれば」
ではこれから行くと言って、九一は電話を切った。
2人はバスターミナルまで行き、そこからバスに乗った。
九一はバスの中で偽名を考え紙に書いた。
2人は恋人同士であること。
同じ大学で知り合い、付き合い始めて1年になること。
卒業後、2人で暮らし始めたが就職難で定職にはつけずアルバイトをしながら生計を立てていること。
2人とも飲食店で働いていたが、辞めて
石垣島に来たこと。
観光のつもりだったが気に入ったので移住したいと考えていること。
九一は個人史を捏造するとソヨンと共有した。
何か聞かれたとき、2人の話に齟齬があっては怪しまれる。だが、上手くごまかせればこの仕事を得られるはずだ。
九一が紙に偽りの身元を書きつけている間、ソヨンはずっと窓の外を見ていた。
空も海も綺麗だが、古い建物が並ぶ街並みはどことなく韓国を思い出させるものがあった。
その農園は川平湾を彼方に望んだ。
二人を迎えたのは農園主の妻だった。初老で顔には深い皺が刻まれているものの日焼けした肌にはツヤがあり見るからに健康そうだった。
九一は先程電話した者だと告げ、偽名を名乗った。
妻は二人を離れの建物に案内した。
しばらく閉め切りだったのか熱い空気が堆積していた。
妻は窓を開け放ち、クーラーをつけた。
会議室に置いてあるような折りたたみのテーブルとパイプ椅子が土間に置かれていた。どうやら季節労働者用の休憩所らしかった。
「暑かったろ? お茶飲みな」
二人の前にガラスのコップを置いた。
九一は一口飲んだ。
冷たいジャスミン茶だった。
「あんたらどこから来たの?」
東京、九一は予め用意しておいた答えを言った。
「そうかい」
儀礼的に聞いだけなのだろう。
東京のどこか等、更なる質問はなかった。
東京から来たカップルが石垣島のサトウキビ農園で働く。そんなに珍しい話ではないのかも知れない。
「今来るからちょっと待ってな」
間もなく、足音が聞こえ、外の水道で手を洗う音が聞こえた。
地下足袋を履いた初老の男が入ってきた。
背が低く、キャップの下から覗く顔は妻よりもよく焼けていた。
キャップを取ると薄い毛髪が汗で地肌に張り付いていた。
二人は立ち上がって頭を下げた。
主人は、座ってください、と枯れた声で言い、自分も二人の前に座った。
「えーと、西山さんだっけ?」
「ニシノです」
偽名を訂正するのは変な気分だった。
「ニシノさんか、失礼、失礼、そちらの彼女は、そのぉ、お友達かい?」
「妻です」
九一はきっぱりと答えた。
「ソヨンと申します。韓国人です」
「韓国? 日本語上手だねぇ」
「一年前に日本に来ました」
「仕事で?」
「日本語の勉強に来ました。ここに来る前はコンビニでアルバイトもしていました」
「なるほど。で、日本のどこから来たのかな」
「東京です」
「二人とも石垣島は初めてかい?」
「はい」
「で、ここにはどれくらいいるんだね」
「特に決めてません。でもすごくいい所なので、ここで仕事させてもらえるなら長くいたいと思ってます」
「でも学生なら学校があるんじゃないのかね」
「つい先月終了したんです。なので仕事を見つけて就労ビザに切り替えようとしているところです」
ソヨンの代わりに九一が答えた。
「ふーん、うちは外国人雇ったことないからなぁ。ビザとか私にはからっきし分からん」
「ビザの更新は自分たちでやるので大丈夫です。ご迷惑はかけません」
ヨナミネは無言になった。
九一は緊張した。
何とかこの仕事を手に入れたかった。
断られても食い下がるつもりだった。
短い沈黙が九一には長く感じられた。
ヨナミネは開いたままになっていたドアから外を眺めた。
タバコを取り出し火をつけた。
煙を大きく吸い込み外に向かって吐いてから、そうだな、と言った。
九一の顔を見た。
「じゃあ働いてもらうか」
(つづく)
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