何処へ
ソヨンと九一。
片やソープ嬢、片やその客。
ソープランド「ダイヴァース」で初めて会った瞬間、二人は激しい恋に落ちた。
二人の初めての性交は客とソープ嬢の垣根を超えた。
九一にとってソヨンは、たとえ仕事であれ傷ついた心を癒してくれた相手となった。
もしあの時、他のソープ嬢が相手だったら、そのソープ嬢があるいは九一の運命の相手となったかも知れない。しかし、それはソヨンだった。タイミングの問題に過ぎないと言えばそれまでだが、他の誰かではなくソヨンだった。
ソヨンはと言えば、ソープ嬢としてこれまで数えきれない相手と寝てきたが、いわゆる体の相性という点で九一が一番だった。
好きでソープ嬢をしているわけではないが、それでもこんな仕事をしているぐらいだからセックスは嫌いじゃなかった。
仕事にも関わらず、本気で感じてしまうことも多々あった。
しかし、九一との体験は全く特別だった。
九一を受け入れている間、まぶたの裏側で火花が散り、全身が痺れ、開いた口から垂れる涎を拭うこともできなかった。
突かれる度に懇願の叫びを上げた。
ことを終えた後は全身が小刻みに震え、しばらくするとまた欲望が頭をもたげた。
二人の関係はその場で終わることなく、互いの家を行き来するようになった。
付き合うようになった二人はこの街をどうにかして出れないか話し合った。
ソヨンは店を辞めたかった。
九一と付き合う以上、他の男に抱かれたくはなかった。
しかし、辞めることは許されなかった。
ソヨンはとある団体グループを通じて日本にやってきた。
そのグループは日本への渡航費用無料、さらに渡航後の職業斡旋を謳い文句にしていた。
タダで日本に行ける上、仕事まで紹介してもらえるならと軽い気持ちで応募し、日本にやってきた。
真っ当な仕事じゃないことは覚悟していた。
しかし、渡航費用を借金の形として、ソープランドで延々と働かされるとは予想しなかった。
ソープを仕切る年配の女性に度々借金の残額を聞くものの、あたしゃ知らないの一点張りだった。
一体いつまで働けばいいのか…
ソヨンは部屋にいた。
出勤前の午後3時、シャワーを浴び、朝食をとりながらテレビを見ていた。
朝食はいつも敷きっぱなしの布団の上で取った。
テレビはワイドショーをやっていた。
主婦が好んで見るゴシップ中心の番組だった。韓国にも似たような番組はある。
ソヨンが日本に来て、1年が過ぎた。日本語はだいぶ上手くなったが、テレビの理解度は半分ぐらいだ。それでも日本語の勉強にと、家にいる時はいつもテレビをつけている。
朝食を食べ終わり、片付けようと立ち上がった。
これから化粧をして、服を着替えて出勤する。
ソヨンは何を着て行こうか悩んだ。
日本の夏は韓国より暑い気がする。
Tシャツでも暑いぐらいだ。キャミソールで十分だろう。
そんなことを考えていると、インターホンが立て続けに4回鳴った。急かすような鳴り方だった。続いてドアをノックする音。ノックというよりは拳を叩きつけているようだった。
ソヨンはインターホンのスイッチを押し応答した。カメラは付いていない。
「はい?」
「俺、開けて!」
九一だった。
声はひどく慌てていた。
それでもソヨンはのんびりとした足取りで玄関に向かった。
鍵を開けると外側から勢いよくドアが引かれ九一が押し入ってきた。
「どうしたの?」
ソヨンは九一の様子を見て驚いた。
まるでシャワーを浴びたようだった。
髪は濡れ、白いTシャツは肌に張り付いていた。
雨が降っているのかと思ったが窓の外には日差しが降り注いでいた。
肩で呼吸をするのに精一杯でソヨンの質問に答えることができなかった。
ソヨンは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。コップに注いで、九一に渡した。九一は喉を鳴らして一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「逃げよう」
荒い呼吸が続く中で九一は言葉を絞り出した。
ソヨンにも分かるようにたった一言。
しかし、彼女は理解できなかった。
言葉の意味が分からなかったわけではない。
「逃げよう」の一言はソヨンにも理解できる日本語だった。
問題は文脈だった。
なぜ突然、「逃げよう」と言いだすのか。韓国語で言われたしても理解できなかっただろう。
「何があったの?」
九一は呼吸が落ち着くのを待った。
そして全てを話した。
復讐のためにサキを殺したこと。
MB抗体検査の結果が後に間違いであると判明したこと。
犯人として知らない男が逮捕されたこと。
ところが、たった今、警察が九一のアパートを訪ねてきたこと。
「コンビニから帰ってきたら、部屋に警察がいたんだ。それで走って逃げてきた。ラッキーだったのかも知れない。部屋にいたら捕まってた」
ソヨンは九一の話しを時間をかけて理解した。
話が込み入っているため日本語で理解をするのに時間がかかったというのもある。
話し自体の衝撃もある。
しかし彼女は受け入れた。
話しを聞いて、だから九一を嫌いになることはなかった。
むしろ隠すことなく正直に話してくれたことで九一への想いはさらに深まった。
このことは彼以外に私しか知らない。
私を信じてくれている。
ソヨンは九一にキスをした。
それは一緒について行くと言う意思表示だった。
彼について行けば、日々を隠れるように生活しなければならない。
警察の目に怯え、いつ捕まるとも知れない不安を抱えながら生きなければならない。
にもかかわらずソヨンは九一と逃亡することを選んだ。韓国から来たソープ嬢の私を愛してくれる人。偏見を持たず一人の人間として私を扱ってくれた唯一人の日本人。
「ついていくから」
ソヨンは唇を離し、言った。
二人は額を合わせた。
「でもどこへ行くの?」
韓国に行ければとも思ったが九一はパスポートを持っていなかった。
「ソヨンは持ってる?」
「店に取り上げられた。逃げないように始めにパスポートを取り上げられるの」
「行き先は逃げながら考えよう。とにかく、一刻も早くここを出るんだ」
「え? 今から?」
「そう。警察がここを嗅ぎつける前に」
こうして九一とソヨンの逃亡生活が始まった。
(つづく)
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