あっ! 九一だ!


1.


玄関を入ると左手にドアが二つ並んでいた。手前のドアを開けると右側に洗面台と洗濯機、左側に浴室があった。


奥のドアはトイレだった。


突き当りがリビング、片隅に小さなキッチンが据えられていた。

典型的なワンルームのアパートだった。


たばこの匂いがした。

リビングの小さなテーブルの上に灰皿があり、ラッキーストライクの吸い殻が何本か残されていた。


今、部屋に漂うたばこの匂いは吸い殻から発せられるものでも部屋の壁に染みついたものでもなかった。

ついさきほどまで誰かが吸っていた残り香だった。

だとしたら、その誰かとは木口であると考えるのが妥当であり、彼はまだ逃亡していないことになる。


敷島は手袋をはめ、常に持ち歩いているビニール袋に吸い殻を二本つまんで入れた。


「敷島さん、何やってんすか。違法捜査で入手したって証拠品にはならないですよ」


青いヤギ青柳は本当にナイーブなマヌケだと敷島は思った。


いますべきことは違法だろうが何だろうがあらゆる手段を使って犯人を突き止めることだ。

合法的な証拠品なんて後からいくらでも集められる。

敷島はこれまでもそうやって捜査し、検挙率をあげてきた。


「おい、ヤギ。俺のやることにいちいち口出しすんな」


「だって俺まで違法行為に巻き込まれたんじゃたまったもんじゃないですよ」


「じゃあ帰れ」


二人が言い合いを始めたとき、玄関のドアノブが音をたてた。

二人は言い合いをやめた。

一瞬互いに顔を見合わせた後、玄関に注目した。


鍵がカタンと回る音がしてドアノブが動いた。しかし施錠の状態になり、ドアは開かなかった。

敷島は大家に隠れて!と指示を出した。

大家は慌ててトイレに隠れた。

次に青柳に合図を送った。

2人はすり足でドアに近づいた。

再度鍵を開ける音。

2人は息を殺した。

ドアが内側に大きく開かれた。

敷島と青柳はドアの影に隠れる形になった。

一人の若者が入ってきた。

が、気配を察したのか、足を止めて、首を横に向けた。

敷島、青柳と若者は一瞬目が合った。


その瞬間、若者、すなわち木口九一は走り去った。

彼は2人を警察だと瞬時に理解した。

逃げたからには自分が犯人だと認めたようなものだった。


「追え!」


敷島が青柳に叫んだ。


青柳は靴を履いて飛び出そうとしたが、買ったばかりの靴で革が固く手間取った。


「どけ、バカヤロウ!」


靴を履こうとあたふたしている青柳を敷島は蹴り倒した。

青柳はだるまのように玄関で転がった。

敷島は青柳を踏み越え、靴を履かずに九一を追いかけた。


「車を回せ!」


敷島はだるまに叫んだ。

九一はすでに階段を駆け下りていた。


区画整理された閑静な住宅街を45歳の敷島は19歳の背中を追って走り抜けた。

勝ち目のある勝負ではなかった。

敷島には体力も土地勘もなかった。


すぐに息が上がり、失速した。日頃の運動不足と喫煙と年齢のせいだった。


九一の背中は遠ざかるばかりだった。


背後でクラクションが鳴った。

青柳だった。

敷島は車に乗り込んだ。

あえぐように呼吸した。何もしゃべれなかった。


青柳はスピードをあげた。車はすぐに九一の背中を捕えた。

背後から迫りつつある車に気づいた九一は左に折れた。

青柳は急ブレーキを踏みハンドルを切り何とか曲がり切った。

九一は再び遠ざかった。


「あいつ足はやいっすね」


青柳はアクセルを踏んで加速した。


九一はときおり背後を振り返り、今度は右に折れた。


青柳は減速してハンドルを切ったが遅かった。曲がり切れずに角の家の門に突っ込んだ。

その衝撃で敷島は額をダッシュボードに打ちつけた。


「何やってんだバカヤロウ!」


「す、すみません!」


敷島は急いで車を降りたがすでに九一の姿はなかった。


敷島は運転席のドアがへこむほど蹴りを入れた。


車内では青柳が怯えていた。

容疑者を逃した反省よりも敷島に対する恐れの方が勝っていた。



2.


「このばかもの! 映画じゃないんだぞ!」


敷島と青柳の二人は署長室に呼び出されるなり、怒鳴りつけられた。


署長が声を荒げるのも無理はなかった。

偽造した捜査令状で容疑者宅に上がりこんだうえ、容疑者を車両で追跡中に民家の門に激突したのだから。

市民の安全を守る警察が、市民の安全を脅かしたのではシャレにならない。

そして肝心の容疑者は取り逃してしまった。


「敷島、今回ばかりはかばいきれんぞ」


敷島はうなだれたまま、何も言わなかった。


「きみたちを減給処分とし、さらに2週間の謹慎を命じる」


青柳は分かりましたというように頭を下げた。


「出ていけ」


二人は署長室を後にした。


部屋を出るとき、敷島は所長を振り返りはしなかった。青柳は振り返り、失礼しますと言って静かにドアをしめた。


署長室を出るなり、敷島は青柳の腹に拳を見舞った。


うっ!と青柳は腹を抑えて前かがみになった。


「てめえのせいだぞ、バカヤロウ」


「すいませんでした」


青柳は振り絞るように言った。


こうして木口の行方を見失った敷島は、女からの一本の電話を受け取るまで、自力で彼を見つけることはできなかった。


(つづく)

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