あっ! 九一だ!
1.
九一の不在を確認すると、敷島は大家に鍵を開けてもらった。
大家はマスターキーで九一の部屋の扉を開錠した。
この家宅捜査に法的根拠は全くない。
つまり違法である。
敷島は捜索令状を偽造した。
それを使って大家を騙し、鍵を開けさせ、今、九一の部屋に入り込んだ。
左手にドアが二つ並んでいた。
手前のドアは浴室、奥のドアはトイレだった。
突き当りに8畳ほどのリビング。
真ん中にテーブル、壁に本棚、スチールラックの上にテレビ、片隅に小さなキッチンが据えられていた。
典型的なワンルームのアパートだった。
たばこの匂いが残っている。
テーブルの上に灰皿があった。
ラッキーストライクの吸い殻が何本か残されている。
今、部屋に漂うたばこの匂いは吸い殻から発せられるものでも部屋の壁に染みついたものでもなかった。
ついさきほどまで誰かが吸っていた残り香だった。
だとしたら、その誰かとは木口であり、彼はまだ逃亡していない、つまりこの部屋に戻るだろうと考えるのが妥当だ。
敷島は白の手袋をはめた。
常時携帯しているビニール袋を取り出し、吸い殻を二本つまんで入れた。
「敷島さん、何やってんすか。違法捜査で入手したって証拠品にはならないですよ」
敷島はうんざりした。
青いヤギ青柳は本当にナイーブなマヌケだ。
いますべきことは違法だろうが何だろうがあらゆる手段を使って犯人を突き止めることだ。
合法的な証拠品なんて後からいくらでも集められる。
敷島はこれまでもそうやって検挙率をあげてきた。
「おい、ヤギ。俺のやることにいちいち口出しすんな」
「だって、これじゃ俺も共犯じゃないすか」
「じゃあ帰れ」
「こんなのおかしいですよ。俺たちは法の番人でしょう?」
「笑わせるな!法に従って犯人が捕まえられるか!」
敷島と青柳の口論が熱くなりかけたとき、玄関の扉が音をたてた。
二人は瞬時に沈黙し、顔を見合わせ、それから玄関に視線をうつした。
ドアの向こうで鍵を差し込む音がした。
木口だ!
隠れて!
敷島は大家に小声で指示した。
大家は慌ててトイレに隠れた。
敷島と青柳は玄関から死角になるようにリビングの壁に張りついた。
木口が気づかずに入ってきたところを取り押さえるつもりだった。
ドアが内側に大きく開かれた。
モンタージュ写真の若者だった。
彼は入ろうとして、足を止めた。
靴だった。
玄関に自分のものではない靴があった。(青柳と大家のものだった。敷島は土足で上がり込んでいた)
木口はそれだけで何が起きているのか理解し、走り去った。
逃げたからには自分が犯人だと認めたようなものだった。
「ああ、バカ!」
敷島は、こんな事態を想定せずに行儀よく靴を脱いだ青柳と大家に、そして2人が靴を脱いだことに気づかなかった自分に向けて叫んだ。
「追え!」
すでに敷島は飛び出していた。
青柳の方が玄関の近くにいたが、買ったばかりの革靴が固く、履くのに手間取った。
「どけ、バカヤロウ!」
あたふたしている青柳を敷島は蹴り倒した。
青柳はだるまのように玄関で転がった。
敷島は青柳をわざと踏みつけて外に出た。
「車を回せ!」
青柳に言い残して自分は走って木口の後を追った
閑静な住宅街を45歳の敷島は19歳の背中を追って走り抜けた。
勝ち目のある勝負ではなかった。
体力も土地勘も敵わなかった。
すぐに息が上がり、失速した。日頃の運動不足と喫煙と年齢のせいだった。
九一の背中は遠ざかるばかりだった。
背後でクラクションが鳴った。
青柳だった。
敷島は車に乗り込んだ。
あえぐように呼吸した。
何もしゃべれなかった。
青柳はスピードをあげた。車はすぐに九一の背中を捕えた。
背後に迫る車両に気づいた九一は左に折れた。
青柳は急ブレーキを踏みハンドルを切った。
タイヤが悲鳴を上げた。
何とか曲がり切った。
「あいつ足はやいっすね」
青柳はアクセルを踏んで加速した。
「ひいちまえ」
敷島が言った。あながち冗談ではなかった。
「軽くぶつけて、倒すんだ」
「今度は道交法違反ですか」
九一はときおり背後を振り返り、車との距離が縮まると今度は右に折れた。
青柳は減速してハンドルを切った。
が、遅かった。
曲がるにはスピードを出しすぎていた。
車は角の家の塀に激突した。
シートベルトをしていなかった敷島はその衝撃で額をダッシュボードに打ちつけた。
「何やってんだバカヤロウ!」
敷島は、青柳の頭を引っ叩いた。
「す、すみません!」
二人は車を降りたが、すでに九一の姿はなかった。
敷島は怒りのあまり運転席のドアに蹴りを入れた。
新たなへこみが一つ加わった。
2.
「このばかもの! 映画じゃないんだぞ!」
敷島と青柳の二人は署長室に呼び出されるなり、怒鳴られた。
署長が声を荒げるのも無理はなかった。
偽造した捜査令状で容疑者宅に上がり込み、容疑者を車両で追跡中に民家の門に衝突した。
市民の安全を守る警察が、市民の安全を脅かしたのではシャレにならない。
そして、散々に違法行為を繰り返したあげく、肝心の容疑者は取り逃してしまった。
「敷島、今回ばかりは
敷島はうなだれたまま何も言わなかった。さすがに返す言葉がなかった。
「お前たちを減給処分とし、さらに2週間の謹慎を命じる」
申し訳ございませんでした、青柳は深々と頭を下げた。
「出ていけ」
二人は署長室を後にした。
廊下に出るなり、敷島は青柳の腹に拳を見舞った。
「うっ!」
青柳は腹を抑えてうずくまった。
「てめえのせいだぞ、バカヤロウ」
「すいませんでした」
青柳は声を絞り出して謝罪した。
こうして木口の行方を見失った敷島は、自力で彼を見つけることはできなかった。
女から一本の電話を受け取るまでは…
(つづく)
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