石垣島エレジー

九一とソヨンがヨナミネ農園で働き始めて1ヶ月が経とうとした頃だった。

ソヨンが体調不良で休みがちになった。


ヨナミネ夫婦はすぐにつわりを疑い、案の定、その通りだった。


ヨナミネと九一が畑に出ている間、ソヨンが妻を訪ねてきて、拙い日本語で事情を説明した。妊娠したこと、つわりがひどく仕事ができないこと、最後に迷惑をかけて申し訳ないと謝罪があった。


迷惑だなんて、めでたいことなのだからと妻は応じた。ゆっくり休んで栄養とって元気な赤ちゃんを産みなさい。


ソヨンが妊娠してからというもの九一は極端に無口になった。元々、口数の多い方ではなかったが、挨拶をする以外はほとんど声を発することがなくなった。

ソヨンの妊娠や体調についても九一の口から語られることはなかった。

ご迷惑をお掛けします、お世話になります、よい父親になります、、ますます仕事に精を出します等、一切なかった。

ヨナミネがソヨンの妊娠を知った次の日、九一に、かみさん大事にしてやれよと声をかけた時も返事はなかった。

妻の妊娠はタブーであるかのように黙殺していた。


ソヨンの妊娠が判明してからと言うもの、ときおり離れから二人の怒鳴り合う声が聞こえるようになった。

最近特に寡黙な九一が声を荒げてソヨンをののしっていた。ソヨンもヨナミネ夫婦には分からない言葉で叫んでいた。

お腹の子にさわるので止めるように妻はヨナミネに言ったが、夫婦の問題には立ち入らないというのがヨナミネの経験則だった。


ある日のことだった。

その日は朝から雨が降り農作業は休みだった。

ソヨンが一人でヨナミネの家を訪ねてきた。

すぐ側に住んでいるとは言え、体調が思わしくないソヨンは家に篭りがちだった。

妻が彼女を見たのは久しぶりだった。

玄関先に出て驚いたのは、すでに膨らみを持ったお腹ではなく、腫れあがった左瞼を見たときだった。


「その顔、どうしたの!?」


妻が思わず大きな声を発したとたん、ソヨンは両手で顔を覆い、わっと泣き出した。


「とにかく上がって」


妻はソヨンの肩を抱くようにして、廊下の突き当りにある食卓まで連れて行った。椅子をひいて、ゆっくり座らせた。何度か背中をさすってやり、落ち着くのを待った。

ソヨンは顔を手の平で覆い、うつむいていた。泣くのを堪えようとして身体が小刻みに震えていた。

妻は玄関脇の階段下まで行き、上に向かって声を上げた。


「お父さん、ちょっと!」


間もなくヨナミネが2階から降りてきた。


なんだなんだ、と面倒くさそうに顔を出したが、泣いているソヨンを見て、慌てふためいた。


「ど、どうした!?」


ソヨンは顔を手で覆い、むせび泣くばかりで返事をしなかった。


ヨナミネはニシノと何かあったのだとすぐに悟った。

ヨナミネ夫妻はソヨンが落ち着くのを待った。

妻はソヨンの背中をゆっくりと撫で続けた。


しばらくしてソヨンは顔を手で覆ったまま何度か深呼吸をし、手の甲で涙をぬぐった。

妻はティッシュを差し出した。


腫れあがった瞼は涙に濡れたせいで赤みが増し余計に痛々しかった。

誰にやられたか、聞くまでもない。

あいつはいないのかとヨナミネがたずねると、たった今出かけたと言う。


「カレがいたらこれない。でかけるの待って来た」


ソヨンはティッシュで涙をぬぐいながら答えた。


「ワタシ、コドモ産みたい。カレ、コドモいらない。それで毎日ケンカしてなぐられる、もうがまんできない…」


ソヨンは再び泣き始めた。


妻はまたソヨンの背中をさすった。


「母親が悲しむとお腹の子によくないよ」


ヨナミネは腕を組み、目を閉じた。

事の深刻さを推し量りつつ、これから先どのように対処すべきかを考えた。

ソヨンの咽び泣きが耳に届く。

ヨナミネは目を開けた。

意を決して言った。


「産みなさい」


ソヨンは手の平に顔を埋めたままだった。

妻は何も言わなかった。

彼女は夫の言う事に従うつもりだった。

これまでもそうだった。

ヨナミネは言葉を続けた。


「母親が産みたいなら産むのは当然だ。あいつが育てたくないなら、かまわん。私らがついてる」


ソヨンは顔を上げた。

指先で涙を拭った。

妻がティッシュを抜いて渡すと、それを目に当て、涙を拭き取った。


ソヨンはヨナミネに顔を向けた。

涙と殴打の跡が痛々しかった。

何か言いたいことがあるようだった。


「どうした?」


ヨナミネは促した。


「言いたいことがあるなら遠慮なく言いなさい」


ソヨンは視線を逸らし唇を固く結んだ。

言うべきかどうか迷っているようだった。


「心配しなくてもいい。君と赤ん坊は私らが守る。私らを実の親だと思って何でも言いなさい」


ヨナミネのその言葉にソヨンは意を決した。


「ケイサツと話せますか」


「ケイサツ?」


意外な言葉にヨナミネは面食らった。

ソヨンが「ケイサツ」の意味を正しく理解しているのか確かめるように繰り返した。


「あいつの暴力を訴えるのか?」


「ワタシ、お腹のコまもりたい」


「それならウチに来たらいい。ここに寝泊まりしたらいい。こうなった以上、あいつには出ていってもらう。妊婦を殴るなんて人間のすることじゃあない」


「そうなんです。あの人はニンゲンじゃないんです。ワタシ、ここにいたらあいつにきっと殺されます。だから、ケイサツをよんでください」


「殺すなんて、なんてこと言うの」


妻は嗜めるように言った。


「いえ、カレはきっと殺す。だって前にも人を殺してるから」


(つづく)

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