何故私はこのような物語を書いているのか

私はよくネットに自身の考えを書くことがままある。その時に決まって思うのだ。


何を偉そうに考えてみれば当たり前のようなことを。と。


しかし、知り合いにも奇特な方がいたようでそのような内容にも反応する人がいる。私はそれをありがたく頂戴させて頂いて視野を広げようと試みる。


が。感動が大きくないと数日の内に忘れ去るのだ。これは相手に対して失礼に当たる。必死に覚えようとするのではなく、体に染み付くほどの感動。コレがないと人はその瞬間の出来事を覚えられない。私はそう思う。精神に植え付けるほどの感動がほしいのだ。


この感動が恐怖になるとトラウマ。怒りになると恨みになる。被害者は加害者よりも深く根に持つのはこの恐怖と怒りによって覚えているのが全員だろうと思う。現に、俺は小学校時代の怒りを少なからず覚えている。親に面倒をかけさせたのならば、尚更。しかし、自制心を働かせられるくらいには時が経っているので幼い頃の競争心なりなんなりが起因してあのような行動に出たのだろうと憶測を立て、落ち着け、流すのだ。


ここまで考え始めると小論文にしてみるのも面白いかもしれない。などと考えるがその考えを却下する。文にするにしては文才もなく、話も大いに飛躍しやすい。要は、そのことに関して考えていても飽きて他の題材に飛ぶからだ。しかも、全く関係の無い方向に。この飛躍は私と会話してる人ならばいつもの事だと思ってくれる人が多いだろうが、書物にするなら別だ。初めて私と一方通行の会話をするのに飛躍しすぎて追いつかない人もいるのだ。受け付けない人はかなりいる。そのため私には深い関係親友 が少ないのだ。そして、私はアホらしいと思いながら眠りについた。

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厨二病患者 雪原 剛志 @Snowman

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