第26話 完幕 子蜘蛛と※※※※※※※
そこは、暗い洞窟の中だった。
ツララのように伸びる鍾乳石から水が滴り、岩がむき出しになった地面は常に濡れている。淡く壁が光っているのは、コラキ大陸で取れるという、光石と呼ばれる濡れると発光する鉱石が含まれているからか。
「…………ク……ッ」
淡い光に照らされ、影が動く。
上半身は人間の、下半身は丸く大きな、蜘蛛の姿。
「サージャオ様! 起きたのですね!」
そこに、もう一つの影が重なる。
その影はサージャオと呼ばれた蜘蛛とは違い、人間と同じ姿をしていた。
「ここ……は……?」
「砦からさほど離れていない洞窟の中です。人間どもには見つからない場所にありますので、ご安心ください」
蜘蛛の少女――サージャオは、目の前で心配そうな顔をしている侍女を見る。
「ワタシを、助けてくれたの?」
「はい」
返事は一言だけ。だが、サージャオにはそれで十分だった。
侍女に手を伸ばそうと腕を動かそうとしたところで、自分の体の状態を理解する。
伸ばそうとした右腕は肩から抉れ、脚は三脚しか残っていない上に、一本は半ばから折れている。ぼやけた視界が気になり残った左手を顔に当てると、右側には包帯が巻かれている。
「ボロボロだね、ワタシ……。ここまでどうやって運んだの?」
「それは内緒です」
「一度目のときも、そんなことを言ってたね」
一度目とは、十年前にザフィージェの亡骸と共に炎に包まれようとしていたサージャオを、侍女が助けたときのこと。
サージャオは左手で侍女の手を握った。十年分の感謝を込め、強く。
「ありがとう……ワタシはオマエに助けられてばかりだ」
「いいのです。いいのですよ」
サージャオの手を握り返し、侍女は真っ直ぐにサージャオの顔を見据える。
「そんなことは、どうでもいいのです」
侍女は変わらず微笑を浮かべている。しかしサージャオは、その微笑に恐怖を感じてしまう。
「それは……どういうこと……?」
「サージャオ様がこれからどうするのか、気になるだけですよ。またトキレムを襲いますか? それとも、サージャオ様を傷つけた者を追いますか?」
二択の選択肢。襲うか、追うか。
サージャオの体の調子など気にもせず、侍女は主に迫る。瞳に狂気はない。しかし、疑問も持っていない。
「ま、まって。まずは傷を癒す。それから考える。それじゃダメなの?」
「そうですか。すぐには動かないんですね……」
動かないわけではない。動けないのだ。三本の脚では満足に動くこともできず、見る景色はぼやけたまま。そんな状態で、どうするのか。
「――なーーーーーーーんだ。つまんないのーーー」
唐突に侍女が放った言葉は、サージャオを凍りつかせるに十分なものだった。
つまらない。つまらないつまらない。つまらないつまらなつまらない。侍女は何度も繰り返す。
「楽しいことがまだあるかなーって思ってせっかく運んできたのになー。どうせなら今すぐ襲いにいくぞーとか言ってくれればいいの。わかってないなー。そんなんだからつまんないんだよ。傷付きながらも復讐に向かうとか、楽しくない? あれ、楽しくないっぽいね。顔色悪いよ。紫色してる。蜘蛛だからかな。蜘蛛ってさ、なんか紫色のイメージない? 違うかな。黒とか赤かな。青はないよね」
「お、おい……」
普段の侍女からは想像ができないほど、口調も、性格も、なにもかもが違う。
侍女はサージャオの言葉を無視し、矢継ぎ早に話し続ける。
「いやまーね、こうなるんじゃないかなーっては思ってよ。でも想像どおりすぎて余計につまんない。ないなーい。別にいいよ? 所詮かませだしねー、キミ。でもこんな簡単に諦めるなんて、ないないだよ。そうそう、キミが戦った二人だけど、あれってキミの母親を殺したのと同じ選ばれた奴らなんだよ。なのにキミ、途中で諦めちゃうとかどういうことなの。穴があったで人がいたでしょ? あれって勇者なんだ。御伽噺でね。話したことなかったっけ。ないかな」
サージャオは侍女を、ただただ見ていた。見て、思ってしまった。
「オマエは、誰だ……」
目の前の女が、本当に十年間、一緒にいた侍女なのかわからなってしまったのだから。
「誰だって……えー!? 知らないの? 十年も一緒にいたのに。母親代わりしてあげてたのになー。誰だとか言われちゃった。十年無駄にしたかなー。誰かの下につくなんてなかったから新鮮で楽しかったけど、それだけだったよねー。料理スキルとかちょー上がっちゃった。ちょーって古いかな。どうでもいいかー」
侍女の体が、水面に石を投げ込んだように揺らぐ。揺れて、揺れて、消えて、現れて、欠けて、分裂して、増えて。そして、ようやく揺らぎが納まる。
その姿は少年のようにも、少女のようにも、老人、老婆にも見えた。どの姿も、サージャオは見たことがない。見えているのかも、怪しい。
「※※※※※※※!」
「あ、検閲検閲。それ検閲ね。勝手に人の名前よばないでよねー」
サージャオの発した言葉は、風も吹いていない静寂な洞窟の中で、ノイズで掻き消された。ノイズの発生源は、サージャオ自身の喉。まるでチューニングの合っていないラジオのように、ノイズしか口から吐けなくなる。
「壁に耳あり障子にメアリー。これね。あっちの世界の諺なんだって。誰が聞いてるかわからないからねーって意味。ここには誰もいないけど。だから喋らないでよ。あー、でもキミが外に出たりしたら、面倒なことになっちゃうかなー。教育ママになって、文字とかも教えちゃったからねー。なっちゃうよねーきっと。どうせなら玩具にして遊ぼうかと思ったけど、ここで捨てたほうがいいかな。あっ、元から玩具だった」
なぜそんなことを言うのか。かませとはいったいなんだ。玩具とはどういうことだ。ワタシを騙していたのか。
いくら叫んでも、サージャオの口からは不快なノイズしか出てこない。たとえ声が出ていたとしても答えを得られるかは疑問だが、それでもサージャオは叫ぶしかなかった。
「同じ玩具を次も使うってのはセンスがないよね。新しく考えなきゃ。そうだ。洞窟っていったけど、実はただの空洞なんだよねーここ。つーまーりー、出口はありませーん。じゃあ――失礼します。サージャオ様。またお会いしましたら、声をおかけください。お料理をご馳走いたしますので」
侍女は頭を下げると、サージャオの前から煙のように掻き消える。
「…………………………」
置いていかれた。一番信用していた部下に。育ててくれた恩人に。……母親だと思っていた相手に。
子蜘蛛が、壊れてゆく。
「※※※※※……」
小さく響くノイズ。
だが、そのノイズを聞く相手は誰もいない。
子蜘蛛の言葉は、流れる水と共に、地の底へと流れていった。
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