第18話 絶望の矛先
狭い個室の中に、目に染みる酸っぱい刺激臭が充満する。その臭いの元はわかっている。たった今、俺の中から出てきた内容物だ。
「は、ははっ……きっつ……うぶッ!? ヴォエェェェェェェェ!!」
胃は空っぽのはずなのに、吐き気が止んでくれない。プラスチック製の便座に手をつき、ピンク色が混ざった胃液を口から搾り出す。鼻の奥が逆流した胃液によりジクジクと痛み、鼻水が止まらない。目からも、痛みと刺激臭で、涙がボロボロとこぼれ続けている。
「シオン! 大丈夫なの!?」
トイレの外でリッカが心配そうな声を上げている。
「も、もしかして食中毒!? だったら救急車呼ぶよっ!?」
「はぁ、はぁ……ち、違うから心配すんな」
救急車なんて呼ばれては堪らない。
これは、体が不調だからじゃない。いうなれば心因性。悲鳴を上げているのは、心のほうだ。病院に行ったからって、どうにかなるもんじゃない。
「で、でも! わたしが作ったご飯が原因だったりしたら」
「だから違うって言ってんだろ。人の話を聞け」
トイレの水を流し、吐き気を我慢してドアを開ける。心因性なんだから、気合や根性でどうにかできると、自分に言い聞かせる。
「動画を漁ってたら、ちょっと洒落にならないくらいのグロ動画を……うぶっ……見つけちまってな」
「そんな、青い顔して吐くくらいの? リビングでテレビ見てたら、急にトイレに入っていって、そんで吐き出して……ビックリした」
「顔面蒼白になって吐くくらいの、だ。リッカも見てみるか?」
「や、やめとく……」
「それがいい」
俺が見たのは動画じゃないし、見せられるもんでもないけどな。
「救急車より胃薬のほうが欲しい。吐き過ぎて胃が痛い」
「胃薬ね? わかった!」
リッカはリビングに戻ったかと思うと、すぐに二階に上がり、服を着替えて下りてくる。着替えたといっても、着ていたジャージに上着を羽織っただけだけど。
「薬箱の中に胃薬なかった。駅前の薬局はまだやってる時間だし、買ってくる」
「あ、いや。そこまでする必要は」
「いいからシオンは部屋で寝てなさい! 三十分くらいで戻ってくるから!」
止める暇もなく、リッカが玄関から出て行ってしまった。まったく。夜なんだし、わざわざ駅前になんて行くことないのに……
「っても、大人しく寝てるわけにもなぁ……ああ、戻りたくない……」
台所で水を一杯飲み、階段を上がる。だが、階段を上る足取りが重い。思い出すだけで、胃の辺りがギュっと縮んでくる。でも、戻らないわけにもいかない。これ以上、みっともないところを見せるのも癪だ。
「……うっ」
部屋のドアを開けた瞬間、焦げた木の臭いが鼻につく。息を止め、窓を急いで開ける。これで臭いは多少マシになるだろう。火災報知機が反応しなくてよかった。
「戻ってきたのか」
「すまん。カナリだけ置いて」
「いーよ。ありゃーキツい。逆に、よく戻ってきたって感じ」
カナリは一人、騒然とする街門前の広場を、壁に寄りかかり端から見ていた。
俺と会話するカナリを気にしている人など、広場には誰もいない。そんな余裕が、誰のもないんだ。
「……魔物は?」
「とっくに引き上げたよ。最後にサージャオが現れて、あっさりと」
「そっか……」
服の隙間から見る広場には、昼間の面影がまるでなくなっていた。
街門近くにあった家の壁は崩れ、広場で果物を売っていた露店は火事で焼け焦げている。住人の顔に笑顔はなく、悲痛な面持ちで広場を走り回っている。動いていないのは、現状が理解できず悲嘆に暮れた住人と、物言わぬ死体へと変わり果てた人のみ。
「……たった一時間でこれかよ……」
俺とカナリが外の丘で魔物を見つけて、街に戻ってからすぐに、数十体の魔物が街に押し寄せてきた。ブラッドリザードにウォーウルフ。スライムもいた。
「うっぷ……!」
「おい、大丈夫かよ」
「あ、ああ。大丈夫だ……」
喉を上ってくる胃液を、なんとか飲み込む。
沢山の人の生活が、無数の人の命が、魔物によって奪われた。
――街に戻ったカナリは、門番に門を閉めるように言い、教会に騎士を集めるように伝えて広場に戻った。だが、その頃には、広場はすでに魔物に蹂躙されていた。門番なんかの自警団や警邏をしていた教会騎士も魔物と戦っていたが、多勢に無勢。すぐに応援の教会騎士も駆けつけたが、隊列もなにもなく、けっきょく始まったのは乱戦。その中で、カナリも住人の避難や救助を手伝っていた。
そのときだ。
カナリの目の前に、歪なボールが転がってきた。最初は、ソレがなにかわからなかった。頭が真っ白になり、そして、俺と目の合ったソレが、広場で会ったコリッソの部下の一人だと気付いたときには、口を押さえてトイレに駆け込んでいた。トイレに間に合ったのは、ほとんど奇跡だろう。
「監視じゃなかった。魔物は本当に襲ってきた。……でも、なんでだ? なんで引き上げた」
薄目で確認した広場には、魔物の死体はほとんどない。被害は圧倒的に街側が多い。なのに、なぜ一時間で引き上げたのか。引き上げたこと自体は喜ばしいことだが、腑に落ちない。
「警告……とは違うな、宣告だ。これから、街を絶望に突き落とすぞっていう。サージャオが現れて最後に言ってた。『昼も夜も、安息はないと思え』ってな」
「絶望の宣告ってことかよ。くそっ」
「終わりが見えない分、死ぬより
終わりが見えないというのは、それだけ絶望が続くということ。
生きているなら希望を持て。言うのは簡単だが、そんなことを言えるのは、
「――――ッ! ――――だッ!!」
「ん? なんだ?」
カナリが、広場の中心で騒いでいる男を見つけた。胸に黒い荷物を抱いた男は、近くにいた教会騎士に囲まれ宥められているようだが、関係なしに騒ぎ続けている。それどころか、男は騎士に掴みかかり、騒ぎはどんどん大きくなってゆく。収まる気配がない。
その騒ぎの中、一人の騎士がこちらに近づいてくる。
「もしかして、サラか?」
騎士は目の前までくると、煤で汚れた傷だらけの冑を脱ぐ。そこからよく見知った顔が出てきた。
「よくわかりましたね。これはやっぱり、愛の力でしょうか!」
「いや~、それはどうかな~……」
「それは残念です。でも、私は諦めません……って、こんな話をしてる場合じゃないです。シオンさんはいますか?」
「……え? あ、俺?」
まさか俺に用があるとは思っていなかったので、返事が遅れてしまった。
「いるんですね。なら、ここからすぐに離れてください」
「な、なんで」
「いいから早く!」
「お、おい。サラ」
サラちゃんは急かすようにカナリの背中を押して進む中で――
「――あのクソ勇者のせいだ!!」
男の大声が、広場に響いた。
勇者という言葉に、体が凍りつく。
「ザフィージェなんて倒さなきゃよかったんだ!」
「お、おい! 黙らないか!」
「うるせぇ! お前ら教会の奴も同罪だ! あのわけのわからねぇ、穴の向こうで指図してただけのクソ勇者に従いやがって! ザフィージェがいた頃でも、あんなに魔物が街にくることはなかった! そうだろ、みんな!!」
男の言葉に、広場が静まり返る。だが、次の瞬間には、男の怒りが広場に伝染してゆく。
「そ、そうだ! ザフィージェを倒さなけりゃ、こんな酷いことは起きなかった! 勇者のせいだ!」
「そうよ! あの勇者のせいよ! 十年前のままでも、わたしたちは生きていけたのよ!」
感染した怒りが、次々に
「俺の親父は、十年前の戦いに参加した! そのせいで死んだ! 親父が死んで、それでも、ガキだった俺はがんばって生きてきたんだ……! お袋と二人で生きて! どうにか嫁ももらって! なのに、なのに今日、俺の、俺の娘は……ッ!!」
男が泣きながら、胸に抱いた黒い荷物を抱きしめると、ボロリと、黒い棒が地面に落ちる。棒の端に、五本の細い枝の生えた、炭が。
「……ぐぶッ!?」
今度は、我慢ができなかった。水なんて飲まなきゃよかった。おかげで机の上が大惨事だ。
「カナリさん……」
「ああ。……宿に戻るぞ、シオン……」
俺は返事もできず、ゴミ箱に頭を突っ込んでいるので精一杯だった。
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