文月の十一日あまり、夏空の下、宴せさせたまふ
第31話 その後のこと
「おばあちゃんが、なんで怒ってるか分かるわね、真琴」
それは、未だかつて感じたことがないほどの迫力だった。
前方からビンビン伝わって来る怒りのオーラ。なんとか目を合わせてみようと試みるが、不思議な力によって身体が押さえ付けられているようだった。
「す、すみませ……」
「すみませんで済んだら警察はいらないの!」
ばん、と思いきり机を叩かれて、文字通り身体が飛び上がるほど驚く。人生で感嘆符付きで叱られるのは生まれて初めてのことかもしれない。自慢じゃないが、俺はやんちゃな悪戯もして来なければいわゆる反抗期もなかったチキン野郎だ。教師にもばあちゃんにも叱られたことがない。面と向かって怒鳴られるということが相当な精神防御力を必要とするものなのだと知るのが、まさか二十七の夏だとは。
しばしの沈黙の後、ひたすら震え上がる俺に呆れたのか毒気を抜かれたのか、ばあちゃんはため息を吐く。後ろの椅子を顎で示し、「お掛けなさい」と静かな口調で告げた。
「……まったく、こんなことあなたがするなんて思いもしなかったわ。たまたま近くを通りかかった田中先生がテストの監督をしてくださったから良かったものの、いったいどうやって収集をつけるつもりだったの」
近代文学担当の田中先生は文学部における唯一の男性教授で、いつもどんな状況でも朗らかに微笑んでいる優しいおじいさまだ。まるで阿鼻叫喚のごとく騒いでいた大教室を静め、とりあえずテストを受けましょうと促してくれたらしい。
「ほっほっほ、学生も講師も元気が一番」
そう言って回収したテストを持って来てくれた時、俺は人目も憚らず土下座をしたものだ。
『監督責任を放棄し、女子学生の一人をテスト時間にも関わらず連れ出した』。
すべてが終わったと覚悟して迎えた翌日、明らかになった俺の罪はその二点だけだった。百五十人以上の前で晒したウィッグと短髪の件はどこに行ったかと言えば。
「まこっちゃん、彼氏にフラれたんだって! ウィッグで隠してたけど、ばっさり髪切っちゃってたらしいよ。しかも彼氏横取りしたのが北山さんって話! 超修羅場じゃない?」
……そう吹聴してくれたのは件の山田嬢だったと、佐伯さんが教えてくれた。
まことしやかに流れた噂は日文一年のみならずキャンパス全体に広く知られるところとなり、俺は変態女装野郎ではなく学生に彼氏を奪われた可哀想なアラサーという予想外のレッテルを貼られることになった。
……どちらにしろ不名誉極まりないが、俺の社会的肩書は守ることが出来た訳だ。
「理事長にもご報告はしたけど、お咎めはなしですって。ただし今後同じような真似をしたら容赦なく査問委員会行き、とのことよ」
「……はい」
怒り疲れたらしいばあちゃんは目頭を揉むような仕草で背もたれに寄りかかる。どれだけ心配と迷惑を掛けたことか。その心労を慮って項垂れてしまう。
「……本当に、ごめんなさい」
「もういいわ」
顔を上げて、とばあちゃん。優しい瞳が俺を見つめる。
「今回は運が良かったのよ」
「うん、分かってる」
「おばあちゃんの寿命を縮めたくないなら、もう二度しないで頂戴」
「……肝に銘じます」
ばあちゃん子にとってのキラーワードで釘を刺され、ようやく俺は解放された。たかだか十分かそこらのお説教だったが、二、三才歳を取った気分だった。
講師室に戻ると、そこには本村さんと雪先生、そして何故か兵頭が待ち構えていた。呼び出されたことを知って帰りを待ってくれていたらしい。
「光瀬先生!」
「ねぇ、学長なんだって?」
「辞めねーよな、な、辞めたりしねーよな?」
涙を浮かべた本村さんが俺の姿を見るなり飛びついて、遅れて二人が心配そうに尋ねる。
心配を掛けてしまったのはばあちゃんだけではなかったらしい。申し訳なくも、どことなく面映い気持ちでピースサインを作った。
「……お咎めは、なしだそうです」
「良かったぁ!」
「ああ、安心した」
「うおお、マジで腰抜けっかと思った……」
俺のしでかしたことを知って、三人は事実関係が明らかになる前から関係各所に働きかけてくれていたらしい。
「理由もなく職務を放棄する人じゃないです」「きっとなにか事情があったはず」「あいつマジでいい奴なんです」。
……果たしてどれくらいの信憑性を持って聞き入れてもらえたかは分からないが(特に最後)、それでも三人おかげで俺の株は大暴落を免れた。山田嬢に引き続き感謝をしなくてはならない。
「でも、結局ほんとのところはなんなの? やっぱりオトコ関係?」
「あー、ええと……」
「もう雪先生! いいじゃないですか、プライベートなことなんだから」
「だって聞きたいじゃない、真琴ってほとんど自分のこと話さないんだもん」
「タイミングっていうものがあるでしょう、まったく」
はぁい、と雪先生が肩を竦めつつお返事をする。興味の矛先は今度は俺の頭だ。
「ねぇ、それもウィッグなんでしょ?」
「はい。これ以上学生を動揺させないためにもほとぼりが覚めるまでは付けておけって指示で」
「本物みたいですよねぇ。ショートカットも素敵だったけど光瀬先生にはやっぱりロングのイメージ」
「そ、そうですか?」
実は二人には、ショートカット……というかウィッグを取っていた現場を見られてしまった。授業終了後、いつものように二人が講師室に戻って来ると、室内には何故か髪の毛の短い俺と涙目の北山さんがびしょ濡れの状態で膝を突き合わせていた。悠に十秒は無言で見つめ合う時間があって、雪先生の第一声は、「真琴、髪の毛どうしたの」だった。
ウィッグを外しても男だと見破られなかった。それを喜ぶべきか悲しむべきかは、俺には高度過ぎて判断が難しいところだ。
胸の辺りでウィッグの毛先を弄ぶ本村さんから慎重に距離を取りつつ、兵頭に視線で合図を送る。なんとへかしてくれ、へいへい。言葉のないそんなやり取りを交わすと、いつも以上にへらりとした顔で兵頭が本村さんに近付いた。
「ねぇ葵ちゃん、せっかく光瀬もお咎めなしだったことだし、一緒に飲みに行かない?」
「行きません。あなた、無関係じゃないですか」
距離に比例して刻まれる眉間の皺。相変わらずの毛嫌いぶりだ。
「ひどいなー、無関係じゃないって。光瀬はトモダチだもん」
「兵頭君の女子のカテゴリーの中にトモダチがあるなんて知らなかったわ」
「ありますよ! よっぽど範囲外じゃなきゃ活用されませんけど」
「あら、じゃあ真琴は範囲外ってこと?」
「そうみたいですね」
「ひどい、最低」
「最低ね」
「最低ですよね」
「えっちょっと待ってなんでなんで」
今後の秘密保持並びに関係改善好感度上昇に向け、俺たちが同級生だったことを二人にも知らせようと言い出したのは兵頭だ。メインの理由は確実に後者(しかも特定の一名)だが、それでも俺に反論はなかった。秘密保持という観点での同意は勿論、正体を偽る罪悪感は仲が深まる度に大きくなって、少しでも二人につく嘘を減らしたかったというのも本音だった。
もしいつか正体がバレて罵られる日が来たとしても、せめてそれまでは、同僚として向けてもらえる信頼の眼差しに応えられる人間で居たい。
……なんて、ちょっと青臭いだろうか。
「本村さん、雪先生」
「はい」
「なぁに?」
「……本当に、ありがとうございました」
何度目になるか分からない礼を口にする。
もういいって、と笑い飛ばしてくれる仲間が居てくれることのありがたさ、それを噛み締めながら、俺はもう一度深々と頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます