第30話 虹の向こう
「……あんな約束のことなんか、覚えててほしくなかったんです」
一頻り泣いて落ち着いたのか、彼女はゆっくりと話し始める。
逃げたりしませんからと約束して、学生課からタオルを二枚借りてくる頃には彼女の呼吸は落ち着いて、頑なだった表情にも少し柔らかさが戻っていた。
「だって昔会ったことがあるなんて知ったら、先生はばかみたいに気にするでしょう?」
「ばかって……」
確かにばかみたいに気にしたし動揺した。忙しさも相俟って熱まで出た。正直にそう白状すれば「ほらね」と彼女が困ったように笑う。
「……君は、すぐに俺だって分かったの」
「そうですね。すぐに気付いたから、絶対にバレないようにしようって思いました」
「どうして」
「恥ずかしかったんですよ。あんなの単なる我侭ですもん。優しくしてもらったお兄さんとのお別れが寂しくて、聞き分けのない子供がただ駄々をこねただけ」
「そんなこと」
「あるんです。少なくとも、私にはそうだった」
だって、昔は男の子みたいだったから。恥ずかしそうに彼女は俯く。
『また必ず会いに来る』
小学校を卒業するくらいまでは、純粋にその約束を信じていられた。一向に訪れのない来訪者を待って、どうして来てくれないのだろうと恨んだりしたこともあるという。
しかし、成長と同時に彼女は悟った。所詮は幼い頃の口約束だ。守られると思うこと自体が間違っている、と。
恐らく最初は自己防衛の一種だったのかもしれない。しかし年齢を重ねるにつれ、彼女はあんなことを口にした自分自身を恥じるようになった。
いわゆる黒歴史ってやつです、と自嘲する。
「大学生になってみて、先生の気持ちが分かったんです。例えば今私が小学生の男の子と再会の約束をしても、きっと忙しさにかまけて忘れちゃう。でもそれはきっと仕方ないことなんです。だって、流れている時間が違うんだから」
「……」
「先生が私を覚えていないなら好都合だと思いました。だって、その方がイチから関係を築けるでしょう?」
「……イチから築いて、下僕?」
「なにか文句でも?」
「いえ、特には」
恨んでいないとは言いつつ、やっぱりちょっとは恨んでいたんじゃないだろうか。……まあ別にそれでも構わなかったんだけどなんて、本人には到底言えやしないのだけれど。
順調に過ぎて行く日々の中、ある日俺が高熱を出して倒れた。
兵頭の言う通りすぐに駆けつけてくれた彼女は、慣れないお粥を作ったりたまに首回りの汗を拭いたりと様々に看病をしてくれた。熱で浮かされていた俺に呼ばれ水を飲ませると、朦朧としていた俺は、彼女を兵頭だと思ってぽつぽつと話をし始めたのだという。
「迷惑してるって、言ってました」
「……俺が?」
「約束も覚えてるって。これじゃ、逃げられないって」
「……いや、それは多分」
鮮明には覚えていないが、おそらくそれは彼女に対してではなかったはずだ。彼女の真意にも気付かずのほほんと過ごしていた俺自身への言葉だったように記憶している。逃げられないのは彼女からではなく、気付きたくなかった余計な気持ちに。
弁解しようとすると、恥ずかしそうに彼女が手を振る。
「いいです、もう。勘違いだってなんとなく分かりましたから。でもその時は、もう終わりにしよう……終わらせてあげなくちゃって、思ったんです」
ここが潮時、そう判断した彼女が取った手段は最早言うまでもない。
証拠画像を消去して、一方的に関係解消を叩き付ければそれでおしまい。元々理不尽な関係を敷いていたのだから、離れるのは簡単だと思っていた。
「……なのにまさか、こんなことになるなんて」
計算高い彼女のただひとつの誤算。それは、俺がなりふり構わず彼女を追いかけたことだ。膝の上で俺のタオルを彼女が握る。水分を吸ってすっかり冷たくなってしまったであろうそれを、彼女は何故か手放そうとはしなかった。
「残念だったね、終わりに出来なくて」
軽口を叩くとじろりと恨みがましい視線で睨まれる。
「本当ですよ。先生はばかです。せっかく私から離れてあげたんだから、知らん顔して講師をやってれば良かったのに」
「……」
「こんなことしてまで私のことを追いかけて、本当にばか」
「地味に傷付くから、そんなにばかばか言わないでくれる?」
「ばかばか、ばーか」
もう間もなく授業時間は終わる。
とんでもない置き土産を残して放置してしまった教室は今どうなっているだろうか。知識を試すペーパーテストというよりは論文に近いのでカンニングの心配はないが、そんなことよりも心配なのは俺と北山さんがどう噂されているかということだ。俺はもう変態女装講師のレッテルは確定だろうが、彼女まで仲間だと思われては気の毒だ。
……きっと、ばあちゃんからすごく怒られるんだろうな。
相当お金遣わせて女装の手筈を整えて貰ったのに、恩を仇で返す形になってしまった。自分の行動に後悔はしていないが、反省は地面に頭がめり込むほどしたいと思う。
「……これからどうしようかな」
「再就職先、アテとかあるんですか」
「あったら最初から女装なんかしてないよ」
「それもそうですね」
一年はアルバイトで食いつないで、来年また別の大学の講師試験を受けるという手もある。……こんなセンセーショナルな出来事が国文学会という狭いコミュニティの中で伝わらなければ、の話だが。少なくとも俺の大学院時代の担当教授にはバレるだろうし、赤っ恥をかかせることになるかもしれない。
……あとはまあ、出来るだけ迷惑がかからないことを祈ろう。
「……」
「……なんですか?」
「ううん、なんでも」
けれど、俺の視界には彼女が居る。
相変わらず棘で人を刺すことも忘れないけれど、花のようだと思ったあの時と同じ笑顔を浮かべたままで。
だからもう別にいいかな、なんて。
――そんな呑気なことを考えているのだと知ったら、君は怒るだろうか?
「……クビになって、もし再就職先が見つからなかったらさ」
「はい」
「また、家庭教師として雇ってくれる?」
冗談めかしてそう尋ねれば、ぱちりと大きな瞳が瞬いた。そして。
「ほんと、ばか」
目尻に残っていたが一粒の雫が頬を伝っていく。それを、俺は幸せな気持ちで眺めていた。
いつしか雨は上がり、窓からは眩しい夏の太陽が差し込む。
髪も服も濡れたままの俺達にその暖かさはありがたく、二人で競うように陽だまりを奪い合う。年功序列だよ、そもそも濡れたのは先生のせいじゃないですか、なんてしょうもない言い合いをしながら俺たちは笑う。
虹だ、とどこからかはしゃぐ声が聞こえる。
キャンパスは雨上がりの爽やかさと、テストが終わった開放感に満ち溢れていた。
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