第29話 雨と涙
「ちょっと! いったいなんなんですか!」
授業が始まる前は晴天だったはずなのに、いつのまにかキャンパスを覆った厚い雲は激しい雨を降らせていた。ゲリラ豪雨というやつだろうか。冷たい雨粒が身体を濡らしあっという間に髪の毛や服が張り付いていくが、こちらとしても歩みを止める訳にはいかない。収めたはずの右手がそろそろ暴れ始める頃合いだ。
「なに考えてるんですか! ばかじゃないですか!」
後ろをひきずられるように付いてくる彼女はひどくヒステリックにわめいていて、俺は怒られながらもどこか嬉しい気持ちでそれを聞いていた。普段ならにっこり笑い最小限の労力でちくりと来る悪口を言うタイプの彼女がこんな風に感情を露にしている彼女は珍しい。それほどまでに今は余裕を失っているということで、それが俺の仕業なのだと思うとちょっとだけ胸のすく思いだった。
講義棟から事務棟に辿り着くまでの五分も掛からない短い時間に俺たちはすっかり全身がずぶ濡れになってしまった。綺麗に掃除された館内に水滴を落として行くのは気が引けたが、非常時につき許して貰いたい。ずんずんと人気のないロビーを突き進み、丁度無人だったエレベーターに乗込んですかさず六階のボタンを押す。扉が静かに閉まると、ばしんと思いきり背中を叩かれた。
「ったぁ! なにすんの!」
「こっちの台詞です! 先生はなにやってるんですか!」
「いやだって、こうでもしなきゃ話してくれそうになかったし……」
「男だってバレたら大学クビなんですよ! 分かってるんですか!」
「バラすって脅してたのは君じゃない」
「私がバラすのはいいんです! 自分からバラすなんて信じられない!」
「なんだそれ」
脈絡のない答えに思わず笑ってしまう。その反応が面白くなかったらしい彼女にもう一発お見舞いされそうになったところでエレベーターは止まった。外に人影はなく、再び彼女の手を掴んで廊下を奥へと進む。
「あんな大勢の前で、あんなことして、どうなるか分かってるんですか!」
「分かってるよ。全部分かってる。それより、はい」
慣れ親しんだ講師室に入ると、更に彼女はヒートアップした。ばかとか阿呆とかまるで小学生のような悪口を並べ立てられ、口を挟む隙を慎重に見極めながらタオルを差し出す。手を拭く用の小さなハンドタオルだが、それでもないよりはマシだろう。
「あとで学生課からタオル借りてくるから。それまでちょっとそれで我慢してくれる?」
「……」
「君が風邪を引いたら俺が看病に行くよ。それが嫌ならそれでちゃんと拭いて」
「……っ」
タオルと看病。
無言のうちに二つを天秤に乗せたらしい彼女がタオルを奪い取り、大人しく身体を拭き始めた。
事務棟は正門のすぐ傍に建っているため講師室の窓のから学外の様子が見渡せる。突然降り始めた雨に右往左往する通行人の姿に、ちょっとした急流のようになってしまっている歩道橋、干していた洗濯物を慌ててしまう警備室のおじさん、そして、遠く空には雷まで見えた。この調子ではしばらくの間雨はやみそうにない。はあ、と息を吐けば、内側に溜まっていた結露が一滴つうと窓枠へ向かって流れた。
「……ありがとう、ございました」
つん、と袖を引っ張られ、むっつりと差し出されたタオルはご丁寧に折り畳まれている。
「……どういうことか、説明してもらえますか」
「あ、説明させてもらえるの?」
「許すかどうかは別です。ただ、長引かせても二人共風邪を引くだけですから」
「懸命なご判断です」
「バカにしてるんですか」
「褒めてるんだよ」
彼女の身体がこれ以上冷えないように、防寒用に持って来ていたカーディガンを着せる。初めこそ抵抗していたが、タオルと同じ論理で陥落。諦めておとなしく袖を通した格好はまるで姉のおさがりを着る少女のようだった。男の服だったならもっと違うときめきがあると聞くが、俺がそれを望むのは余りにおこがましい。
「久しぶり」
膝を突き合わせてからまずそう言うと、呆れたように彼女が息を吐く。
「第一声がそれですか」
「え、だって久しぶりだから……」
「もっと先に言うべきことがあるんじゃないですか」
「……えーと、元気だった?」
「……」
言葉よりも雄弁な表情が不正解を突き付けた。どうやらこれも違っていたらしい。びしょ濡れの状態にさせておいて元気かという問いかけは確かに間違っていたかもしれない。
「……今頃教室がどうなってると思いますか」
「大騒ぎ、だろうね」
「まこっちゃんが本当は男だったって、山田さん辺りが吹聴してます。きっと」
「山田さんって誰?」
「先生があからさまに苦手にしてるギャルの子です」
「あれか」
さもありなん、山田さんならきっと頼まなくても立派に民衆を導いてくれるだろう。
「でもまぁ、それならそれでいいかな」
「どういう意味ですか? だって、バレたらここには……」
「うん、居られなくなるね」
「なら」
「もう一度君と話が出来るなら、もうそれでいいかなって思ったんだ」
明日からのことを考えれば不安はないとは言えない。けれど、彼女にどうしても伝えたいことがあった。ずっとずっと探し続けたそれは、もう明確な形を持って胸の内にある。
最初はただ姿を見られれば良いと思った。いつもの席には来てくれなくても、教室の隅に居てくれれば、それを確認して満足しようと思った。
しかし、その欲は順調に、ひとつひとつ夜を越えるごとに肥大化していった。
『姿が見たい』が『会いたい』になって、最終的には『話がしたい』になって。普通に話しかけたのでは逃げられてしまうかもしれないから、いっそ無理矢理にでも捕まえてしまおうと思った。それが、あの行動に繋がった。
「……たったそれだけ?」
信じられない、というように彼女が目を丸くする。
「たったそれだけのために、あんな、自分の正体がバレるようなことを?」
「だけ、じゃないんだ、多分」
もう一度会いたい。話がしたい。それこそが、俺の望むことだった。
元々彼女と俺が結びついていたのはご主人様と下僕という妙な関係があったからだ。男なのに女装して女子大で講師をしているのがバレて、広められたくないのならと可愛い笑顔に脅されて俺達は一緒に過ごすようになったのだから、圧倒的な弱みであった証拠写真を消された以上はなに食わぬ顔で講師をすれば良かった。彼女との関係をなかったことにすればなんの問題もなく、むしろ心穏やかな日々を送ることが出来たはずだ。
「でも、出来なかった」
「……」
「君がいなくなった毎日は、驚くほどつまらなかったから」
お喋りをしに来る足音がない。
レポートの出来を見て下さいと尋ねるノックがない。
ご飯を作って下さいというメールもなければこれから一緒に出掛けましょうという電話もない。
それは、ひどく味気ない毎日だった。
ただ昔に戻っただけのことだと自分に言い聞かせもした。親しく関わる人もいない、ひとりじっと部屋にこもって勉強をしていた頃に戻っただけ。なにが変わった訳でもないと自分を納得させようとしたこともあった。
けれど、圧倒的に心に足りないものがある。それが彼女の存在だった。容姿も香りも声も雰囲気も気配も質量も体積も、彼女を象るすべてが足りない。他のなにで埋めることは出来ない、彼女のためだけの空白が俺の中にある。そう気付いてしまったのだ。
「……なに、自分勝手なことを言ってるんですか」
口調とは裏腹に、答える声は震えていた。
「私、飽きちゃったって言いましたよね」
「うん」
「だから解放してあげるって、ちゃんと」
「うん、言われた。でも、君は嘘を付いていたから」
「嘘?」
「ソフトボールを辞めて日本文学科に入ったのは親御さんじゃなくて君の希望だって聞いたよ。単位に関係ないのに、自主ゼミにも入ってくれた」
「……」
どういうことだと目が問いかけている。なにを言うつもりだと怯えて口元が震えている。
相対してみてようやく気が付いた。
この子は、意外とポーカーフェイスが苦手だ。
「君が、俺の部屋に看病しに来てくれたことも知ってる。『飽きちゃった』男のために一生懸命お粥を作ってくれてありがとう」
「……っ、あれは、敵に贈る最後の塩です。今までお世話になったことは事実だし、せめてそれくらいはお返しをって」
「そう」
じゃあ、と机の引き出しを開ける。
誰に見られるかしれない位置に無造作に入っていたのはあの写真だ。北山家の居間で、十八歳の俺と九歳の彼女が同じプリントを覗き込んでいる。
息を呑むような音が漏れて、彼女の表情が一気に乱れた。
「君のお母さんからお借りしたんだ。自分のはどこかになくしてしまったみたいで」
「……」
「君が、持っているんだろう?」
逃げ場を探して彷徨う視線に気付いて、ぎゅっと手を握った。雨に体温が奪われ、痛々しいほど白くなってしまった小さな手だ。
「……約束を、守れなくてごめん」
『髪が伸びて格好も女の子らしくなったから、気付かないかもしれないけど』。
気付けなかった。
恥ずかしいほどにその通りで、あの日交わした小さな約束さえも忘れていた。だけど。
俺は、今、ようやく君に会いに来ることが出来た。
「……ばかじゃ、ないですか」
言葉と一緒に、涙が一粒零れた。
「そんな理由で、自分の人生を、棒に振ったんですか」
「棒に振ったのかな、俺」
「振ったに決まってます! ……いつか大学教授になるんだって、昔から言ってたじゃないですか」
「うん」
「せっかく夢が叶ったのに、こんな、ばかなこと」
「ごめん」
「なんで、なんでこんな、今更っ……」
「ごめんね」
それは悔し泣きというのが一番しっくり来る泣き方だったと思う。
表面張力ギリギリまで耐え抜いた水が限界を越え、意図せずして一気に溢れだしてしまった。
動揺を隠そうとする必死な素振りが痛々しい。堪えようとした嗚咽が苦しそうに喉を通るのが苦しかった。泣かせている本人がなにを言っていると思われてしまうかもしれないけれど、俺はなにも彼女の泣き顔が見たかった訳じゃない。
だから、泣かなくてもいいんだよと背中を撫で続けた。
やがて強張った身体から力が抜けて、彼女の口から子供みたいな嗚咽が漏れた。
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