一世一代の勝負は、文月の十日あまりなり
第28話 捕まえた
え? 俺のすきなもの?
ええと、俺がすきなものはね、源氏物語。
源氏物語って知ってる? ……え? 違う違う、外国のお話じゃないよ。日本のお話。
平安京っていう都が日本にあった時があってね。その時に平安文学って呼ばれる作品がたくさん作られたんだけど、えーと、簡単に言えば千年以上前の日本で作られたお話かな。
その頃の言葉はね、今の日本のものとは少し違うんだ。日本語は日本語なんだけど……うーん、説明が難しいな。中学で古典っていうのを習うから、その時にお勉強してごらん。
で、その平安文学の中で俺は特に源氏物語っていうお話が好きでね。
平安時代に紫式部って女の人が書いたお話なんだけど。名前くらいは聞いたことない?
すっごく簡単に説明すれば、光源氏っていかっこ良いお兄さんが綺麗な女の人たちと恋をする話。
……え? 浮気者?
うーん、その辺の機微はねぇ……紫ちゃんがもう少し大人になったら説明してあげる。別に彼も浮気心で恋愛をする訳じゃないんだよ。本当に。
たくさん素敵なヒロインも出てくるんだけど、俺が一番好きなのは紫の上っていう人。優しくてお淑やかな……そう、大和撫子ってやつかな。
う
うん、色の紫と同じ漢字。
紫ちゃんと同じ名前だね。
ざわざわとお喋りが尽きない教室に足を踏み入れると、折良くチャイムが鳴り響いた。
普段なら開始して五分経っても止まないお喋りは、今日に限って時間と同時に水を打ったような静まる。これは、小中高と十二年間の教育を経た学生達がテストを受ける時は静まらなければならないという暗黙の了解を培った結果なのだろう。教育とは偉大だ。
『……あ、あー。えー、それでは皆さん机の上にあるテキスト類を仕舞って下さい』
百五十人分のプリントをどさりと教壇の上に置いて、マイクのスイッチを入れる。そこかしこから聞こえるため息めいたものは一切聞き流すこととして、俺も各列の人数分にプリントを仕分けして行った。準備が完了する頃にはすっかり誰の机の上にも筆記用具のみが置かれている状態だ。
『では、これから前期末のテストを配ります。わたしが合図をするまでは裏返しの状態で後ろに人に送って下さい』
左側前列から、一番前に座っている学生にプリントを手渡しする。前から五列目、真ん中の通路すぐ脇の右側は今日も空いたままで、そのすぐ隣に座る佐伯さんは泣き出しそうな表情を浮かべていた。目が合って、少し迷ったけれど頷くだけに留めておく。
プリントが行き渡った頃合いを見計らって、俺は再び教壇に戻る。黒板に大きく『授業終了のチャイムまで。出来た人から退室可』と書いて、既に見慣れた景色となった大教室を振り返った。
『行き渡りましたか? 足りない人はいないですか?』
返事はない。そもそも大教室の授業で積極的に発言する学生というのはあまり数が多くない。すっかり見慣れたあのギャルでさえも、陣取った後方の席で静かにプリントを見つめている。
『えー、それでは、テストを』
俺の声に教室の空気がぴんと張りつめた。息遣いと時計の秒針の音しか聞こえない静けさ。普段もこれくらい静かだったら良かったのにと栓無いことを考えて、俺は一度だけ深呼吸をした。
『始め……る前に、最初に皆さんにお知らせがあります』
緊張のあとの弛緩。静寂の教室に、ほんの少しのざわめきが戻る。
下準備はもう済んでいる。普段よりも何倍も不安定で来る途中に外れやしないかとビクビクしたけれど、無事にここまで辿り着くことが出来た。残った作業はひとつだけ、たった一動作でこの数週間の苦悩を終わらせる事が出来る。
そっと右手を頭に添える。全員が教壇に……俺の方に注目する瞬間を見計らって。
俺は――そのまま思いきり、ウィッグを毟り取った。
きゃあ、とそこかしこから悲鳴に近い声が上がった。
胸までのあったはずの髪の毛が一気に首までなくなり、右手には無残にも力を失った毛束がぶらさがっている。見ようによってはちょっとしたホラーだ。ばさばさと頭を振って、手櫛で髪の毛を整える。
突然の行動に驚いて釘付けになる一堂の中、唯一立ち上がった影があった。
最後方かつ遮光カーテンから漏れる光で逆光になっているため表情は見えないが、なにを考えているかは分かる。分かる気がした。だって、ずっと一緒に居たのだから。
「……見つけた」
フレアスカートが膝に纏わりつく。カツカツと響くのはヒールの音だ。首から下は女の格好、首から上は男というキメラのような状態で教室内を歩く俺はさぞ妙なことになっているだろう。けれど、そんなことを気にしている場合ではない。早く行かなくてはまた逃げられてしまう。
すり鉢状の一番てっぺんの右端。一番扉から近い位置に、彼女は立っていた。
テストを終えたらすぐに去ることが出来る位置だと思ったのだろうが、お生憎様だ。そうは問屋が卸さないし例え卸したとしても俺が許さない。呆然とした顔には喜怒哀楽の判別が難しい色が浮かんでいて、あの日の自分を彷彿とさせた。
「北山さん、久しぶり」
答える前に、逃げられる前に細い手首を掴んだ。どんなにもやしで非力でも手の大きさだけは男のそれだ。今までやろうと思ったことなどなかったけれど、女の子一人を捕まえて逃げ出さないようにすることなど簡単に出来る。
だって、こんな格好をしていても、俺は男なのだから。
「話があるんだ。一緒に来てもらっていいかな」
元より返事など聞くつもりのない問いだ。
ぐいと机と椅子の間から彼女を引っ張り出し、そのまま出口へと歩き出す。そして、くるりと振り返って、俺は高らかに宣言した。
「先生はちょっと外します。終わったらテスト用紙を教卓に提出して解散すること。以上!」
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