第27話 辿り着いた真相
シャワシャワと蝉の鳴き声がさんざめく。全国的にも有名な銀杏並木は今年も順調に夏芽を伸ばし、夏の日差しを優しく遮って、時折吹く風に揺れていた。
駅の北口を出て、碁盤の目のように整備されたこの道を歩いていたのはもう八年も昔のことだ。
たった二週間の間のことだしここに来るまで覚えているかどうか随分不安だったのだが、まるで時が止まっていたかのように記憶の風景と変わっていなかった。交差点を右折すると突き当たりには駅名にもなっている大学の正門が見えてくる。周辺に建ち並ぶ家々はいわゆる豪邸と呼んで差し支えのない建物ばかりで思わず萎縮してしまうのも九年前と同じ。笑いながら走って行く小学生の集団とすれ違って、その楽しげな背中を見つめた。
「……」
やがて辿り着いた一軒の家。
レンガ作りの塀に埋め込まれた大理石の表札を見つめ、俺は深く深呼吸をする。自分のしでかそうとしていることの大きさに自問自答しながら、それでも意を決して身体を動かした。人差し指を突き出し、ゆっくりとインターホンを押す。やがて聞こえて来たのは、耳に馴染んだ鈴のような声――に、よく似た声だった。
『はい、どちらさまですか?』
「あの、わたし、光瀬真琴と申します」
一瞬だけ訝しむような間が空く。続いてどう自己紹介しようか思案していると。
『……あの、もしかして、紫の先生の?』
「はい。あの、突然ご訪問させて頂いてすみません」
ちょっと待って下さい、とインターホン越しの声が遠くなる。
『今開けます。どうぞ入ってらして』
自動で門扉が開いた。短い階段を上った先には綺麗に整えられた芝生の庭が広がる。これも記憶通りだ。花壇や植木鉢、さらには玄関まで続くレンガの道が整然と配置されたその庭はばあちゃんの家のいわゆるナチュラルガーデンとは異なり、隅から隅まできっちりと人の手が加えられている。花の名前はマリーゴールドくらいしか知らないが、広い庭の隅には一般住宅には珍しい橘の木が植わっており、それもまだ健在だった。
玄関から少し離れた場所で庭を眺めているとがちゃんと重たい音を立てて扉が開く。
顔を出したのは、やはり彼女のお母さんだった。
「こんにちは。……お久しぶりね、真琴君」
懐かしそうに細まる目がほんの少し気恥ずかしい。
お辞儀でずり下がった黒縁眼鏡を直して、俺はお母さんに向き直る。ストライプの飾り襟のついたネイビーのポロシャツにベージュのチノパン。男の格好をして人前に出るのは随分久方ぶりのことで、ワードローブの前で二時間悩んでしまった。
「……こんにちは。ご無沙汰しています」
「元気そうでなによりだわ。とりあえず上がって。大したものもないけど」
「いえ、お気遣いなく。こちらこそとご連絡もせずにすみません」
広々とした玄関で靴を脱ぐ。見えない場所に芳香剤が置いてあるのか、ふわりとラベンダーの香りが漂う。二階まで吹き抜けになっているリビングは相変わらず広々としていて、採光に適した大きな窓ガラスにはレースのカーテンが揺れていた。大型テレビ、それを囲むようにして置かれた革のソファ、ラグマットの上にはガラス製のリビングデスク……。部屋の隅には大きなグランドピアノとレコードが置かれ、これもまた、絵に描いたような見事な豪邸ぶりだった。
「紅茶でいい? 頂き物のコーヒーもあるけど」
「あ、ではコーヒーを」
「お砂糖とミルクは?」
「ブラックで大丈夫です」
「あら、すっかり大人になったのね。昔、コーヒーは苦くて飲めないって言ってたのに」
くすくすと微笑む顔は想像以上に彼女によく似ている。アーモンド型の大きな目に少し薄めの唇。彼女と同じ色の紅茶色の髪を緩く三つ編みにして、若草色のワンピースエプロンがよく似合うお母さんは、見た目だけなら三十代でも通用するほど若々しかった。
「いつ京都から帰って来たの?」
「今年の四月です。大学院を卒業して、こちらに」
「そうなのね。お仕事は? なにをされてるの?」
「都内の大学で、日本文学科の講師の仕事を」
「あら! じゃあ夢が叶ったのね。おめでとう」
「ありがとうございます」
運ばれて来たカップに口を付け、大学で飲むものより味も香りも濃いコーヒーを啜る。
自分の境遇に嘘を付けばどこかで無理が生じて破綻するかもしれない。だから、出来るだけ事実に近い状態で話をしようと心に決めていた。運良く疑われることもそれ以上突っ込まれることもなく、話を続ける。
「この間ね、伊藤先生にお会いしたのよ」
「はい。そう祖母から聞きました。北山さんにお会いして、お元気そうだったと」
「もしかして、それで思い出して来てくれたの?」
「はい」
「嬉しいわ。紫も居れば喜んだでしょうに」
耳にした名前に身体が動きかける。こちらから尋ねる前に話が出た。表情にも声音にも動揺を伝えないように、注意深く尋ねる。
「ちなみに、きた……紫ちゃんは」
「丁度帰って来てるんだけど、今日は生憎出掛けちゃってるの」
「――そう、ですか」
身体の奥底で凝り固まっていた緊張が、吐いたため息と共にどろりと溶け出した。
実家に帰っているかもしれないという佐伯さんの考えは当たっていたけれど、残念ながら彼女に会うという目的は果たせなさそうだ。用が果たせない以上すぐにお暇しようとも思ったけれど、久しぶりの珍しい来客にお母さんはすっかり歓待ムードだった。
「それにしても本当に久しぶりね。高校を卒業したばっかりだった男の子が、すっかり立派になっちゃって」
「いえ、そんな……」
首を振ったのは謙遜ではない。あの頃から身長は一ミリも伸びていないし、体重は地獄の女装特訓でむしろ二キロ減っている。どちらかと言えば華奢な体つきになってしまったというのがコンプレックスなのだが、お母さんはそんなことはどこ吹く風だ。
「ううん、すっかり男の人っぽくなったわよ。なんていうの、働く男の魅力ってやつ?」
「はは……」
すみません、俺、毎日女装して仕事してます。勿論そんなことは言える訳がないので笑って誤摩化しておく。
「あの子ね、大学に入ってから一人暮らしを始めたの。なんでも自分でも出来るようにならないといけないから、とか言っちゃって」
「そうなんですか。寂しいですね」
「ねぇ。まあ元々ソフトボールばっかりしてたから、ロクに家に居た試しはないんだけど」
やんなっちゃうわね、と苦笑する顔にはそれでも娘を慈しむ気持ちがありありと浮かんでいる。
「真琴君は? 伊藤先生のお家?」
「はい、帰って来て二週間くらいは居候させてもらってたんですけど、今は一人で」
「あら、一緒に暮らせば良かったのに」
「ええ、でもこれ以上世話になるのは申し訳なくて」
「親っていうのは、世話なんてしたくてしてるんだから気にしなくてもいいのよ。なんて、私が言うことじゃないかもしれないけど」
「あはは、でも同じようなことは言われました」
「でしょう。あなたと一緒に住むようになってから楽しかったって、伊藤先生仰ってたもの」
北山家は祖父方の親戚にあたるという。と言っても、じいちゃんの妹の旦那さんの弟の子供……と家系図に載るか載らないかくらいの遠縁だ。じいちゃんは俺が生まれる前に亡くなってしまったというから、本来であればばあちゃんと北山家は疎遠になってもおかしくない関係だった。
限りなく他人に近い関係の仲で俺と彼女が出会ったのは、沢山の糸が縒り合わさって出来た可能性の上だ。俺がばあちゃんに引き取られなければ、そして北山さんが帝女の幼稚園に入らなければ。なにかがひとつ欠けていれば、俺はここでコーヒーをご馳走になることすらなかった。そう思うと、なんだか不思議な心地になる。
「……紫ちゃん、ソフトボールはまだ続けてるんですか?」
リビングの隅、レコードが並べられたラックの上にはユニホーム姿の彼女の写真が飾られていた。周りには佐伯さんやたくさんのチームメイトが一緒に写っている。真っ黒に日焼けして、耳の下辺りで切りそろえられたボブヘアー。勿論彼女だということは分かるけれど、どことなく見慣れない姿に胸が落ち着かない。
「いいえ、辞めちゃったのよ。高校三年の時にはインターハイにも出てね、その時に色んな大学から推薦入試を受けないかってお誘いもあったんだけど……全部蹴っちゃって」
「へぇ、そうだったんですか」
わざとらしく驚いてみせる。会えなくても無駄足にはしたくない。彼女に関わる情報はすべて知っておきたかった。
ソフトボールを辞めた。そのまま大学に進学して日本文学科に入った。そこまでは知っている。俺が知りたいのはその先だ。
「最初はね、私たちに遠慮してるんだと思ったの。私も主人もスポーツ推薦で他大学に行くなんて想像もしてなかったし、行きたくても言い出せないんじゃないかって。……でもね、話をよくよく聞いてみたら違うのよ。本人が、高校まででソフトボールは精一杯やったから大学では勉強がしたいって言ったの。……真琴君からしてみれば、信じられない言葉でしょう?」
「いや、そんな」
「いいのよ、遠慮しないで。あの子、あなたが家庭教師として来てくれるまでまったく勉強に興味がない子だったんだもの」
俺と彼女が一緒に過ごしたのはたった二週間のことだ。
言葉で言う以上に短い時間だったけれど、勉強なんかよりも運動が好きだと言い切った幼い女の子は、俺が京都に居る間に劇的な変身を遂げたのだという。
「下から数えた方が早かった成績が、小学校四年からちょっとずつ伸びて行ってね。高校三年の秋に学年トップになった時は、さすがにびっくりしちゃった」
「それは俺の力じゃなくて彼女の努力で……」
「ええ、勿論そうね。けど、努力のやり方を教えてもらったっていうのかしら。きっと、真琴君と会って世界が広がったんだと思うわ」
年上の親戚がほとんど居なかった彼女にとって、さしずめ俺は世界の異分子だったのだろう。
自分が分からない勉強は教えてくれるけれどキャッチボ―ルはしない。
外で遊ぶことよりも机の上で勉強をしている方が好き。
まさしく自分とは正反対の存在で、いったいこの生き物はなんだろうと思った。だからこそ、あの質問があった。
(ねぇ 先生、先生がすきなものって、なぁに?)
「源氏物語」
お母さんが微笑む。彼女によく似た面差しで。
「源氏物語の勉強がしたいんだってあの子言ったの。なんの勉強がしたいかなかなか教えてくれなかったんだけど、卒業式の直前にやっと白状してね」
「……」
「どうして源氏物語だったのかしらね?」
その時俺は、随分間抜けな顔をしていたと思う。
その問いに俺が明確な答えなんて持っているはずがない。さあ、と曖昧に笑って首を傾げれば、お母さんは彼女によく似た悪戯っぽい笑顔でうふふと笑んだ。
「初恋ってすごいわよね。実らなくたって、心の奥深くの一番綺麗なところに、ずーっと仕舞ってあるんだもの」
「――」
ああ、そうだ。
やっと思い出した。あの時彼女はこう言ったのだ。
『私、ゲンジモノガタリを勉強しておくから。だから、こっちに帰って来た時は、必ずまたうちに来てね』
「……すみません、長々とお邪魔してしまって」
「ううん、いいのよ。とっても楽しかった。またいらっしゃい」
一時間ほどお喋りをした後、北山家を後にすることにした。
玄関で靴を履き、お母さんに向き直る。
「ねぇ、真琴君」
「……はい」
「もしどこかで紫と会ったら声をかけてあげてね。あの子、髪も伸びたし格好も女の子らしくなったから、気付かないかもしれないけど」
思わず苦笑を返した。気付けなかった。だって、あまりにも彼女は変わっていたから。
しかし、気付けなかったのは決して彼女のせいではない。小さな約束を忘れ、自分のことばかりにかまけていた、俺の罪。
記憶の中の『紫ちゃん』は日に焼けたショートカットの女の子だった。
知り合った『北山さん』は清楚でおしとやかで、少しだけ意地悪なお嬢様だった。
もう見失わない。俺にとっては、どちらも君だ。
この三ヶ月間、想像を絶する日々だった。
コミュニケーションが下手でロクに人と関わらずにひとり世界に没頭していた俺が、女装して、女子大生の前で授業をして、たくさんの人と知り合って。
変わったのだと思う。そして変えてくれたのだと思う。他の誰でもない、彼女が。
「……必ず、気が付いてみせます」
どうか彼女にこの声が届くことを祈って、俺は静かに頭を下げた。
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