第26話 掴んだ手掛かり

 帝国女子大学の学生総数は六千人以上、その内都心のキャンパスに通う文学部、理学部、家政学部に所属する学生はおよそ四千五百人。もちろんその人数が毎日ここへ通学している訳ではないが、単純に可能性として四千五百分の一。それが、北山さんを見つけるための確率だった。  

 一人暮らしの部屋は不在、アルバイト先は休み、俺の授業はすべて欠席、他の授業のあと待ち伏せをしてみたが出会えず、ばあちゃんの名前で呼び出しをかけたりしてみたがそれでも彼女は現れなかった。しかし、徹底的に避けられているということが逆に俺の勢いに拍車を掛けた。

 ――ちょっとした博打に打って出たのは、中古文学史のテストを次の日に控えた月曜日のことだ。



「佐伯陽菜子さん」

 日文一年生の三分の一程度が履修している『古典文学特論』の授業は比較的狭い教室で行われている。だから、目当ての人物を捕まえるのは比較的簡単だった。

 いつだか渋谷のダイニングバーでも言葉を交わしたことがある女子学生の名前を、俺は初めて口にする。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「は、はい」

 リバティープリントのブラウスにロールアップしたオーバーオール、そしてキャップというボーイッシュな服の似合う女の子だった。茶色いショートカットの髪が少し伸びてボブに近い髪型になっている。

 なにを尋ねられるか心当たりがあるのか、その表情は決して明るいものとは言えなかった。

「……なんでしょう」

「急にごめんね。次も授業だろうから単刀直入に聞くけど――今、北山紫さんが今どこにいるか知ってる?」

「……」

 佐伯さんは嘘がつけないタイプらしい。上下左右と盛大に目が泳いでから、ちらりと俺の顔色を窺った。百六十五センチの身長は男子にしては小柄だが女子になってみれば長身だ。本村さん以上に背の低い佐伯さんとは恐らく二十センチくらいの差があるだろう。威圧感は与えたくないが唯一の手掛かりをみすみす逃す訳には行かない。自然と顔が強張ってしまう。

「今日は、休みみたいなんですけど」

「そっか。しばらく姿を見ないんだけど、明日は来るかな?」

「……ごめんなさい、ちょっと、分からないです」 

「別に他の先生に言いつけたりする訳じゃないから、サボってるとかアルバイトしてるとかでもなんでもいいんだ。どんなに些細なことでも構わないから、知ってることがあったら」

「……」

 佐伯さんは躊躇うように口を閉ざす。なにかを知っていると感じさせるには十分な反応だった。

「そっか……」

 このまま押し問答をしていても埒があかない。心苦しいが、卑怯な手を使う。

「……困ったなぁ。明日は中古文学史のテストだし、もしこのまま授業に来ないと単位落としちゃうかもしれないのに」

「えっ」

 中古文学史は通年四単位の科目だ。いくらなんでも前期だけで単位の当落は決まりはしない。しかし、圧倒的に授業経験の少ない一年生にとっては講師が意味ありげにそんなことを呟くだけでも相当なプレッシャーになるだろう。ごめんと心の中で手を合わせつつ、大袈裟にため息を吐いてみせる。

「必修科目だからね。他と替えの効く単位じゃないから、最悪留年になるかもしれない」

「そ、そんな。紫、今まで欠席したことないし、レポートだってちゃんと……」

「うん、でもテストはテストだから。北山さんだけ特別扱いは出来ないよ」

 相対した顔がみるみる青くなる。効果は抜群のようだ。佐伯さんは北山さんと同じくらい真面目な子なのだろう。戸惑いながらも、おずおずと声を上げる。

「……ちょうど先々週くらいに、いきなりメールが来たんです。『しばらく考えたいことがあるから、一人にして』って」

「……そう、言われたの?」

 こくんと小さな頭が頷く。

「あと、『光瀬先生から私のことを聞かれると思うけど、知らないって答えて』って」

 完璧主義な彼女のことだ。消えると決めたらやすやすと尻尾を掴ませないだろうとは思っていたが、想像以上の用意周到さだ。

 彼女自身、恐らく心配性の友人が知らぬ存ぜぬを通せるとは思っていない。知らないと答えろ、というのは恐らく佐伯さんではなく俺への牽制だ。どんな手を使われてもおまえとはもう会う気がないのだという遠回しかつ破壊力抜群の先制パンチ。思惑通り見事にボディーに決まって体幹が傾ぐ。それを、懸命に堪えた。

「……あの、先生と紫、なにかあったんですか?」

「……ちょっとね、喧嘩みたいになっちゃって」 

「喧嘩、ですか」

 写真を見られてしまったことは確実だろうが、そこから彼女がどう思ったのか。

 怒ったのか悲しんだのか、絶望したのか、はたまた儚んだのか。俺はまだなにも知らない。俺を見限ろうと思った理由も、こうして姿すら見せようとしないのも。今どこでどんな気持ちで居るのかすらも俺には分からない。だから。

「……会いたいんだ」

 もがいてもがいて見つけた気持ちはたったそれだけだった。もし会ってもまた拒絶されるだけかもしれないけれど、それでももう一度だけ。これまで一番近くで過ごしてきたという、たったそれだけのちっぽけなプライドを抱えて、俺はまだここに立っている。

「……あの、先生」

「ん?」

「私、紫の居る場所、なんとなく想像がつきます」

「本当?」

「はい。でも、確実ではないんですけど」

 佐伯さんが教えてくれた場所に、思わず「ああ」と声が漏れた。少し考えてみれば分かることだ。彼女がどこかに身を隠すなら、そこほど相応しい場所はない。

「ありがとう、ちょっと検討してみる。……佐伯さんは、北山さんと付き合いは長いの?」

「はい。中高と同じソフトボール部でした」

 言われてみれば、確かに彼女の鼻の周りには少しだけ日焼け跡のそばかすが散っている。年頃の女の子では気になるだろうが却ってそれが活発でチャーミングな印象を与える。

 北山さんは内部進学だったが、佐伯さんは中学から帝女に通い始めたのだという。中学一年の時同じ部活に入った二人はすぐに意気投合し、北山さんがエースピッチャーで四番、佐伯さんがキャッチャーで一番だったと教えてくれた。


「紫、優しいし真面目だから人望もあったんですけど……なんか、妙なところで意地っ張りで。高校三年の時、スポーツ推薦の話がいっぱい来てたんです。結構有名な大学からもスカウトが来てたんですけど、いきなり『ソフトボールはもうしない』『このまま帝女に進学する』って。将来有望なエースがそんなこと言うから私たちも先生も驚いちゃって。結構色んな人が説得したんですけど、もう意志は固かったみたいです。……え? 進学の理由ですか? いいえ、親御さんじゃなくて本人の意思ですよ。ええと、確か……ああそうだ。日本文学科でやりたいことがあるんだって、そう言ってました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る