第25話 決意
「おまえじゃない?」
素っ頓狂な声は学務課全体に響き、兵頭だけでなく職員全員の視線を集めてしまった。遠くから偉そうな咳払いが聞こえ、にへら、と兵頭が愛想笑いを浮かべる。
「すみませーん、ちょっと書類に不備があったみたいなんでちょっと行ってきます」
「おい、ちょっと」
「しっ、静かにしてろ、ただでさえ課長には睨まれてんだから」
睨まれてんのはおまえの日頃の行いが悪いからだろうがと思いつつ、言われるがままに廊下に押し出される。人目を憚るようにきょろきょろと辺りを見渡し、兵藤は身を滑らせるように普段は立ち入りが禁じられているはずの非常階段に続く扉を開いた。
「……なんで開くんだよ、ここ」
「だって喫煙所遠いんだもん」
理由になってない理由をほざきながら、兵頭は胸ポケットから煙草を取り出す。
じじ、とフィルターが焼ける音がして、辺りにマルボロの薫りが漂った。
「吸う?」
「いらん。それより説明しろ。ただちに、迅速に、早急に」
「えーと、だからぁ」
がしがしと頭を掻きながら、兵藤はあの日のことを語り始めた。
「あの日、おまえを部屋で寝かせたあと、飲み物とか買いにとりあえず近くのドラッグストアに行ったんだって。その道すがらゆかりんにメールしたのよ」
携帯電話を操作し、ほれ、と兵頭が文面を見せてくる。
宛先は『ゆかりん』。
件名は『光瀬が』で、本文は『熱出して倒れた〜(泣)』という一文だけ。すると、驚くほどの速度で着信があったのだという。
「出た瞬間、『先生は大丈夫ですか』って超心配そうでさ。先生の部屋の場所は分かるから今から行きますって言うんだよ。なんかゆかりんも鼻声だったし、聞いたら自分も学校休んだって言うじゃん? だから俺が付いてるから無理しなくていいよって言ったんだけど、聞きゃしなくて。説得諦めてじゃあお願いしますって言ったら、買い出し終わった頃にはもうおまえの部屋の前にゆかりんが居たの」
「……」
「とりあえず買って来たもん冷蔵庫に詰めて、お前のこと着替えさせて、俺は退散したってワケ。一応まだ仕事中だったし熱は高そうだったけど汗拭いたらちょっとラクそうだったし、あとはゆかりんが任せて大丈夫って言うから」
「……」
あの日彼女は俺の部屋に来ていたのだ。
知らなかった。だってそんなこと、一言も。
「あの時のゆかりん可愛かったぜ、一生懸命おまえの面倒見ててさ。お粥の作り方って分かりますかって聞かれたから、分かんないって答えといた。俺よりゆかりんの手作りご飯の方が嬉しいだろ?」
「……あの日、おまえ何時くらいに帰った?」
「人の話聞けよ。えーと俺が帰ったのは確か……二時半くらいだったかなぁ」
あの時、朦朧としながらも確認した時計は六時を示していたはずだ。
……兵頭では、なかった。
あの時傍に居てくれたのは北山さんだったのだ。
水を持って来てくれたのも、汗を拭いてくれたのも、おやすみなさいと言ってくれたのも。
口数が少ないとは思っていた。なのに、気付けなかった。また俺は彼女を捕まえ損ねてしまったということだ。
「つーか、そもそもなんで知らないんだよ。ゆかりんからなんにも……おい、聞けって」
携帯電話を取り出し、今まで何度も掛けようとして躊躇い続けた番号を呼び出す。自主ゼミの後、彼女は空きコマのはずだ。出てくれ。頼む。しかし、その願いは空しく無機質な音声ガイダンスに打ち砕かれてしまう。
『この電話はお客様の都合によりお繋ぎできません……』
「くそっ……」
メール、いや、電話がこれならメールも同じだろう。
授業にも出ない、連絡も繋がらない。ただの講師と学生と言ったのは彼女自身だったはずなのにこの徹底ぶり。
少し前までは、その決定を受け入れることに必死だった。
それが、今は逆に俺を掻き立てている。
「……そうだ」
もしやと閃いて、俺はおもむろに鞄の中身を漁る。
膝丈のタイトスカートは足を広げてしゃがむと見せてはまずいものまで見せかねなかったが、そんなことは気にしている場合ではなかった。
メインポケットサブポケットプリント資料読みかけの文庫本、ありとあらゆる場所を探すが、思った通り目当てのものは一向に見つからない。
「おい、兵頭」
ほとんど襟首に掴み掛かるように詰め寄る。
「あの写真、どこやったか分かるか」
「どの写真だよ。つーか顔怖いぞおまえ」
「いいから! 俺と北山さんの写真だ!」
「ああ、あれ」
火の付いた煙草を咥えつつ、兵頭はつんと鞄を指差した。
「おまえ、俺に渡したまんま意識飛ばしたからさ。なくしたら大変だろうと思って手帳に挟んどいた」
「どんな風に」
「どんな風に? えーっと……」
こんな風に? と自分の名刺で実演してみせる。手帳の最初のページに、ちょうど四角形の一角が頭を突き出すような形で。しかし、何度も何度も捲ってみても、どのページにも写真は挟まってはいなかった。ぎゅっと唇を噛みしめる。
「……なぁ、なんかあったの?」
あった。ありすぎるほどに、あった。
「……北山さんに、逃げられた」
「逃げられた?」
「だから、追いかける」
ぱちん、と携帯電話を折り畳んでポケットに突っ込んだ。このままにはしない。
そうだ。だって、飽きるならもうとっくに飽きられていて当然だったはずじゃないか。飽きたからもう会わないと言われて、はいそうですかと納得している場合じゃない。
俺は、ようやく、俺は彼女との約束を思い出したばかりなのだから。
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