第24話 光の正体

「先生!」

 ばあちゃんの研究室には、もう自主ゼミの皆が揃っていた。

 個性豊かなはずの面々だが、その顔には一様に不安げな表情が浮かんでいる。

「おはよう、……皆、今日は早いね」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 紫が!」

 顔に突き付けられたのは一枚の紙だ。鼻先に触れるほど近い。文字が読める所まで顔から離すと、真っ先に目に飛び込んで来たのは『退ゼミ届』という丁寧に書かれた文字だった。

「さっき日文研究室に紫が来て、これを出して行ったんです」

「……そう」

「先生、ご存知だったんですか?」

「もしかして、紫からなにか聞いてたの?」

「いや……でも、なんとなくそうなるような気がしてたから」

 あの口ぶりからすれば俺との関係はすべて断つつもりだったに違いない。だから、遅かれ早かれこうなるだろうとは思っていた。大教室ならまだしもこんなに狭い研究室で顔を合わせるなんて完璧主義の彼女が許す訳がない。

「いきなりこんな風に辞めるなんてそんな子には思えなかったんだけどな」

「わ、わたしもそう思う……ちょっと変だよね……」

「ちょっとじゃない、絶対変だよ! だって来週は紫が発表だったんだよ、あんなに頑張ってレジュメも作ってたのに」

「先生、なにか事情を聞いてらっしゃいませんか」

 四人から一斉に視線を向けられ、俺は俯いた。「ごめん。分からない」とだけ答えると、誰からともなくため息が漏れる。

「……折角、仲良くなれたのに」

「……華」

 末松さんの大きな瞳には涙が浮かんでいた。今にも泣き出してしまいそうな末松さんの肩を、優しく諸見里さんが抱き寄せた。


 たった三ヶ月、しかし、されど三ヶ月。

 全てを理解するには短い期間でも仲良くなるには十分な時間だ。

 それはティーチングアシスタントとして頼りにされていた碇屋さんにとっても、彼女がアルバイトをしていた総菜屋の常連だったという茅野さんにとっても、映画や音楽の趣味が近くCDやDVDの貸し借りをしていた諸見里さんにとっても、授業の空き時間が同じで何度も一緒にカフェテリアでお茶を飲んだという末松さんにとっても、……そして、俺にとっても同じことだ。

 彼女の不在を受け入れようとすればするほどその違和感が際立ってしまう。

「夕子センパイ、TA権限で引き留められないの?」

「……それは出来ないわ」

「どうして?」

「自主ゼミの入会条件はあくまで個人の意志だけだもの。学年も単位も関係なく希望をすれば入れるっていうことは、裏を返せば希望をすれば簡単に辞められるっていうことよ。それを束縛する権利は誰にもないわ……勿論、私にも」

「……」

 全員が俯く。

 碇屋さんの言う通りだ。

 自主ゼミはその名の通り学生の自主性に委ねられており、そこにはなんの義務は存在しない。集まることも、研究をすることも、テーマを決めてレジュメを作って発表することも、それはあくまで学生の自由なのだ。

 学年も単位も関係ない。

 ここは、ただ中古文学を愛する人間が集う場所で……。

「……」

 ふと、目の前でぱちんとなにかが弾けた気がして、顔を上げた。

「……先生?」 

 ネジの止まった人形のように動かなくなった俺を、碇屋さんが覗き込む。

 今、俺はなにを考えていた? なにか、とても大事なことを見落としている気がする。

「……碇屋さん、もう一度、言って」

「え?」

「今の言葉、もう一度」

 自分でもなにに引っ掛かっているのか分からない。でも、間違いなくこの状況を打破するヒントがあった気がするのだ。

 お願い、と縋るように告げる。碇屋さんは戸惑ったように皆を見渡した。

「ええと……自主ゼミの入会条件はあくまで個人の意志で、学年も単位も関係なく希望をすれば入れるって……」

「――」


 それだ。見つけた。弾けた光の正体。


 自主ゼミの紹介は四月、新入生を対象としたオリエンテーションで行われる。中古以外にも各時代の文学には自主ゼミが存在するが、大体どこのゼミも人数はごく少数で行われている。

 その理由は、『自主ゼミは授業ではないから』。

 帝女に通う学生たちは女性の社会での活躍云々という帝国女子大学の理念に共感したのではなく、親に薦められて、あるいは自分の偏差値と相談をして普通に受験をして入って来たイマドキの女の子たちだ。日本文学科にだって純粋に日本文学を学びたくて入って来た訳でもない。授業でもないのに昼休みに集まって勉強をしなければならないなんて御免だ。そう思うのか、ほとんどの学生は自主ゼミに入ろうとすら思わない。

 けれど、北山さんは。

 そもそも俺たちの距離が近付いたのは、まだ男だと知られる前に彼女が自主ゼミに参加したいとやってきたことがきっかけだった。学年も単位も成績も関係ない。ここは、ただ中古文学を愛する人間が集う場所だ。入ろうとしなければいくらだって素通り出来たはずだ。

 そう、平安文学が好きじゃないのなら、入る必要なんかまるでなかったのだ。

 日文に入ったのは親が五月蝿かったから。俺と仲良くなったのは成績に有利だと思ったから。実に彼女らしい合理的な論述の仕方だと思った。しかし。


『好きなことを思いっきり勉強出来るのってすごく面白いんだなって』


 彼女は俺のことを覚えている。

 一時は俺を絶望の淵に叩き落としたその事実が、一筋の光に見える。 

 口紅が落ちるのも構わず唇を噛み締めて、俺は立ち上がった。


「え?」

「ちょっと、せんせー?」

「どちらに?」

「せ、先生」

 四人の顔を見廻し、思いきり頭を下げた。

「ごめん、今日は、これで解散」


 たった三ヶ月、しかし、されど三ヶ月。

 それでいて更にプラスアルファの期間がついている。そんな取るに足りないアドンバンテージだけが、今の俺を突き動かす原動力だった。

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