思へどもなほあかざりし彼女の面影

第23話 失った日々

 勉強よりもスポーツが好きなのと、その女の子は言った。


 机に座っているより外で身体を動かしている方が好き。だからお勉強はよくわからなくて。

 明るくて快活でおしゃべり上手な彼女はくるくると表情が変わって、最初は三十分と机の上の集中が持たなかったけれど、コツを掴んで問題が解けるようになってくるとスポンジが水を吸うようにみるみると成長して行った。

『先生がすきなものって、なあに?』

 そんな質問をされたのは、確か折り返しの一週間を過ぎた頃だっただろうか。

 一日の課題が早めに終わったので外でキャッチボールをしようと誘われて、丁重にお断りしたあとのことだった。俺はスポーツよりも勉強が好きなんだ、と苦笑する俺に、信じられないといった表情を浮かべた彼女からそんな質問をぶつけられた。好きなものはなにか、と問われれば俺の答えは小学校の頃から同じだ。胸を張って「平安文学だよ」と答えれば、盛大にきょとんとした彼女が「それってどこの国のブンガク?」と首を傾げた。


 北山さんが俺の前に姿を見せなくなって一週間。

 朝起きて支度をして、大学に来て授業をして、北山さんのいないゼミに参加して、仕事をして、帰る。

 毎日は想像していたよりもずっと穏やかに、そして淡々と過ぎて行った。



『今日は、源氏以前の物語に触れたいと思います。まず宇津保物語ですが、これは当時の貴族にとって重要な教養であった琴を題材にした物語と主人公の末裔を中心とした姫君への求婚譚の二本立てで描かれています。落窪物語はいわゆる平安版シンデレラで、継母にいじめられていた継子がやがて身分の高い男と結婚し、その後継母に様々な報復をするんですが、実はこういった継子譚は実は世界各国の民話として伝わっていて……』  

「せんせー」

 呼ぶ声に我に返れば、すり鉢状の大教室に集ったよそ百五十人の女子学生が俺の方に注目していた。声の主はいつだかの巻き髪茶髪の太めギャルだ。イメチェンをしたのか今は巻き髪ではなく胸の辺りまであるストレートヘアになっているが、化粧は相変わらず不自然に濃いままで、ぶらぶらとやる気なさそうに挙手をしている。

『あ、ええと、すみません、なんですか』

「そこ先週やりましたー」

『え、あ、そうでしたっけ……』

 ざわつく教室にはあからさまに不審な声が飛んでいる。

 なに、どうしたの、まこっちゃんなんか変じゃない? 

 ……俺はいつの間にか女子大生にまこっちゃんというあだ名を付けられているらしい。

 気を取り直して次の範囲の説明を始めれば、無事始まった授業に安心したのか大教室の約半数は違う作業に取りかかる。それを見て、俺の視線は自然と空席に及んだ。前から五列目、真ん中の通路すぐ脇の右側。ぽっかりとあいたその席は十分経っても三十分経っても埋まることはなかった。  

 教室でたまに目が合うとなんだか気恥ずかしくて、いつも俺は彼女の方は見ないようにしていた。「どうしていつも私のこと見てくれないんですか?」なんて面白半分に聞かれた時、俺はなんて答えていたんだっけ。その場所が不在になってようやく見つめることが出来るなんて、なんだか皮肉な話だ。



「先生」

 講師室で無心に仕事をしていると、ぽんと肩を叩かれた。一粒も期待がなかったとは言わない。勢い良く振り返ると、「わ」と驚いたように本村さんが目を開いた。

「ご、ごめんなさい」

「いえこちらこそ驚かせてしまってすみません。お身体は大丈夫ですか?」

「あ、はい。その節はご迷惑おかけしました」

 本村さんは出会った頃と変わらずなにかにつけて俺の面倒を見てくれる。ありがたいことだが、この心配そうな表情も友好的な言葉も俺が『女』だからこそだ。最近男嫌いが加速したという本村さんは兵頭に対しての態度をますます硬化させ、端から見ていてたまに胃が痛くなるほどのあしらい方をしている。万一女装がバレたのが本村さんだったら、俺の講師生命は一発アウトだっただろう。

「そういえば日文はオープンキャンパスの企画、決まったんですか?」

「あー……話し合いはしてるんですけど」

 結局あれから数度、時間があった教授陣とは話し合いの場を設けているが決まる様子はない。ノリ良く提案はしてくれるのだがそれを纏める人がいないのだ。さすがに一番若造の俺がしゃしゃり出る訳にもいかないし、適当に相槌を打ったり悩んでみたりするのだが。

「もういっそ、先生が決めちゃったら如何ですか?」

「いやいやいや、そんな身分不相応な真似はちょっと」

「でも、日程までもう一ヶ月もないですよ?」

「そうなんですよね……」

 落ち込んでいてもぼんやりしていても時間は誰にでも平等に流れるし、過ぎ去って行く。それをこの数日で痛感している。

 本人は止まっているつもりでも周りは忙しなく動き続けていて、見慣れた景色がいつの間にか変わってしまってぽつんと一人取り残されたような気持ちになる。ざまあない。これではまるで失恋だ。

 北山さんが俺の正体を黙っておいてくれたのは俺を下僕として扱き使うためだ。分かっている、事実俺は彼女の下僕として朝に昼に夜に奔走し、休日返上で彼女に尽くして来た。次はなにを命じられるのかとメール着信に怯えつつ、念願だった大学教授への夢を守るため従順に盲目的に彼女に付き従っていた。しかし、それがいつの間にか俺にとっての日常になっていた。


『飽きちゃったんですよね。先生で遊ぶのに』


 朗らかに言い切った彼女の顔に迷いはなかったように思う。

 嘘だと思う理由も証拠もない。むしろ説得力だけがあって、俺の目の前で画像データを消したことが徹頭徹尾彼女の公平さを物語っていた。そんなことまでされれば俺は手を離すしかない。下僕を解消され、ただの講師である俺には彼女を引き止める理由なんて存在しない。 

 もし兵頭の言う通り彼女が俺を恨んでいるのならそれでも良かった。あの日、約束を破ったのは俺だ。下僕として扱うことが彼女なりの報復なら思う存分そうすればいいと思っていた。けれど、最早そんな気持ちすら許されない。彼女が望んだのは、俺との決別だったのだから。


「……そういえば、仲直りはされたんですか?」

 思わず仕事の手を止めると、ごめんなさい、と本村さんが呟いた。

「雪先生が、この間誰かと喧嘩してるみたいだったって……きっと、北山さんですよね?」

 俺と彼女の言い合いを雪先生は扉を挟んで聞いている。内容までは聞こえていなかったらしいが、密かに本村さんと一緒に心配をしてくれていたらしい。

「どうでしょう……もしかすると、無理かもしれません」

「無理って……?」

「もう来ないと、言われてしまいましたから」

 サークルにも入ろうと思っているから、と言っていた。多忙になった彼女はきっと俺のことなど忘れて行くだろう。それが普通の大学生活だ。今までの距離がきっと近過ぎただけ。年齢相応に楽しいサークルに入って、飲み会に行って、若くて見た目のいい男達にちやほやされて……そんな彼女の輝かしい未来に、俺のようなイレギュラーは存在してはいけない。


「……そろそろ授業なので、行ってきます」

「光瀬先生、でも、お顔の色がまだ」

「大丈夫ですよ、ご心配おかけしてすみません」

 ただ、『講師と生徒に戻る』だけ。


 死ぬ訳じゃない。二度と会えない訳でもない。たった、それだけの話だ――。

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