第22話 突然の別離

 朝を迎えると、熱はもうほとんど下がっていた。

 大事を取って休むことも考えたが、いきなり授業を休講にする訳には行かない。学生や事務職員、引いては他の教授やばあちゃんにも迷惑がかかる。俺一人で完結していた以前とはもう違う。俺はたくさんの人の中で生きていて、人と関わることで生かされているのだ。身体に力を込めれば、しゃんと立ち上がることが出来た。

 冷蔵庫の中には見覚えのない食材が入っていた。一リットルペットボトルのスポーツドリンクに、紙パックの林檎ジュース。ゼリー状の栄養補給飲料、栄養ドリンク、ヨーグルト、白桃の缶詰、蜂蜜……。いかにも風邪を引いた時に必要とされる物資の数々だ。自分で買った覚えはなかったので、俺を送り届けたあとに兵頭が揃えてくれたのだろう。

 更に振り返ってキッチンに目をやれば何故か一人用の土鍋がちょこんとコンロの上に乗っかっていた。冬に一人鍋で使っているセラミック製のものだ。何故今出ているのだろうと蓋を摘まみ上げれば、中に入っていたのは三つ葉の乗った卵粥だった。あいつ、こんなものまで作っていってくれたのか。単なるチャラい奴だと思っていたけれど見直した。一人密かに感動し、ありがたく頂くことにした。



「先生さよーならー」

「はい、さようなら」

 二限目の授業を終え外に出ると、キャンパスははしゃぐ学生と蝉の声で賑やかだった。

 本格的な夏を迎え始め、太陽の熱光線も女子学生の肌の露出も増える一方だ。中にはタンクトップ一枚にショートパンツという猛者も居て、せめて上になにか一枚着なさいと膝を合わせて説教してやりたいところだが、熱は下がっても本調子ではない。じろじろと眺めているのは身体に目にも毒なので、結局咳払いして目を逸らすことくらいしか出来なかった。

 空調の効いた館内を歩いてエレベーターに乗り込む。昨日やれなかった分しなければならない作業が山積みだ。また無茶をして熱を出すのは御免なので、優先順位を付けてひとつずつこなしていこう。レポートの採点はいっそ夏休みに廻してとりあえずテスト問題作成とオープンキャンパスの提案をして……。

 ぶつぶつと呟きつつ、回廊状になっている廊下の角を曲がる。すると、講師室の前に見覚えのある姿が立っていた。


「――北山さん」

「先生」

 なんと挨拶をするべきか一瞬迷ったが、いつも通りを心がけて手を挙げた。心の準備は出来ていたので予想よりは遥かに自然な挨拶が出来た。

「ええと、風邪だったんだよね。具合どう?」

「おかげさまで、だいぶ良くなりました」

 まだ少し鼻声ではあったものの顔色は明るい。さすがに若いだけあって治りも早い。

 本村さんや雪先生とも仲の良い北山さんは俺が居ない時は二人とお喋りをして待っていることが多い。もわざわざ外で待っていてくれたということは講師室に誰にも居なかったのだろう。

 ポケットから鍵を取り出し、扉を開けようとすると。

「先生、これ」

 差し出された本は先週彼女に貸していた資料だった。全訳が載った古典全集は図書館でも人気が高く、閲覧したくても発表やテスト近くなれば貸出中になってしまうことがままあるので、俺の私物を貸していた。

「早かったね。まだ持ってていいのに」

「該当箇所は見終えましたから。ありがとうございました」

「そう。役に立ったなら良かった」

 本を受け取る。

 じゃあ改めて中に、と案内しようとすると、彼女は静かに首を振った。表情には優しい笑みが浮かんでいる。いつも通りの表情だ。

「……どうしたの?」

 彼女は動かない。しっかりと俺の双眸を見据えたまま、彼女は「先生」と俺を呼ぶ。

「うん、なに?」

 ばかみたいに明るい声を出していたのは、きっと妙な胸騒ぎを感じていたからだ。

 す、とおもむろに見せられた携帯電話の画面にはあの日の俺の写真が映し出されていた。男だとバレて鮮やかな手付きで撮られた後、高速で保存されたあの一枚。

「ちょ、ちょっと!」

 ここは彼女の部屋ではない。いつ誰が来るともしれない講師室だ。慌てて掴もうとすると、ひょいと彼女は踊るように一歩身を退く。いったいなにを。目にも留まらぬ早さで画面を操作すると、改めて彼女は俺にそれを差し出した。画面に表示されているのはたった一文。


『データを一件削除しました』


「……え?」

 削除? 信じられない気持ちで画面と彼女を交互に見遣る。

 どうして今更消去なんか――。

「先生、解放してあげます」

「……解放?」

 かいほう。カイホウ。日本語だ。漢字も分かる。でも俺は言葉の意味を測りかねている。

「……どういう意味?」

「分かりませんか? もう自由です、っていう意味です」

「自由……?」

「そうです。嬉しいでしょう? 良かったですね」

「ちょっと待ってよ、いきなりなに言ってるの」

 急に首輪を外されても戸惑うばかりだ。

 熱まで出して、ようやく今まで通りでいいと結論を得たばかりなのに。もし俺のことを恨み下僕にして溜飲を下げているのだとしても、俺は、それでも……。

「なんていうか、飽きちゃったんですよね。先生で遊ぶのに」

「飽き……?」

「最初は便利だったんですけど、なんか途中から先生もノリノリだったし? これ以上懐かれても困るんで、この辺が潮時かなって」

 言い放たれる言葉はまるで銃弾だった。

 一発一発、しかし確実に急所を狙い撃つ。

「私も色々と忙しいんで、先生にばっかりかまけてられないんですよ。これからはサークルとかも入ろうかなって思ってるし。……だから、契約を解消しましょう先生。私たちはこれからただの講師と生徒です。こんな風に、個別に会いに来ることはもうしません」

 そして、彼女は最後の弾を銃に込める。


「親が五月蝿いから日文に入りましたけど、私、本当は別に平安文学とかにそんな興味ないし。先生と仲良くしとけば成績にも有利かなって思っただけなので。簡単に騙されてくれてありがとうございました」


 ぺこり、と丁寧に頭が下げられた。

 なにか言わなくちゃと思うのに、考えも言葉も、自分の気持ちすらも纏まらない。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない気持ちがぐるぐると心臓をかき回して、目の前の彼女に焦点が合わせられなかった。

 唯一分かっていたのは、これが彼女から俺への拒絶ということだけ。突き付けられた解放宣言は、俺にとって決してポジティブなものではなかった。

「それじゃ、これで。今までお疲れさまでした」

 驚くほど簡単な言葉で別れを告げ、北山さんは呆然と立ち尽くす俺の前から姿を消した。足が縫い付けられたように動かず、呼吸さえうまく出来ない。


 待って。ねえ。

 北山さん。

 待ってよ。いったいどうして。


「真琴? さっきから誰と話してるの?」

 がちゃんと音を立てて背後の扉が開く。

 顔を出したのが雪先生だということは分かっていたが、それでも俺は振り返ることが出来なかった。どうしたのと心配そうなに声をかけられてもカラカラに乾いた喉はうまく音を発することが出来ず、ひゅうと妙な音を立てるばかりだ。


 北山さん。待って。俺は。


 言葉は届かない。気持ちも同様だ。

 揺れる髪も左右にひらめくスカートも、凛と伸ばした背筋も。

 すべてが網膜に焼き付いて、まるで影送りのような白いシルエットだけが廊下に浮かんでいた。

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