第21話 眠りの淵

それからどのくらいの時間が経ったか。


 目を覚ました時、俺は自宅のベッドに横たわっていた。

 重ねられた布団の下で、身体はじっとりと汗を掻いている。ぼんやりと霞む視界で時計を見上げれば時刻は午後六時を廻るところだった。大学を出たのが午後一時くらいだったから、およそ五時間近く意識を失っていた計算になる。

「……」

 まだ熱は高い。後頭部には鈍いじくじくとした痛みが残っていて、瞼も開けているよりは閉じている方が楽だった。吐いた息が熱く、耳鳴りもする。辛うじて動くのは首から上だけだ。

 ぱさ、と額から枕元へ落ちたのは冷却シートの成れの果てだった。熱を吸い過ぎてそれが熱湯のような熱さを放っている。いったい誰が、これを貼ってくれたのだろう。


「……おぉい」

 ここに運んで来てくれたのは兵頭だった。しっかりしろと声を掛けながら抱えられてここまで来たことをなんとなく覚えている。もしかしてまだ居るだろうかと掠れた声を上げてみると、寝室の引き戸がそっと開いて、リビングの光が差し込むのが分かった。どうやらまだ居てくれたらしい。

「兵頭……水……」

 ばたばたと駆けていく音がして、すぐさま戻って来る。口元に当てられたのはストローだ。身を起こすのも辛いので、ありがたくそこから水を飲む。目を開けていても視界が歪むので、おとなしく閉じておくことにした。

 忙しくなったりキャパオーバーになると熱を出すのは昔からだ。寝食を忘れて作業に打ち込んで、結果心より先に身体にガタが来て寝込むことになる。要するに虚弱体質なのだろう。結局もう一杯お代わりを頼んで、新しい冷却シートを貼ってもらった。おそらく明日の朝には下がってると思うから、と言えばそう、と兵頭は安心したように息を吐いた。

「ごめん、面倒かけて」

 別に、と小さく短い答えが返ってくる。濡れタオルで首周りだけ拭ってもらうと、不快だったベタつきがさっぱりして少しだけ呼吸も楽になったような気がした。

「やっぱりちょっと無理しすぎたな。テスト期間にオープンキャンパスだのなんだの言われたら、さすがになぁ」

「……」

「それにほら、下僕業務もあるだろ。あれ休みとか貰えないし。……お人好しだよなぁ、俺」

 今ではそれが日常で、進んでこなしているのだから。

考えたことはなかったけれど、俺はもしかしてM気質なのだろうか。……いや、違う。それが他の人ならきっと苦しいだけだった。北山さんだったから、俺は、こんなにも。

「まったく、迷惑な話、だよな」

 彼女からしてみれば下僕扱いすることで過去を報復しているだけなのかもしれない。なのに、こんなに迷惑に懐かれてしまって。

 先に裏切ったのは俺の方だった。四月から始まる新生活に胸を躍らせていた俺は憧れの地で小さな約束のことなどすぐに忘れてしまった。薄情だと恨まれても仕方ない。

 迷惑、と兵頭が呟く。

「そりゃあな。あんなに一緒に居るんだ。いい加減気付けって話だろ」

 もし彼女が俺を下僕扱いすることによって鬱憤を晴らしているのであれば、いつまでも呑気な俺に苛立ちだってしたかもしれない。思い出しもしないくせに、へらへらと笑って傍にいて。彼女の気持ちを考えると申し訳なさで胸が詰まる思いだった。

 幼い北山さんは容姿こそ今とは別人だが、中身はほとんど変わっていない。真面目で頑張り屋で、分からないことがあればきちんと質問をする熱心な女の子だった。ソフトボールに夢中になっていた分基礎がいくらか疎かになっていたようだったが、コツさえ掴めば練習問題をスラスラと解いてみせて、俺だけでなくご両親を驚かせていたっけ。拙い褒め言葉に得意げに胸を張って、短期間の間に驚くほどぐんぐんと成長していった。


「……あんな約束、するんじゃなかった」

「……」

「これじゃ、逃げられない」

 芽生え始めてしまった自分の気持ちから。いわゆる恋とは違うのかもしれない。どちらかと言えば親心に近い、彼女を見守り幸せになってもらいたいと思う気持ち。出来ることならそれを俺がしてあげたいと思う気持ち。

 まったく調子の良いことだ。俺が彼女なら今更なにを言っているんだと鼻で笑ってやりたくなる。

「……悪い兵頭、もう少し寝る」

「……」

「もう一眠りしたら良くなると思うから、おまえも気にせず帰ってくれ」


 遠くから了解の返事が聞こえて、俺はゆっくりと意識を手放す。

 目が覚めたならきっと諸々の熱は下がっているはずだ。そうしたら、きっと彼女とも笑って話が出来る。今までとなにも変わらない。そうだ。俺さえいつも通りなら。

 おやすみなさい。水面から呼びかけられた声が、徐々に身体に振動となって伝わる。

 その心地よさに身を委ね、その後俺は夢も見ない深い場所で眠りに落ちた。

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