名もない病にわづらひたまひて、よろづに手を尽くそうとして逆効果
第20話 知恵熱の放課後
「せんせー、顔色悪くない?」
「先生? 大丈夫ですか?」
ぐるぐると渦巻く意識の底で、誰かの声を聞いた気がした。
せんせー、せんせーってば、と繰り返される声をぼんやりと聞いていると、ぺたりと冷たい掌が押し当てられた。ゆっくりと水から浮かび上がるように視界が広がって行く。
ここはばあちゃんの研究室だ。
窓の外からはしゃわしゃわと蝉の声が聞こえる。ブラインド越しに差し込む光が眩しくて、机の上で山になっているレポートのインクの匂いが鼻を刺して、ぶぅんと鈍い音を立てるエアコンの冷風を肌で感じて……。
「……あれ?」
聴覚視覚嗅覚、そして触覚が身体に戻って来て、ようやく世界に色がつく。焦点が合わないほど目の前に碇屋さんの顔と茅野さんの谷間があって、思わず悲鳴を上げてしまった。
「な、な、なに!?」
「なに、はこっちの台詞だよ。大丈夫? ずっとボーっとしてるよ」
「あまり体調が良くなさそうですが、もしかしてお熱でも?」
熱? 自分で額に手を当ててみるがよく分からない。しかし、熱があれば掌の体温だって上がっているのだから分からなくて当然だ。やはり、今日の俺はちょっとおかしいのかもしれない。
先日、ばあちゃん宅で知ることとなった衝撃的事実は、未だ消化不良のまま、どすんと確かな質量を保って俺の中に居座っている。
あのあと俺は結局オープンキャンパスの相談も出来ずばあちゃんの手料理も堪能しきれないまま一人とぼとぼと家路を辿り、シャワーも浴びないままベッドで力尽きてしまった。次の日が休みだったから良かったものの、ただでさえ時間が足りない最中昼過ぎまで寝過ごしてしまった時の絶望感たるや筆舌に尽くし難いものがある。そのツケが廻って、ここ数日家でも大学でも寝食を惜しんで働きっぱなしだった。
「季節の変わり目だからね、体調を崩す人が多いみたいだけど」
「だ、大丈夫ですか? 病院に行かれた方が……」
仲良く同じお弁当をつついている諸見里さんと末松さんの表情もどことなく気遣わしげだ。見慣れた顔と見慣れた部屋。そうか、今は自主ゼミの時間だった。
……あれ、そうなると一体いつ中古文学史の授業を終わらせたのだろう?
「今日は紫も来てないし、早めに切り上げましょうか」
「え? 北山さん、来てないの?」
「……先生、本当に大丈夫ですか?」
碇屋さんが心配そうに首を傾げる。
「紫は休みですよ、さっき先生が仰ったじゃないですか」
「え? ……本当に?」
「重症みたいだね。もうこのまま病院に送ってあげた方がいいんじゃない?」
「……」
重症。そう、確かに重症だ。
今俺の鞄の中には、ばあちゃんのアルバムから失敬して来た写真が一枚突っ込んである。何故そんなことをしたのかは分からない。けれど、ばあちゃんが食器を洗ってくれている最中に、気付けば俺は彼女と一緒に写ったその写真を毟り取っていた。
十八歳の俺と、九歳の彼女。
とりわけ優しくした記憶も、可愛がってあげた記憶もない。いかんせんアルバイトも人になにかを教える仕事も初めてで、今より更にコミュニケーション力不足を露呈していたはずだ。ただ家に通って春休みの宿題の面倒を見つつ、分からないと提示されたところをただ機械的に教えていただけだったはずだ。それなのに。
『でも紫ちゃんも、まさか初恋の人が女装して自分の大学の講師をやってるなんて思いもしないでしょうね』
……あのあと、思い出したことが幾つかある。
再会の指切りをした次の日、俺は京都行きの新幹線に乗っていた。新生活や授業の準備に追われたまま忙しなく四月を迎え、次に東京に帰って来たのはお盆だった。二日間だけばあちゃんの家に滞在して京都へ戻った。その後も同じだ。幾度か上京はしたものの、俺はばあちゃんの家以外を訪れた記憶はまるでない。……そして、俺はそのことを今の今まですっかり忘れていたのだ。
要するに、彼女とした約束は、今の今まで守られていなかったということになる。
「ねーせんせー、もしかして紫となんかあった?」
「へっ!?」
がたーん、と音を立てて椅子からずり落ちた。強かに尾てい骨を打ち付けた俺を茅野さんが覗き込む。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫。……それより、今、なんて」
「だって、同じタイミングに風邪引くなんて怪しいじゃん。もしかしたら伝染るようなことでもしてるのかなーって」
「ち、違うよ! そんな、北山さんとはまったくの無関係で!」
「……うん、分かってるよ。冗談だよ、冗談」
皆の表情は不思議そうを通り越して最早不安そうだ。
「みちる、伝染するようなことって、なに?」
「華は知らなくていいんだよ」
「テスト期間で午後は休講ですし、もうお帰りになった方が」
「そ、そんな、大丈夫だよ」
「でも、明らかに様子が……いえ、具合が悪そうですもの」
言葉に詰まる。礼儀正しい碇屋さんに様子がおかしいとまで言われるなんてよっぽどだ。確かにここで茫然自失のまま時を過ごしていても皆に迷惑が掛かるだけかもしれない。
「今タクシーを呼びますから。今日はもうお帰りになって下さい」
「誰がタクシーだ、誰が」
不満げな文句を聞き流しつつ、芳香剤の香りと煙草の香りが混ざった2ボックス車の助手席に滑り込む。熱だけでなくどうやら頭痛と寒気も併発しているらしく、気が緩んだら覿面に頭がグラグラした。
「……悪かったよ、今度奢るから」
「よし、葵ちゃん付きな」
車の運転と女性の扱いは同じだと豪語する兵頭の運転は気持ち悪いほど優しかった。車は駐車場を出て静かに目白通りを右折する。窓の外には授業を終えた帝女の学生達が多く見受けられ、テスト期間だというのにどこかはしゃいだ様子で駅までの道のりを歩いていた。
「で? 本当に病院じゃなくておまえの家でいいの?」
「うん、……多分、知恵熱みたいなもんだから」
「知恵熱ぅ? なによ、なんか悩み事?」
言うか言うまいか少し迷ったが、一晩考えても自分一人では熱を出すことしか出来なかった。俺とは正反対の思考回路を持つこいつならなにかいい解決策を見出してくれるかもしれない。頼るにはやや不安の残る一縷の希望に縋り、赤信号を見計らって件の写真を差し出した。
「……これ、見て」
「なにこれ」
「俺と、北山さん」
「北山さんって……え、これゆかりんなの?」
驚きの余り兵頭が肘でクラクションを鳴らした。停車していた前の車からじろりと睨まれ、慌ててジェスチャーで謝る動作をする。そら見たことか。やはり女好きでも驚くほどの変身ぶりなのだ。
「え、どういうこと? 知り合いだったってこと?」
「らしい。この間、ばあちゃん家に行った時に知った」
「これ、高校の時だよな? いつの話?」
「大学入る直前。……春休みに、家庭教師に行ってたんだって」
「行ってたんだってって……おまえ、覚えてなかったの?」
痛いところを突かれ黙り込む。
そう、覚えていなかった。その事実が巡り巡って今、八年後の俺を妙に苦しめている。
「なに、昔会ってたことが分かって、運命でも感じちゃったの?」
「……別に、そういうことじゃない」
そういうことじゃないけど、妙に意識してしまっているのは事実だ。
別人のようになっていた北山さんにまったく気がつていなかったこと、再会の約束をしたけれど結局それきりだったこと、あまつさえ彼女の初恋が俺だったらしいこと……説明しているうちにとんでもなく自意識過剰なような気がしてきて、最後の方はやたらと早口に「北山さんだって覚えてないんだし別にどうってことないよな」と誤魔化すように話を畳んだ。
するとそれまで黙って話を聞いていた兵頭が、意外な疑問を口にした。
「……おまえさ、初恋の相手の名前って覚えてる?」
「は?」
「いいから答えろって。年齢と名前は?」
「……ない」
「は?」
「聞き返すな。居ないって言ったんだよ」
「居ない? ……てことは、今まで女子を好きになったことがないっていうことでファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサーだよ! なんか文句あるか!」
強いて言うならばあちゃんなのかもしれないが、そんなのは強いて過ぎる。ばあちゃんはあくまで理想というだけであって、初恋という括りにしてしまうには色々と弊害があることくらい、いくら鈍い俺でも分かる。ならばあちゃん以外で誰かと考えると……該当者はいない。恋愛どころか友達付き合いすらしてこなかった俺だ。平安文学があれば俺の青春は満足だった。
「俺の初恋はさ、幼稚園だったんだよ。チューリップ組のハヤカワ先生。気の強そうな顔した美人でさ。園児にも優しいってよりは厳しい人だったんだけど、笑った顔が可愛くって。今考えれば、葵ちゃんにちょっと似てたのかも」
「……ふぅん」
兵頭の益体もない話を聞きつつ、車が目白通りから明治通りに入ったところで俺はウィッグを外した。ここまで来ればもう学生の目はない。熱も手伝ってちっとも冷静に働かない頭を冷まそうと思ったが、蒸れているのはどうやらウィッグではなく頭の中のようだ。
「……で、今のおまえのどうでもいい初恋話が、俺にいったいなんの関係が?」
だからぁ、と兵頭がじれったそうに身体を揺らす。
「初恋相手の名前は普通忘れないってこと。それが年頃の女の子なら尚更」
「……」
「ミツセマコトなんて名前、そうそうないだろ。親戚なら親だって覚えてるだろうし」
「それはまぁ、そうかもしれないけど……」
ばあちゃんだって北山さんのことを覚えていたくらいだ。
……そもそも、ばあちゃんは誰から北山さんの初恋話を聞いたんだ? 普通に考えて情報源は『北山さんの奥さん』、つまり彼女のお母さんだ。家庭教師に紹介したり、定期的にお互いの子供(孫)の話をしあうんならばちゃんだって俺のことを話したりもするだろう。それを、同じように北山さんに報告することだってあるかもしれない。
そうだ、この写真は彼女のお母さんが撮ったものだと言っていた。あれがもし焼き増しなら彼女の手元にも同じ写真があるかもしれない。どこかで目にする可能性は俺よりも高かったはずだ。そして俺は北山さんに男であることがバレている。バレているどころか下僕にされている。なおかつ、高校時代からほとんど見た目が変わっていない。
以上から、導き出される論理的帰結は?
「――あえて、覚えてないフリをしてる」
「……なんでだよ」
心を読まれたような気がして、決まり悪さにじろりと兵頭を睨みつける。
「んー、可能性としては三つだな。イチ、再会が恥ずかしくて覚えてないフリをしている。ニ、初恋をなかったことにしたくて覚えてないフリをしている。んで、サン」
「……」
「おまえのことを恨んでいて、覚えてないフリをしている」
流し目と共に物騒な単語が飛んで来て、思わず息を呑んだ。俺を、恨んで?
……いったいどうして。
「だっておまえ、約束破ったんだろ?」
「破った、けど……」
「初恋の人から約束を破った人になって、恨みの対象になった。彼女にしてみれば黒歴史だ。だからあえて覚えてないフリをして、おまえを下僕として扱っている。ほら、筋通ったじゃん」
確かに筋は通った。まっすぐで太い見晴らしの良い筋だ。……行き着く先は、もうそこしか見えないくらいに。
恨んでいる。彼女が、俺のことを。それは、想像以上に重い打撃だった。
こき使われているし、中々に酷い扱いを受けているとは常々感じていた。しかしそれは彼女と俺なりの良好な関係というか、お互いが尊重し合っている主従関係というか。ちっともうまい表現が見当たらないけれど、要するに俺たちは、ええと……ああ、なんだかもう、頭がぐらぐらしてなにも考えられない。
「まぁでも、下僕とか言いつつゆかりん結構おまえに優しいし、俺に言わせてもらえば恨みっていうよりは……」
「……」
「……おい、光瀬?」
『その代わり、先生は私の下僕です』
あの笑顔の裏で、彼女は再会した俺への恨みを募らせていたのだとしたら。ああコイツだ。幼い私との約束を破った奴だ。弱みも握ったことだしせいぜい復讐してやろうなんて思っていたのだとしたら。
俺は彼女の下僕だった。無理難題を命じられて平日も休日もなく彼女に尽くして、俺自身文句を言ったり疲弊したりしていたはずなのに。
いったいいつから俺は、彼女の側が心地良いと思ってしまっていたのだろう。
「大丈夫か? しっかりしろ、おい光瀬!」
泥のように重い身体は動かない。窓ガラスに落ちた額、重力に負けた瞼。
混濁する意識の向こう側、うぉんとエンジンが一唸りしたのを最後に慌てる兵頭の声が徐々に遠のいていった。
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