第19話 思い出の後先
小学校入学から高校卒業までの十二年間、俺は世田谷にあるばあちゃんの家で暮らしていた。
元々は小学校卒業までに両親が帰ってくる予定だったのだが、どこまでも自由なあの二人には日本よりも海外の水の方が体質にあっているらしく、帰国の予定は一年延び二年延び、結局俺が二十七歳を迎える年齢になってもあの人らは未だに現役で海外を飛び回っている。たまに帰国した時は結婚しろとか孫の顔を見せろとか好き放題言って、じゃあまたと風のように去って行くのだが、俺にとって両親とはそういう存在だった。
普通なら親が与えてくれるであろう愛情や常識を代わりに与えてくれたのはばあちゃんだ。優しくて上品で、母とよく似た顔立ちでありながらも性格は正反対の大和撫子であるばあちゃんは俺の自慢で、小学校の作文で尊敬する人はばあちゃんだと書いて教師を感涙させたこともある。「お母さん達と離れて寂しいのに偉いわね」という評価に不満を覚える程度には、俺は本気でおばあちゃん子だった。
ばあちゃんは俺の尊敬する人であり、理想の女性であり、自慢の家族。今も昔も、それは変わらないままだ。
「はい、お味噌汁」
「ありがとう」
久しぶりに訪れたばあちゃんの家は相変わらず綺麗に整頓されていた。
駅から少し離れた場所にある閑静な住宅街の一角、古い洋館のような外観は船乗りだったというじいちゃんの趣味で建てられたものらしい。鱗のような壁にそれを覆う緑鮮やかな蔦、可愛らしい三角屋根には真鍮製の風見鶏もついている。ガーデニングが好きなばあちゃんの庭は緑濃く、今は初夏の花が至るところで鮮やかな色彩を咲かせていた。
食卓の向かい側に座った俺を眺め、ばあちゃんはうふふと嬉しそうに微笑む。
「なに?」
「男の子の格好してる真琴ちゃん、久しぶりに見たから」
「……そうだね」
言われてみれば大学ですれ違う時は孫娘になっている。女装ばっかりうまくなってしまって男の姿で居る時は反動で身なりに気を遣わないので、今も着古した灰色のパーカーと、洗いざらしのジーンズという格好だ。
「女装もいいけど、やっぱり真琴ちゃんはそのままでも可愛いわ」
「そんなこと言ってくれるのはばあちゃんくらいだよ」
俺は化粧映えするらしい顔立ちらしいが、翻せば化粧をしなければパッとしない顔だということだ。ぼさぼさ頭に黒縁眼鏡の孫を可愛いと言ってしまう辺り、ばあちゃんも相当な親バカならぬ祖母バカなのかもしれない。
案の上オープンキャンパスの出し物が思い浮かばなかった俺は、本村さんと雪先生の意見を鵜呑みにしてばあちゃんに相談することにした。すると、「せっかくなら一緒にご飯を食べながら話しましょうよ」という提案を受け、授業の後わざわざ着替えてからここまでやってきた訳だが、その甲斐はもう十分にあった。食卓に並ぶ鯖の味噌煮にしめじの味噌汁、ほうれん草のみぞれ和えに自家製の茄子の漬物に特製のだし巻き卵。久しぶりのばあちゃんの手料理に舌鼓を打つ。
「美味しい?」
「うん、すごく美味しい」
「良かった。やっぱり誰か一緒に食べてくれる人が居た方が作り甲斐があるわ」
最近は専ら自分が作っていたので、誰かが作ってくれた料理は余計に美味しく感じる。……なんて言ったら、「それは嫌味ですか?」なんて、また怒られてしまうかもしれないけれど。
「なぁに?」
「えっ?」
「笑ってるから。なにかいいことでもあった?」
「いや、ごめん。なんでもない」
「そう? 今度は真琴が好きなオムライスにするから、また食べにいらっしゃい」
自分が料理上手だとは思わない。でも、彼女の「ごちそうさまでした」を聞くのは決して悪い気はしない。誰か一緒に食べてくれる人が居た方が作り甲斐があるという言葉に、一人密かに頷いておく。
「そういえば、ゆかりちゃんが日文に入学したんですってね」
うんうん、とついでに頷きかけて、「え?」と顔を上げる。聞き覚えのありすぎる名前に丁度口に入れた瞬間だった茄子が詰まりそうになって、麦茶で流し込んだ。ゆかりちゃん。いったいどのゆかりちゃんだろう。
「覚えてない? ほら、北山さん家の」
「……ばあちゃん、北山さん知ってるの?」
俺がすべて受け継いだはずなので、ばあちゃんは一年の授業は一コマも受け持っていないはずだ。それ以前に、どうして彼女のことを『北山さん』ではなく『ゆかりちゃん』と呼ぶのだろう。
浮かぶ当然の疑問を口にすると、ばあちゃんはしぱしぱと目を瞬かせた。
「覚えてないの? あなた高校生の時、紫ちゃんのおうちに家庭教師に行ってたことがあるでしょう」
「え?」
俺が? 北山さんの? ……家庭教師?
高校時代。家庭教師。
……そうだ、俺は高校三年春休み、最初で最後のアルバイトを体験した。今は亡きじいちゃん方の親戚の家に小学生の女の子が居て、どうしてもと乞われ電車で二駅先の家まで国語と算数を教えに行ったのだ。
そこまでは覚えている。問題は、そこから先だ。
「……同姓同名の人、とかじゃないよね?」
「違うわよ。だってこの間北山さんの奥さんから直接聞いたんだもの。帝国女子大学の日文に紫ちゃんが入学したって。うっかり真琴が居るって言いそうになっちゃって、危なかったわ」
ぼんやりと脳裏に浮かんだ面影はショートカットの女の子だ。
確か地域のソフトボールクラブだかに所属しているとかで、冬なのに真っ黒に日焼けしていたことを覚えている。運動は好きだけど勉強は苦手で、春休みの課題が全然終わらないと困っていた。……いや、困っていたのは親御さんだったか? 記憶力には自信があるのに、肝心要の女の子の姿がシルエットでしか浮かばない。
いまいちピンと来ない様子の俺を見て、ばあちゃんが「ちょっと待ってて」と居間の方からなにか本のようなものを持って来る。重厚感のある革張りの表紙には細かい花をモチーフにした金箔押しが施されていて、まるでアンティーク洋書のような趣だった。
「これね、真琴のアルバムなの。琴音と秀司さんが帰って来た時に見せると喜ぶから、小学校の時からずっと作ってるんだけど」
ぱりぱりと音を立てて開いた最初のページには、学ラン姿の俺の写真が貼ってある。どうやらこのアルバムは高校の入学式からスタートするらしい。桜の下、入学式の看板の横で少し恥ずかしそうに笑顔を浮かべる俺は特に今と風貌も変わっていない。入学式、体育祭、文化祭、修学旅行……ロクに友達付き合いもして来なかったので基本的に写っているのは俺一人だが、ごく稀に兵頭がピースサインで映り込んでいるものもある。
「あ、ほら、これ」
ばあちゃんが指を指したのは、ページの終盤。左ページまでは卒業式の写真で埋まっているが、右ページには卒業から大学入学までの短い春休みの思い出が切り取られていた。部屋の下見がてらばあちゃんと二人で行った京都旅行の合間に、そっと一枚だけ。どこか見覚えのある家で鉛筆を持って懸命に問題を解く女の子と、それを覗き込む俺の姿。ちり、となにかが記憶の底を刺激する。
「北山さんから頂いたの。よく撮れているでしょう?」
記憶通りショートカットでよく陽に焼けた素肌は今のイメージとはほど遠いが、大きな瞳と鼻筋は確かに北山さんの面影があった。十年近く昔の写真で少しだけ色褪せてはいたものの、触れればその時の空気が徐々に胸に蘇る。先生と控えめに呼びかけられた声がどこかくすぐったかった記憶。出してもらったショートケーキの甘さ。一人で問題が解けたとはしゃぐ声。……あれは、北山さんだったのか?
「紫ちゃんね、進路でだいぶ揉めたんですって。ほら、ソフトボール部だったでしょうあの子。スポーツ推薦で他大学からスカウトも来てたらしいんだけど結局蹴ることになっちゃって」
「スポーツ推薦……」
「運動神経抜群だったから、引く手数多だったみたい。授業料も全部負担するから来てほしいっていう大学もあったって」
聞けば聞くほど俺の知っている北山さんに結びつかない。確かに動きが鈍いタイプではないけれど、推薦が取れるほどのスポーツウーマンだとは思いもしなかった。俺だけではない。街行く人に彼女を見せて印象を聞いて廻れば、百人中百人が彼女を清楚なお嬢様だと答えるだろう。
「で、紫ちゃんとは会ったの?」
「……えーと、会ったっていうか、名前を知ってるくらいだけど」
俺に明け渡してからというもの、ばあちゃんはまったく自主ゼミには顔を出していない。 もう既にバレている上にほとんど毎日一緒に居るなんて講師としてあまり褒められた話ではない。やましい気持ちはありませんあくまで下僕ですなんて胸を張る訳にもいかないし、なんとなく嘘をついてしまう。
「そう。学生達にはあなたが私の孫だって知られてないから大丈夫だとは思うけど、くれぐれも気を付けてね」
「う、うん」
それにしても、妙なところで繋がりを知ってしまったものだ。
俺が彼女の家庭教師をしたのはたったの二週間程度のことだ。一度として北山さんからそんな話を聞いたことはなかったが、やはり彼女も覚えていないということなのだろうか。変に蒸し返すよりは黙っていた方が良いかもしれない、となんとなく考える。
大学から推薦が来るほどの腕を持ちながらソフトボールを辞めてしまったのには深い理由があるのかもしれないし、下手に突つけば不興を買うかもしれない。
そうだ。何事もなく、今まで通り接するのが一番……。
「……?」
『先生、あのね』
ちり、とどこかで胸を焼く感覚がする。
『約束だよ。先生、あのね。私、――から』
俺は、なにか大事なことを見落としている気がする。
『だから、こっちに帰って来た時は、必ずまたうちに来てね。本当だよ、絶対だよ。約束だからね。指きりげんまんだからね』
……約束。
そうだ、最後の家庭教師を終えた帰り、俺は針千本の約束をした。また会いに来ると絶対約束だと何度も念を押されて。
その後俺は、彼女の家を訪ねたか?
いや、俺の記憶が確かなら、俺はあれきり――。
「紫ちゃんも、まさか初恋の人が女装して自分の大学の講師をやってるなんて思いもしないでしょうね。……って、あら? これ言っちゃ駄目だったかしら?」
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